第12話 封印の核
ガルドとルーナは、瘴気に満ちた『嘆きの洞窟』の奥へと、一歩ずつ足を踏み入れていった。
ルーナの手は冷たかったが、そこから確かな温もりが伝わってくる。
「くそっ……やっぱり空気が重いな……。大丈夫か、ルーナ?」
「はい。私は大丈夫です……でも、ご主人様こそ無理しないでくださいね」
そう答えるルーナの顔にも、薄く汗がにじんでいた。
普段は余裕の笑みを浮かべる彼女も、封印の結界には抗いきれていない。
「この瘴気……ただの毒気じゃない。魔力そのものが重い……」
「お兄ちゃんの封印結界です。瘴気もその一部。……でも、もうすぐです」
ルーナの胸元で、黒い石が脈打っていた。
赤黒く、まるで心臓のように規則的に。
「ご主人様……気配が強くなってます。あの奥に――!」
二人がたどり着いたのは、広く開けたドーム状の空間だった。
その中心に――それはいた。
直径五メートルを超える漆黒のスライム。
その姿はおぞましくも荘厳で、禍々しい魔力を放っている。
「っ……あれが、お前の兄……なのか?」
「……はい。間違いありません。お兄ちゃんです。ずっと、ここに……」
ルーナが駆け出そうとするが、すぐにその体が崩れ落ちる。
「ルーナっ!」
「う、うぅ……近づけません……封印が、まだ強くて……」
ガルドは慌てて支える。ルーナの身体は冷たく、顔色は真っ青だった。
「くそっ……せっかくここまで来たのに……!他に方法はないのか?」
ルーナは震える手で、胸元の黒い石を差し出した。
「ご主人様……この石を、お兄ちゃんに……触れてください。お願いです……ご主人様の魔力なら、きっと届く」
ガルドは一瞬、迷った。
だが、ルーナの必死な眼差しが、それ以上の言葉を求めさせなかった。
「……わかった。任せろ」
ガルドは、ルーナの手から黒い石を受け取り、深く息を吐いた。
それは、自分の中に眠る恐怖を無理やり押し込めるような呼吸だった。
(怯えてなんかいられない。俺が、やるしかないんだ……)
黒い石を握りしめ、ガルドはスライムに向かって一歩、また一歩と歩みを進める。
足元の地面が重く感じるのは、瘴気のせいだけではない。
押し潰されそうな緊張と、魔力の圧力が、彼の足に鉛のような重さを与えていた。
「っ……くそ……この空気……魔力が……身体の中で暴れて……っ!」
黒い石をスライムに向けてかざした瞬間――ズン、と腹の底から突き上げるような衝撃が走る。
それは、まるで彼の魔力が強制的に引き出され、何かに飲み込まれていくかのような異常な感覚だった。
「うっ、あ……っ、ぐあああああっ……!」
頭に鋭い痛みが走る。
視界がぐらりと揺れ、膝が崩れそうになる。
握っていた石が熱を持ち、掌に焼き付くような痛みをもたらす。
(ダメだ……これ以上は……このままだと……っ!)
「ご主人様、ダメですっ!!」
ルーナの叫び声が、瘴気のこもる空間に響いた。
「今だけ……私の魔力を重ねてください! 早く、私の手をっ!」
「ルーナ……っ!」
朦朧とする意識の中で、ガルドは必死に手を伸ばした。
どこか遠くに感じる彼女の気配が、彼を引き戻す唯一の灯火のようだった。
そして――小さな手が、彼の指先に触れた。
その瞬間、ぴたりと波のように流れ込む『力』があった。
「っ……これは……!」
熱かった魔力が今はまるで冷たい清水のように整っていく。
暴走しかけていた魔力が安定し、鎮められていくのを、ガルド自身がはっきりと感じ取っていた。
「大丈夫です……! 私が、ご主人様の力を包みますから……!」
ルーナは震える手でしっかりとガルドの手を握り返す。
彼女の紅い瞳は真剣そのもので、そこには一切の迷いがなかった。
――二人の魔力が、完全に重なった。
黒い石が閃光のように輝き、瘴気の膜が音もなく砕け散っていく。
巨大なスライムの身体が、光に包まれながらゆっくりと形を変えていく。
「っ……見て……ご主人様……!」
ルーナが震える声で呟いた。
スライムの輪郭がぐにゃりと歪み、徐々にその身体は収縮を始めた。
黒い液体が渦を巻くように集まり、骨格を形成し、筋肉が張り付き、肌が現れ――
そこに立っていたのは、一人の青年。
精悍な顔立ちに、鋭い雰囲気をまとった、まるで戦場に降り立ったばかりのような男。
髪はルーナと同じ銀色。しかし、目を閉じたままのその表情には、深い眠りの痕跡が残っていた。
「……お兄ちゃん……っ」
ルーナの手が震える。
彼女は思わず膝をつき、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
瞳には、熱い涙が滲んでいた。
「届いたんですね……ご主人様の魔力が……お兄ちゃんに……」
ガルドもその場に膝をつき、大きく息を吐いた。
その顔には疲労と安堵が入り混じった色が浮かんでいた。
「……ありがとう、ご主人様」
ルーナが静かに、しかし確かな声で告げる。
「本当に……あなたがいてくれて、よかった……」
その言葉には、妹としての切実な祈りと、従者としての誠実な感謝の、両方が込められていた。
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