卒業証書とブービートラップ
「……先輩、何ボケッと窓の外見てるんですか。ボタン、まだ一個も奪われてないくせに」
卒業式が終わり、静まり返った放課後の文芸部室。
パイプ椅子に浅く腰かけ、グラウンドを眺めていた俺――神崎 陸の背中に、呆れを含んだ声が突き刺さった。
振り向くと、そこにはブレザーの上に黒いマフラーを巻いた少女が立っていた。
後輩の一ノ瀬 葵だ。
少し吊り上がった大きな瞳、丁寧に整えられた黒髪のボブカット。いつも通り全身黒尽くしの葵が、どこか小生意気な笑みを浮かべてこちらを見下ろしている。
「奪われてないんじゃない。守り抜いたと言ってくれ」
「言ってることが負け犬のそれなんですよ。制服のボタンなんて、余ってたら後輩に恵んであげるくらいの甲斐性を見せてください」
「残念ながら、俺のボタンを欲しがるような物好きな後輩は一人しか思い浮かばないな」
「へえ、誰ですかその物好きって?」
「目の前にいる、図々しい2年生」
俺が指をさすと、葵は「心外ですね」と大袈裟に胸に手を当ててみせた。
「私はただ、卒業祝いに先輩の第二ボタンをメルカリに出品して、売上金で文芸部の部費を潤そうと考えていただけです」
「悪質すぎるだろ。ていうか俺のボタンが売れるわけないだろ」
軽口を叩き合いながら、葵は俺の向かいの席にストンと腰を下ろした。
カバンを机の上に置き、脚を組む。その仕草ひとつ取っても、1年間この部屋で見てきた聞き慣れた、見慣れた光景だった。
だが、今日でそれも終わりだ。
俺の手元には、丸められた卒業証書の筒がある。
胸元には、式で配られた胸章の赤いリボン。
もう明日から、俺は制服を着てこの門をくぐることはない。
「……静かですね。下級生も、もうみんな帰ったのかな」
葵が不意に、窓の外へ視線を向けた。
校庭のあちこちに残っていた人影もまばらになり、春の冷たい風が桜の蕾を揺らしている。
「そうだな。式が終わってからもう2時間以上経つしな」
「先輩が『部室の片付けをする』なんて嘘ついて、ここに逃げ込んできたからですよ」
「逃げてない。俺はただ、静かに浸りたかったんだよ」
「嘘ばっかり。本当は、後輩たちから別れを惜しまれなくて寂しかったんでしょう?」
「うるさい」
葵はクスッと悪戯っぽく笑った。
……本当は、違う。
俺がここに逃げ込んできたのは、人混みが嫌だったからでも、後輩に囲まれなかったからでもない。
葵と、ふたりきりになりたかったからだ。
そして同時に――この放課後が終わってほしくないと、情けなくも足掻いていたからだった。
俺と葵の出会いは、ちょうど一年前の春だった。
廃部寸前だった文芸部に、ひょっこり入部届を持って現れたのが葵だった。
「本を読むのが好きだから」というシンプルな理由で入ってきた彼女は、物静かな文学少女……かと思いきや、信じられないくらい口が達者で、生意気で、そして誰よりも真っ直ぐな奴だった。
部員が俺と葵の二人だけになってからは、放課後の部室は俺たちの「溜まり場」になった。
原稿用紙に向かって悩む俺の隣で、葵が勝手に買ってきたアイスを食べていたり。
お互いの書いた短編を読み合っては、「先輩の文章、ちょっと気取りすぎてて恥ずかしいです」「お前の文章こそ、オチが安易すぎるんだよ」と不毛な批評会を開いたり。
秋の文化祭。二人で協力して作った部誌が全部売れた時、誰もいない廊下で人目を盗んでハイタッチをしたこと。
冬の寒い日、暖房の効きが悪い部室で、一つの缶コーヒーを分け合って飲んだこと。
どれもこれも、なんてことのない日常だった。
けれど、俺の高校生活の後半は、間違いなく葵を中心に回っていた。
(……俺はいつから、こいつのことが好きだったんだろうな)
自分でもあきれるほど、いつの間にか惹かれていた。
生意気な口調の裏に見え隠れする細やかな気遣いや、本を読んでいる時の真剣な横顔、たまに見せる柔らかい笑顔。
だが、俺は一度もその気持ちを言葉にしなかった。
『先輩と後輩』という絶妙なバランスで成り立つの居心地の良さに甘えていたし、何より、告白して振られて、この関係が壊れてしまうのが怖かったからだ。
「……先輩?」
考え込んでいた俺の顔を、葵が覗き込んでいた。
距離が近い。ふわりと、彼女の髪から甘いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。
「なんだよ」
「顔、怖いですよ。そんなシワ寄せてると、せっかくの卒業式なのに写真映えしません」
「写真はもう十分撮ったよ。親と、クラスの奴らと」
「私とは撮ってないじゃないですか」
そう言って、葵は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。
「ほら、寄ってください。卒業の記念です」
「おい、勝手に……」
拒否する間もなく、葵は俺の隣のパイプ椅子に移動し、肩が触れ合うほどの距離まで詰めてきた。
画面の中に、緊張した面の俺と、満足そうに微笑む葵が映る。
カシャ、と電子音が響いた。
「よし、綺麗に撮れました。先輩の顔、引きつってますけど」
「お前の距離が近いんだよ……」
「減るもんじゃないでしょう。……それとも、私と写真撮るの、嫌でした?」
葵がスマートフォンを伏せ、少しだけ首をかしげて俺を見つめてくる。
いつもの生意気な瞳に、一瞬だけ、切なさのような色が混ざった気がした。
「……嫌なわけ、ないだろ」
ぽつりと漏らした俺の言葉に、葵は小さく息を飲んだ。
室内を、重い沈黙が支配する。
遠くで運動部の声が聞こえるけれど、この部屋だけが世界から切り離されたみたいに静かだった。
「先輩」
「ん?」
「……大学に行っても、私のこと覚えてますか?」
「忘れるわけないだろ。こんなに毎日俺の邪魔をしてきた後輩をどうやって忘れろって言うんだ」
「邪魔だなんてひどいです。私は先輩の執筆活動を全力でサポートしていたんですよ」
「原稿の締め切り前に『先輩、ドーナツ買ってきてください』ってパシリにしてたのがサポートか?」
「あれは脳に糖分を補給させるための高度な戦略です」
ふっと、二人で同時に笑った。
でも、その笑顔はすぐに消えてしまった。
「……寂しくなりますね」
葵がポツリと呟いた。
膝の上で握りしめられた彼女の小さな手が、かすかに震えているのが見えた。
「春からは、この部室に私一人です。新入生が入ってくれればいいですけど……もし誰も来なかったら、私、ずっと一人で本を読むことになります」
「大丈夫だよ。お前なら、すぐに面白い後輩捕まえて巻き込むさ」
「私を引き留めてくれる先輩は、もういませんよ」
直球すぎる言葉に、胸がズキリと痛む。
違う。俺だって寂しい。
大学に行きたくないわけじゃない。でも、明日から放課後にここへ来ても、お前がいない世界なんて、想像しただけで心が押し潰されそうになるんだ。
(言えよ、陸。最後なんだから)
『好きだ』と。
『本当は、お前と離れたくない』と。
だが、喉まで出かかった言葉は、またしても恐怖によって塞がれてしまった。
今日で卒業する俺が、これから残される葵に好きなんて伝えて、どうする?
遠距離……というほどの距離ではないけれど、環境が変われば会う頻度も減る。
ただの自己満足で彼女を縛り付けるのは、身勝手なんじゃないか?
「……まあ、たまには遊びに来てやるよ。 OBとして」
「……」
「だから、泣くなよ」
強がって見せた俺の言葉に、葵は唇を強く噛み締め、俯いてしまった。
「……先輩のバカ」
小さく吐き出された声は、怒っているようでもあり、泣いているようでもあった。
「もう帰ります」
葵が唐突に立ち上がった。
カバンを肩に掛け、背中を向けたままドアへと歩き出す。
「葵――」
「送ってくれなくていいです。一人で帰れますから」
その声は完全に湿っていた。
ここで「じゃあな」と言って手を振れば、俺たちの関係は『仲の良い先輩と後輩』として綺麗に完結する。
傷つくこともなく、誰も責めることのない、完璧で美しい思い出として。
――本当に、それでいいのか?
胸の奥で、熱くたぎる、火山が爆発した。
格好つけてどうする。
傷つくのが怖いからって、自分の気持ちから逃げて何が文芸部だ。
後悔を残して卒業するなんて、一番格好悪いじゃないか!
「待てよ!」
俺は椅子を倒す勢いで立ち上がり、駆け寄って葵の手首を掴んだ。
「……なにするんですか。離してください」
「離さない」
「卒業生だからって、威張らないでください……っ」
振り払おうとする葵の手の力は、驚くほど弱かった。
俺は強引に彼女の体をこちらに向かせた。
葵の瞳からは、大きな涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。
真っ赤になった目で見つめ返してくる彼女の顔を見て、胸が締め付けられる。
「ごめん。俺、ずるかった」
「何がですか……」
「傷つくのが怖くて、ずっと嘘ついてた」
「嘘……?」
「部室の片付けなんてどうでもよかった。後輩に囲まれなかったからここに来たんじゃない。俺は……最後の最後まで、お前と一緒にいたかったんだよ!」
葵が息を飲む。
「俺は、お前が思ってる以上に、お前のことが好きだ」
「……え」
「生意気なところも、アイス一口ちょうだいって言ってくる図々しいところも、文章を書く時の真剣な顔も、全部好きだ。先輩としてじゃなく、一人の男として、一ノ瀬葵が好きだ!」
叫ぶように吐き出した。
言っちまった。ついに言ってしまった。
心臓が破裂しそうなくらい脈打っている。顔が熱くて、どうにかなりそうだ。
葵は涙を浮かべたまま、ぽかんと口を開けて俺を見ていた。
数秒の、永遠のように長い沈黙。
やがて――葵の顔が、見る見るうちに真っ赤に染まっていった。
「……っ、遅いですよ!」
「え?」
「遅いです、先輩のバカ!!」
葵が叫び、掴まれていた手を振り払うと――そのまま俺の胸の中に飛び込んできた。
ドスン、と軽い衝撃。
葵の細い腕が、俺の腰の後ろに回され、力いっぱい抱きしめられる。
「私が……私がどれだけ今日まで待ってたか、分かってるんですか……!」
「葵……?」
「卒業式で誰にもボタンあげてないの見て、ちょっと期待して……でも部室で全然格好つかないことばかり言うから、もう諦めて帰ろうと思ったのに……!」
「お前、俺のこと……」
「好きですよ! 大嫌いで、大好きな先輩です!!」
胸元に押し付けられた葵の頭から、涙声が漏れる。
俺の片思いじゃなかった。
葵も、俺と同じ気持ちでいてくれたんだ。
あふれ出る愛おしさを抑えきれず、俺は葵の背中に手を回し、ぎゅっと抱き返した。
コート越しに見える彼女の体は小さくて、少し暖かくて、愛おしくてたまらなかった。
「……葵」
「なんですか……」
抱きしめたまま名前を呼ぶと、葵がゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳と、真っ赤な頬。
至近距離で視線が交差する。
どちらからともなく、顔が近づいた。
唇と唇が触れ合う。
柔らかくて、少しだけ涙の味がして、甘い。
時間にすれば、たった2秒か3秒のことだったと思う。
けれど、その僅かな時間の中で、世界から全ての音が消え去ったような気がした。
ゆっくりと顔を離すと、葵は熟したトマトのように真っ赤になって、自分の唇を手で覆った。
「……っ! な、なに懸命にドサクサに紛れてキスしてるんですか!」
「ドサクサじゃない! 流れで……いや、俺もお前が好きだから……!」
「~~~~っ! 春の陽気のせいです! あと窓から見えた桜のせいです! 先輩のせいじゃありません!」
「桜のせいにするなよ!?」
さっきまでの感動的な雰囲気が一転して、いつものギャグみたいなやり取りに戻る。
でも、お互いの顔は赤いままで、繋いだ手はしっかりと握られたままだった。
葵はフイッと横を向くと、照れ隠しのように小さく咳払いをした。
「……まあ、責任取ってくださいね」
「責任?」
「大学に行っても、週末は絶対に私とデートすること。それから、新しい作品書いたら一番に私に読ませること。……いいですね?」
「……ああ。約束する」
俺がうなずくと、葵は今度こそ、心からの嬉しそうな笑顔を咲かせた。
「あ、そうだ。先輩」
「ん?」
部室を出ようとした時、葵が思い出したように俺の制服の胸元に手を伸ばした。
指先が、第一ボタンではなく、心臓のすぐ上にある第二ボタンに触れる。
「これも、せしめておきますね」
「『せしめる』ってなんだよ文学少女。ほしいなら持ってけよ」
「いいえ、今はまだ預けておきます。先輩が大学で浮気しないためのブービートラップです」
「物騒だなあ……」
パチン、と葵がボタンを指で弾いた。
「卒業、おめでとうございます。陸先輩」
「……ああ。ありがとな。葵」
夕日が差し込む静かな校舎を、俺たちは手を繋いで歩き出した。
高校生活は今日で終わる。
でも、俺とこの小生意気な後輩の物語は、きっとここから新章突入するのだ。
満開にはまだ少し遠い、春の桜並木の下で。




