第06話 襲来する魔物
穏やかだった村の朝は、突如として地獄に変わった。
遠くで響いていた重く低い地鳴りは、瞬く間に村を覆い尽くすような咆哮へと変わる。
それは単なる獣の唸りではない。
世界そのものが揺れるような、禍々しい響きだった。
地平線の彼方から木々をなぎ倒しながら現れたのは、黒い皮膚に覆われた巨大な四足の魔物。
その姿は、まるで地獄の業火で鍛えられたかのような異形。
背丈は馬の二倍以上。
全身から禍々しいオーラを放ち、口からは粘ついた唾液がだらだらと滴っている。
その中には焼け爛れた鳥の死骸や、得体の知れない肉片が混じっていた。
鈍く輝く、岩のような巨大な爪が地面を抉りながら、一歩、また一歩と村へと迫ってくる。
その歩みは確実で、そして無慈悲だった。
「っ、魔物だ! 化け物が出たぞ!!」
「逃げろ、みんな逃げろ! こんなの相手にできるわけがない! 死ぬぞ!」
悲鳴と怒号が入り交じる村の通り。
今まで見たこともない巨大な魔物の出現に、村人たちは瞬く間にパニックに陥った。
赤ん坊を抱いた母親の叫び声、老人の呻き、若者の焦燥。
誰もが命を惜しみ、我先にと納屋や森の奥へと逃げ惑う。
秩序は完全に崩壊し、ただただ純粋な恐怖だけが村を支配していた。
数人の若者が、震える手で錆びた剣を構えようとするが、その動きはあまりに頼りなくすぐに魔物の威圧に怯え、地面にへたり込んだ。
ガルドは、その光景をただ呆然と見つめていた。
足はまるで鉛のように重く、地面に縫い付けられたかのように動かない。
脳裏に、あの日の光景がフラッシュバックする。
王都の広場、アレスとゼノスの冷酷な言葉、聖女セフィアの諦めにも似た眼差し――。
(……っ、あの時と、同じだ)
「ご主人様!」
後ろから、ルーナが駆け寄ってくる。
小さな手がガルドの服の裾をぎゅっと掴み、必死に引っ張った。
その手は、震えるガルドとは対照的に、驚くほどしっかりとしていた。
「ご主人様!早く、逃げましょう!このままでは危ないです!動いてください!!」
だが、ガルドの体は動かなかった。
まるで凍りついたかのように、足が言うことを聞かない。
――何も変わっていない。
彼の心は、過去の無力感と屈辱に囚われたままだった。
脳裏で、勇者アレスの声が冷たくこだまする。
――お前の魔力じゃ、何の役にも立たない
――足手まといだ。役立たずは、ここにいるな
魔導士ゼノスの嘲笑が、耳の奥に響く。
――無能は無能らしく、畑でも耕していろ
聖女セフィアの、諦めにも似た眼差し。
誰も、自分の言葉を聞かなかった。
誰も、自分の力を信じてくれなかった。
――ただの召喚士、失敗作、落ちこぼれ。
あの日の屈辱が、再び彼の心を締め付け、呼吸すら苦しくなる。
「……まただ。俺は、また何もできないのか……!くそっ!なぜだ……なぜ俺は、いつも……!」
拳が震え、奥歯が砕けそうなほど食いしばられる。
恐怖と絶望が全身を貫き、内側から彼を麻痺させていく。
村人が魔物の爪に倒れ、血飛沫が上がる。
家々が瓦礫と化し、木製の壁が悲鳴を上げて崩れ落ちる。
子どもたちの悲鳴が木霊するなか、ガルドはただ――何もできなかった。
立ち尽くすことしか、できなかったのだ。
己の無力さを、これでもかと突きつけられ、喉の奥から悔恨に満ちた呻きが漏れる。
「――ご主人様、下がっていてください」
その瞬間、静かで、しかし凛とした声が耳に届いた。
まるでガルドの中に響く絶望を、打ち消すようなその声。
絶対的な意志を帯びたその響きに、ガルドはハッと顔を上げた。
すぐ近くでルーナの気配が――それまでとは比べものにならないほど劇的に変わっていた。
甘えん坊の幼い声ではない。
そこにあったのはどこまでも冷静で、恐ろしく、そして鋭く澄んだ響き。
全身から溢れ出る魔力の奔流が、ガルドの肌をひりつかせる。
空気が粘つき、重く、ルーナを中心にして世界そのものが歪んでいるようだった。
「『あれ』は、ただの下級魔獣です。取るに足らない存在。ご主人様に手出しはさせません……この身をかけても護り抜きますから、ご安心を……私にすべてお任せください。二度と、ご主人様を傷つけるような真似はさせません」
ガルドが見上げた先で、ルーナの紅い瞳が、これまで見たこともないほど強く輝いていた。
その輝きは、まるで血潮の色を映したかのように深く、底知れない力を宿している。
それは幼い少女の瞳ではない。
数千、数万年の時を宿し、世界そのものを映す光。
彼女の細い指が、すっと宙をなぞる。
まるで古の契約陣式を、無形の空間に寸分の狂いもなく描くかのように優雅で、そして圧倒的な速度で動いていく。
その指先から黒い粒子が舞い、空気中に不気味な文様を刻み出す。
「――『魔王』の名において命ずる。跪け、無智なる獣――我が主人の敵となる者、赦されはしない。滅び去れ。存在ごと、消え去るがいい!」
ルーナの言葉と同時に、小さな体から絶大な魔力が噴き出す。
それは納屋を吹き飛ばし、村の空気そのものを震わせるほどの圧力。
空間が、彼女の意志に呼応して歪む。重力すら捻じ曲がるような感覚。
黒い魔物が咆哮を上げ、巨体を揺らしながら、最後の抵抗とばかりに突進してくる。
その巨体は一瞬でガルドの視界を覆い尽くし、牙が剥き出しになり、生暖かい吐息が届いた。
――次の瞬間、空間が『ねじれた』。
物理法則が崩壊したかのような、理解不能な現象。
魔物の巨体が、まるで蜃気楼のように揺らめき、唐突に咆哮が掻き消える。
雷鳴のような轟音が鳴り響き、魔物はまるで紙切れのように空高く吹き飛ばされた。
それは単なる衝撃波ではない。
魔物の存在そのものが、『消された』のだ。
木々を薙ぎ倒し、地面に大きな亀裂を刻みながら魔物は遠くの森の奥へと叩きつけられ、やがて轟音と共に、静寂が訪れた。
あたりには、わずかに魔物の血肉の臭いが漂うのみ。
村人たちは、あまりの出来事に声も出せず、ただ呆然と立ち尽くす。
恐怖に引きつっていた顔は、今や驚愕と畏怖へと変わっている。
その視線は、倒れた魔物ではなく――静かに立つ少女、ルーナに注がれていた。
ガルドもまた、信じられないものを見ていた。
白銀の髪が魔力の余波を受けて風に舞い、紅の瞳は恐怖すら超えた威厳を宿している。
その小さな体が、世界を従えるほどの力を秘めていることを、誰もが否応なく理解させられた。
ルーナはゆっくりと振り返り、ガルドに優しい――だがどこか悟ったような微笑みを向けた。
それは、幼い少女のそれではない。
世界の理を知り尽くした『支配者”』だ。
「……ご主人様……ガルド様、もう怖がらなくていいんですよ。私はここにいます。あなたは、私の『大切な人』ですから。これからは、私がすべてを解決します。何も心配いりません。二度と、あなたに苦しい思いはさせませんから」
その言葉は、確かに優しかった。
その声には甘さが混じり、幼い少女の温かさがあった。
――だがその奥底には、世界を掌で転がすような、圧倒的な“支配者の響き”が、確かに孕まれていた。
ガルドは、自分がとんでもない存在を――いや、『存在たち』を呼び出してしまったのだと、ようやくこの瞬間肌で実感し始めていた。
彼の人生は、文字通り、根底から、そして不可逆的に塗り替えられようとしていたのだ。
その常識は、目の前の少女によって、完全に破壊されたのである。
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