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守る華・守られる花  作者: ミシル
第三章 サザンクロス

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99.片想い秘書

バレンタイン商戦の企画が採用されてから、私はこれまで以上に慌ただしい日々を送っていた。


お盆休みも、私にとっては“休み”なんて言えない。


秘書業務をこなしながら、バレンタイン商品の打ち合わせ。

場所の確保やデザインは社員みんなで協力して進めてくれるけれど、最終チェックは私の役目だ。

確認を終えたら田中さんと三瓶さんに渡し、OKが出ればボスへ報告。


琴音もSNS映えを狙って、先輩たちと一緒に工夫を凝らしてくれている。


その合間には、ボスと莉子さんのReとのコラボ企画にも同伴する。

こちらはすでに最終段階。


化粧品の中に花を閉じ込めたシリーズ。

リップに花が入っているのは見たことがあったけど、今回は口紅だけじゃない。

アイシャドウにも、チークにも花を散りばめ、ほのかな香りまで添えられている。


可憐で華やかで、思わず手に取りたくなる。

――女心をくすぐること間違いなしの商品だ。


新商品発表会は11月11日。

残り2ヶ月。

今日からはモデルとの打ち合わせも始まり、本番へ向けて準備は一気に加速していく。


もちろん、そこには莉子さんの姿もある。

私は、ボスと莉子さんが並んで仲睦まじく話す様子を、ただ後ろから見つめるだけだった。


胸の奥がきゅっと痛む。

“別れたりしないかな?”なんて、心のどこかで思ってしまうのが正直な気持ち。

でも――ボスが莉子さんと一緒にいて幸せなら、それを壊す権利は私にはない。

私にできるのは、ただ見守ることだけ。


本当は、私がボスを幸せにしたい。

でも、それは私の一方的な願いでしかない。

幸せは、二人が同じ気持ちで分け合ってこそ成立するものだから。


ボスが心から笑える相手が莉子さんなら、それでいい。

それに――田中さんも言っていた。

「あの二人は別れることはない」って。


私はボスを蘭明だと信じ、

「運命の相手は私です」なんて宣言したけれど、実際は自信なんてほんの少ししかない。

だって、ボスの瞳は莉子さんしか映していない。

私はただの秘書。


あきらめたわけじゃない。

でも今は、仕事に夢中になっている自分がいる。

それがせめてもの救いであり、私の前を向かせてくれる力になっていた。


「おはようございます、ボス」


____カツ、カツ、カツ、カツ。


私のヒールの音が、静かなロビーに響く。

会社に着く直前、ボスから「もうすぐ着く」と電話があり、私はロビーで待っていた。


やがて姿を現したボスが目の前を歩き、その背中を追いかけるように私はついていく。

エレベーターのボタンを押し、二人で乗り込んだ。


「本日の予定です。11時よりReとのコラボ商品のパッケージを東明工場にて最終確認。

13時よりSES本社にてブライダルフェアの打ち合わせ。

16時半にはバレンタイン商品のドライフラワーチェックです。


また、13時からはReの新商品発表会に向けたモデルのリハーサルが入っていますので、私はこちらに同行します。SESの打ち合わせはボスお一人でお願いします。16時半には必ず戻ります」


「分かった。モデルのほうは順調か?」


「はい、特に問題はありません」


「ならいい。――今日は18時には上がる」


「かしこまりました。珍しいですね、定時に上がるなんて。何かご予定でも?」


「ああ。莉子とディナーだ」


「そうでしたか。では18時までにドライフラワーのチェックを終わらせましょう」


前を向いたままのボスの背中。

私の胸の内を知るはずもなく。


思わず、つぶやいてしまった。

「……私の気も知らないで」


「何か言ったか?」


――しまった。こんな小声まで拾うなんて、ほんと地獄耳。

「い、いえ。何も」


____カーン。


ちょうどエレベーターのドアが開いた。


「よし、じゃあ、この15種類でいこう」


「「はい!」」


「神崎、この15種類の在庫確保を頼む」


「かしこまりました」


「以上だ」


「「お疲れ様でした」」


ミーティング部屋から皆が出て行く。


「神崎、あとは頼む」


「分かりました。ボスはデートですね」


「ああ、じゃあ、よろしくな」


ボスは軽やかな足取りで部屋を出て行く。背中は、まるで心から楽しみにしている子どものようだ。

――私ではなく、莉子さんとの時間を。


あのときの告白は、もうボスの頭の中にはない。

私の存在は、ただの秘書――いや、それすら霞むくらいに、莉子さんに夢中だ。


惨めだ……。


ボスが幸せなら、隣が私じゃなくても構わない。

でも、胸の奥は、悲しみと寂しさと、悔しさでぎゅうぎゅうに押し潰されそうになる。

思いと現実がねじれ合い、どうしても整理できない。

その矛盾に、自分で自分を責めたくなる。


――どうしても、知ってほしい。

ボスに、「あなたは蘭明だ」と気づかせたい。

でも、もし気づいたとしても、私の気持ちは届くのか?

莉子さんじゃなく、私を選んでくれるのか?


いや、それは違う。私を愛してくれたのは、確かに蘭明で――今のボスではない。

どんなに心で叫んでも、どんなに近くにいても、私の願いが叶うとは限らない。

だから怖い。怖くて、たまらない……。


私は背中を丸め、机の上の資料を無意識に握りしめた。

心の奥で、どうしようもなく切ない想いが波のように押し寄せる。


――もう一度、蘭明に会いたい……。


秋晴れの空の下、冷たい風が頬を撫でる。


あっという間に、Reとのコラボ商品の発表会まで残り1ヶ月となっていた。

ボスは別の予定で不在。今日も私一人、モデルの確認に立ち会っている。


今日はデザイン部とモデルとで、当日に着る着物の衣装合わせ。

着物を着て踊ることは聞いていたし、いつも練習には付き合っている。

見るだけ――でも、今日は着物のデザインにも初めて触れる。


目の前に出てきた着物に、思わず息を呑んだ。


――“すずらんの刺繍が施された赤い着物”


心臓が一瞬止まったような感覚。

これは、私が彩国で踊り手ナンバー1になったとき、蘭明の前で最後に舞うつもりで着た、あの“すずらんの刺繍が入った赤い着物”と同じ……。


……嘘でしょう?

偶然?必然?鼓動が急に早くなる。


「神崎さん、大丈夫?」


デザイン部の社員が私の変化に気づき、声をかけてくれる。


「あ、はい……大丈夫です。ありがとうございます。この着物のデザインは……」


「素敵でしょ。デザイン部で考えたんだけど、すずらんを入れろってボスの指示だったのよ」


「ボスからですか?」


「そう。今回のコラボのテーマは『女性は化粧をするたびに再び幸せが訪れる』だから、すずらんの花を入れたいって」


「そうなんですね……この着物、本当に素敵です」


胸の奥に、寂しさと喜びが入り混じる。

言葉にできない、複雑な感情がぐるぐると渦巻いていた。


屋上から見える月はどんよりとしていて、星は一つも見えない。

このキラキラと輝く都会の明かりのせいだろう。


日中見た、すずらんの赤い着物が頭から離れない。

なぜ、ここに同じ着物があるのだろう。


ボスが指示したすずらん――

新しい自分の道を切り開く喜びの着物。

蘭明と終わりにすると決めた悲しみの着物。


どうして今、この時代に、同じ着物が存在するのだろうか。


「やっぱり、ここにいたか」


その声に振り返ると、ボスが温かいミルクティーを差し出してきた。


「ありがとうございます。何か用事ですか?」

「いや、特にはないけど、ずっと見当たらなかったから、ここかなと」


私は一口、ミルクティーを飲む。

「温かい……」


なのに、なぜか涙がこぼれた。

胸の奥に押し込めていた記憶が、ひとつずつ蘇る。


「どうした、神崎。仕事、大変か?」

「あっ、すみません。忙しいですけど、すごく楽しいです」


涙を拭い、笑顔を作る。

「なら、いいんだけど」

ボスはそれ以上、聞いてこなかった。


「ここの空は暗いだけだな。下はあんなに明るいのに」

「そうですね」

「また時間があれば、あの月がきれいに見える場所に連れて行ってやるよ」

「本当ですか?」

「あー」


冷たい風の中で飲むミルクティーが、少しだけ心を温める。


「なぁ、神崎、聞いていいか?」


フェンスにもたれ、ブラックコーヒーを飲むボスを私は不思議そうに見た。

「今さらだけどな、香り袋の案って、俺と莉子を見てひらめいたってやつか?」


香り袋……

「はい、そうです。昔、そんな光景を見た気がしたんです。ある女性が香り袋を、私が好きだった人に渡していて、その人も笑顔で受け取っていました。それで思いついたんです」


「それって結構キツくないか?神崎はフラれたってことだよな?」

ボス、あなたが原因です――なんて言えるわけがない。


「そのときはすごく辛くて逃げ出したけど、後で誤解は解けたので……って、ボス、いきなりどうしたんですか?香り袋の提案のとき、具合悪そうでしたよね?」

「いや、特に意味はない。気にするな。今のペースで準備を進めろ」


「はい。あっ、ボス、私も聞いていいですか?」

「なんだ?」

「Reとの発表会で、モデルが着る着物のすずらん、ボスが提案したって聞いたんですが……」


もしかして、ボスは何かを思い出したのかも……少し期待してしまう。


「あー、俺が入れるように言っただけだ。テーマがすずらんの花言葉と同じだったからな」

「えっ、それだけ?」

「あー。それだけって何だよ」

「いえ、素敵なデザインだったので、もっと深い意味があるのかと……」


あぁ、ただの偶然か……また期待した自分が馬鹿だった。

「俺も分からないが、コラボ企画のときになぜかすずらんが頭に浮かんだんだ」

「本当ですか!?それ以外には何か浮かびませんでしたか?」

「さっきから何だ、特にない」


ですよね……たまたまですよ、たまたま。


「ボス、寒いですね。そろそろ戻りましょう」

これ以上聞いたら、悲しくなりそうだった。

自分で話を切り上げる。


胸の奥で、あの赤いすずらんの着物――蘭明のことを思い出す。


明日、10月18日はボスの26歳の誕生日だ。


一応、秘書としてプレゼントを用意しようと、私はデパートの中を歩いていた。

きっと、莉子さんからも素敵な贈り物をもらうんだろうな……。


私はどうしよう、どんなものを渡せば喜んでくれるのか。心の中で少し迷いながら、紳士服売り場を見て歩く。


すると、一つのネクタイピンが目に止まった。

シルバーの光沢に、端には小さな蓮の花が繊細に彫られている。


一目で心を奪われた。

「これにしよう」


シンプルな黒のネクタイと組み合わせれば、きっと上品に映える。


ボスくらいになると、ブランド物のネクタイやネクタイピンを身につけているのだろうけれど、私には手が出せなかった。

まぁ、そういう高級なものは莉子さんが贈るだろうし、私は私なりに心を込めたプレゼントを――。


このネクタイピンをボスがつけている姿を想像すると、なぜか胸の奥がほんのり温かくなり、思わず笑みが込み上げた。


「ボス、おはようございます。そして、お誕生日おめでとうございます」


ボスの部屋の前で立ち止まり、深呼吸してから挨拶を告げる。


「ありがとう」

少し照れくさそうに微笑むボスが部屋に入っていくのを見送りながら、私は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。


昨日買ったプレゼントはまだ渡していない。

直接渡すのは少し恥ずかしい。高価なものじゃないし、だからこそ帰りにこっそり机の上に置こうと考えていた。


「ボス、今日は予定はありませんよね!」

私は部屋に入ると、自然を装って声をかけた。


「はぁ?」

「今日は誕生日なので、私はあえて入れませんでした。モデルの練習とバレンタインの打ち合わせがありますが、ボスは今日ぐらいゆっくりしてください。夜は……莉子さんとですよね?」


「あー」

「では、定時に上がってくださいね。では、私はモデルの練習へ行ってきます」


部屋を出ようとした瞬間、ボスが声をかけた。


「神崎」

「はい、ボス」

「ありがとうな」


その一言が心に刺さる。思わず満面の笑みになった私。


「どういたしまして」

言葉だけでも、胸がいっぱいになった。


その後、モデルの練習に向かい、会社に戻ったのは18時半。

定時を過ぎていたが、もちろんボスはすでに退社しており、残った社員たちがわいわいしている。


私は迷わずボスのデスクに向かい、プレゼントと「Happy Birthday Boss」と書いたメッセージカードをそっと置いて仕事に戻った。


「守華!戻ってきたんだね」

琴音が笑顔で声をかけてきた。


「香り袋について調べたんだけど、全然いい案が浮かばなくて……守華、教えてくれない?」

バレンタイン企画も形になりつつある中で、琴音はどうアピールするか悩んでいるらしい。


私も同じ。初めてのことにやる気はあるのに、空回りしてしまう。


「えーっとね、香り袋は古代中国で……」

分かる範囲で琴音に説明する。


「なんか、素敵だね。今の時代、LINEとかで気持ちを伝える人が増えてるじゃない?そんな中、こうやって昔の方法で伝えるってすごく素敵」

琴音の目がうっとり輝く。


「守華は?誰かにあげたいとか思ったことある?」

「え?私……んー、企画しか頭になくて、誰かにあげたいなんて考えたこともなかった」


言われてみれば、確かに考えたことはない。

ボス……?でも、莉子さんとのラブラブを見てイライラするなら、蘭明みたいにちょっと臭い香り袋でもこっそり鞄に忍ばせてみようかしら……なんて、心の奥でふと思う。


「もう、こんな時間じゃん!今日は帰るね。守華、ありがとう。参考にするね」


なんだかんだで琴音と話し込んでいたら、いつの間にか8時を過ぎていた。

私はもう少しだけ仕事してから帰ろうと思う。


9時、会社を後にする。

いつもは電車で帰るけれど、今日はなぜか歩きたくなり、普段とは違う道を選んだ。

電車で2駅の距離を歩くと、30〜40分で家に着く。


「今頃、ボスは莉子さんに誕生日を祝ってもらってるのかな……」

ため息をつきながら空を見上げる。

吐いた息がこの季節のせいで白くなった。


____ドン、ボコ、バシッ!


突然、激しい殴る音が響いた。

「人にぶつかっておいて、よく睨めるな」

「ゲホッ、ゲホッ」


音の方に顔を向けると、四人ほどの男たちが誰かを囲んで殴り蹴りしている。

足が勝手にそっちへ向かう。


目を細めて見た瞬間――


「ボス!!」


ボスだった。

なんで!?莉子さんと一緒じゃなかったの!?


私は無我夢中でヒールを手に取り、殴っている男たちに投げつける。


___カコーン


一つ目が見事に頭に命中した。

「ってー、誰だ!」

振り向いた瞬間、二つ目のヒールも投げつけ、これも命中。


「くっそ!」

「うちのボス、いじめるのやめてくれない?」

「ボス?こいつがか?」


四人の男たちは大笑い。

ボスの顔を見ると、血が流れていた。


駆け寄る。

「ボス、大丈夫ですか?」


座り込むボスが顔を上げる。

「神崎か……何しにここに」

「ボスを守るためです」

「危ない、逃げろ」

「ボス、酒臭い……」


まずはここからボスを連れ出さなければ。


「おい、女!」

男たちが近寄る。

私は睨みつけるが、手を取られる。


「ボス、ちょっと待っててください」

取られた手をひねり、押しのけ、思いっきり蹴り上げる。


「私がまとめて相手してやる」


いやらしい目で見てくる男たち。

気持ち悪い。


一気に攻撃をかわし、回し蹴りで応戦。

動きはスローモーションのように見え、あっという間に四人はボコボコにされ、逃げ去った。


「ボス、ボス!大丈夫ですか?」

反応がないボスを揺さぶる。

「ボス!!」


「そんなに揺するな」

「生きてるなら返事してくださいよ!」

「女に守ってもらうなんて、ボス失格だな」

「言ったじゃないですか、私はボスのSPだって」

「……神崎、本当に強いんだな。あずさが興奮する意味、わかったよ」


「とりあえず、行きましょう。立てますか?」

ボスに肩を貸し、歩き出す。


「偶然通りかかってよかったけど、通りかかってなければボス、死んでたかもしれませんよ」

「そーだな」


「ったく、ボスはやっぱり私がいないとダメなんですよ」

元気のないボスに気づき、あえて笑顔を見せて歩く。


ボスの家に着き、中に入る。


「ボス、とりあえず怪我の手当しますね。救急箱とかありますか?」

「そこの棚の中だ」


ボスはソファに横になり、指で棚を示した。

私は救急箱を持ってそちらに向かう。


「せっかくのイケメンな顔も、これじゃ台無しですよ。ちょっとしみますけど我慢してくださいね」


消毒液を垂らすと、ボスは痛そうに顔をしかめたが、そのまま手当を続ける。

「はい!これで完了です。明日、社員たちが見たら絶対驚きますよ」


ニヤリと笑う私の前で、ボスは今にも泣き出しそうな表情をしていた。

私は水をくみ、ボスに差し出す。


横になっていたボスがゆっくり起き上がり、水を飲む。


「ボス、莉子さんは?」

「……」

「なんでボス、やけ酒なんてしてるんですか?」


見ればわかる。莉子さんと何かあったのだ。


「莉子との待ち合わせに向かう途中、電話が来たんだ。仕事が長引いて今日は無理って。仕事だから仕方ないと思ったよ。

 でも帰る途中で、莉子と男が歩いていて……その男にキスをしてた」


「えっ……」

「いや、うすうすは気づいてた。他に男がいるかもって」


「その場で、ボスはどうしたんですか?」

「男と別れた後、莉子を止めた。莉子もまさか見られるとは思ってなかったんだろう、焦ってた。でも、俺が構ってやらなかったから寂しかったって言うんだ。

 俺が悪い、でも俺はそこまで心広くなれない。だから、別れを告げてきた」


「嘘……だから、やけ酒?」


ボスが莉子さんを好きだったのはわかる。

私にとっては嬉しいことだ。

だって、ボスはフリーになったのだから。


でも、辛いよね……好きな人が目の前で他の人とキスしていたなんて。


私はソファに座るボスを抱きしめた。

「神崎……」

「今日はボスの誕生日ですから、特別に私の胸を貸してあげます。誰も見てないから、泣いてもいいですよ」


「なんだよ……でも、お言葉に甘えて少し貸してくれ」


ボスの手が私の腰に回り、少し強く抱きしめられる。

私の胸から、ボスのすすり泣く声が聞こえてくる。

いつもは強がっているボス。

その弱さを見て、守ってあげたいと心から思った。


「ボス、これでこないだの貸しはチャラですよ」

「神崎……」

「はい」


「いい匂いだ……懐かしい匂いだ」

蘭明も私の匂いを好きだと言ってくれたっけ。

ボスも、私の匂いが好きなのかな……


「ボス」

「なんだ?」

「いつまで私に抱きついてるつもりですか?」

「あっ、わりー」


ボスは少し照れながら私から離れた。

「別にいいですよ、私は。ずっと抱きついてても」


私はニヤリと笑う。

「それに、今さらですが、ボスはフリーになったんですよね?なら、私がボスの心をもらいにいきますから、覚悟しておいてくださいね」


「神崎……お前な。俺が別れたことを慰めてるのか、喜んでるのか、分からないんだけど」

「ケラケラ」


私は笑いながら、ボスを見つめた。



「ボス!その顔、どうしたんですか!?」


会社に着くなり、社員たちから飛んでくる声。

そりゃそうだ。顔はカットバンだらけ。


「ちょっとな……まぁ、気にするな」

気にしないほうがおかしいって!

思わず心の中で突っ込みたくなる。


「ボス、おはようございます」

「おはよう、神崎。昨日は助かったよ」


すれ違いざまに耳元で言われて、思わず笑みがこぼれた。


自分のデスクに戻り、仕事を始めようとしたそのとき、内線が鳴る。


「はい、ボス」

「ちょっと来てくれ」

「はい」


ボス部屋を見ると、カーテン越しで中は白く霞んでいた。


____トントン


「ボス、なんでしょうか?」


ボスの手元には、昨日私がこっそり置いたプレゼントがある。


「あっ、そうだった」

「なんだ、神崎からじゃないのか?」


事件のせいで、プレゼントを置いたことをすっかり忘れていたらしい。


「あ、私からです。置いといたこと、すっかり忘れてました」

ボスが少し笑ってくれた。

よかった、今日も落ち込んでるんじゃないかと思っていたから。


ボスは今のネクタイを外し、私があげたネクタイを手に持つ。


「神崎、付けてくれ」

「えっ、私がですか?」

「そうだ、秘書だろ?もしかしてネクタイの結び方、分からないのか?」

「分かりますけど……」


父のネクタイを何度も結んでいたから大丈夫。

「じゃあ、頼む」


仕方なくネクタイを受け取り、ボスの前に立つ。


「秘書って、こんなことまで本当にするんですか?」

「あー、もちろん」

「いや、絶対嘘でしょー」


ブツブツ言いながらも、身長の高いボスの首元に背伸びしてネクタイを回す。


「男性にネクタイを結ぶの、父以外ではボスが初めてですよ。はい、できました」


顔を上げると、目の前にはボスの顔――

唇がすぐそこにある。


気まずくて固まる。

この唇……奪っちゃおうかな、と思ったけど、やめた。

代わりにネクタイピンを取り、ネクタイに挟む。


「やっぱり、この組み合わせにして正解だった」

「似合うか?」

「もちろん。私がボスのために選んだんだから、似合うに決まってます」

「また、惚れたか?」

「はい!」


頭を撫でられて、心が少し跳ねる。


「神崎、ありがとな。大事にするよ」



その後、ボスは莉子さんときちんと話し合い、お互い納得のうえで別れを決めたという。

すれ違いが重なり、もう一緒にいることが難しかったのだろう。


コラボ企画については、仕事だからと割り切り、発表まで残り1か月を切っている状況でも、ボスはサザンクロスとReで全力を尽くすと決めたらしい。


私とボスの関係は、特に進展もなく相変わらず一方通行。

私が好きな気持ちは募るばかりだ。


仕事中のボスは、いつもの冷たくて淡々とした姿に戻る。

新商品発表会まで時間が迫っており、毎日慌ただしく動くため、プライベートの話にまで及ぶ余裕はない。


そして、ついに――サザンクロスとReのコラボ商品の発表会当日がやってきた。

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