第4話 母の血
こんばんは、ジュニ佳です。
物語を紡ぐたびに、わたしたち自身も救われています。
読んでくださるあなたの存在が、何よりの力です。
どうか優しい夜をお過ごしください。
夜のリビング。ローテーブルの上には、先生から返されたテストが置かれている。紙の端がわずかにめくれ、天井の灯りを反射していた。
父は腕を組み、その紙をじっと見つめていた。表情には真剣さが滲む。
「咲菊、この成績について話し合いたいんだ」
重い口調に、私は思わずため息をついた。
「またその話? 別に悪くないでしょ」
スマホは手元にない。それが逆に落ち着かず、私はなんとなく視線を落とす。
「確かに悪くはない。でも、得意な科目と苦手な科目の差が極端すぎる」
父の声には、優しさと厳しさが混じっていた。
「数学は満点だったが、英語は平均点以下だ」
「数学は好きだから、自然と頭に入るの。英語なんてどうせ使わないでしょ」
わざと突き放すように言ったが、父は深いため息をつき、テスト用紙を指で押さえた。
「英語が重要だという話じゃない。将来の選択肢を広げるために、苦手を克服する努力も必要なんだ」
また“将来”。その言葉に、私は無意識に顔をしかめる。
「どうでもいいじゃん。やりたいことなんてまだ決まってないんだから」
反射的に反抗的な口調になってしまった。父は黙って私を見つめ、少しの間を置いてから問いかける。
「本当にどうでもいいのか?」
その言葉には叱責ではなく、心の奥に踏み込んでくるような重みがあった。
「例えば数学が得意なら理系に進む道もある。逆に英語を磨けば、海外の可能性も広がる」
反論できないのは分かっていた。けれど素直に受け入れる気にはなれない。私は思わず口を開いた。
「じゃあ、お父さんは私にどうして欲しいの?」
父は微笑んだ。
「それを決めるのはお前自身だ。ただ、得意や興味を基に進路を考えるべきだと思う」
私は俯き、テスト用紙に視線を落とす。数字が黒々と並んでいるのに、急に意味を失った落書きに見えた。
ふと口をついて出た。
「ねえ、お父さん。赤いカウボーイブーツのこと、覚えてる?」
父は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「もちろんだ。五歳の誕生日のプレゼントだったな。いつも履いていて、どこに行くにも手放さなかった」
懐かしそうに目を細める父。その横顔に、一瞬胸がざわつく。
「それ、どこに行ったか覚えてる?」
「引越しの時に片付けたはずだが……どこにしまったかは覚えていない。どうかしたのか?」
「……別に。ただ思い出しただけ」
軽く流したつもりだったが、父の視線は鋭く私を捉えた。問いただされる前に笑顔を作り、話題を戻す。
「もし数学に向いてるとしたら、どんな進路があるの?」
父は再び落ち着きを取り戻し、淡々と語る。
「エンジニア、データサイエンティスト、建築家……あるいは、お母さんのように科学者になる道もある」
「科学者……」
母の影が静かに立ち上がる。
父は「母さんは数学に強かった」と誇らしげに言った。
けれど私は、母が選んだ道の果てに待っていたのは失踪だったことを思い出す。
「もしかしたら、お母さんと同じ職業を選ぶのかもしれない」
ぽつりと呟くと、父は嬉しそうに微笑んだ。
部屋に戻り机に向かうと、父の言葉が頭の中でこだました。鉛筆を走らせる音が、静まり返った部屋に響く。宿題を終えると、自然にノートを開き、超弦理論の方程式を書き連ねる。
紙の上に広がる数式は、まるで自分だけにしか分からない秘密の言語のようだった。
「……やっぱり、私は母の血を継いでるのかもしれない」
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。母が選んだ道は、希望と同時に何か取り返しのつかないものを奪った道でもある。
それでも、私は数式の迷宮に没頭していった。
【予告】
少しずつ未来を意識し始めた咲菊。
次回は、進路指導室で担任の先生と向き合い、思いがけず自分の才能を突きつけられる場面が描かれます。
そして、彼女の口から飛び出すのは――衝撃の一言。
物語は、日常と非日常の境界をさらに揺さぶり始めます。
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