98.時を越える香り袋
ボスの前で泣いてしまったあの日から――
ボスは相変わらず、いつもと同じ態度だった。
……まるで何もなかったみたいに。
あの優しさは、私の勘違いだったのかな。
弱い自分を隠しきれずに泣いてしまったけど、
トントンと頭をなでてくれた手の感触は、確かにあった。
でも、今目の前にいるボスは冷静で、仕事モード全開で。
そのギャップに、心が追いつかない。
「ボス、おはようございます。本日の予定ですが――」
淡々と報告して、ブラックコーヒーを差し出す。
その横顔を盗み見ても、やっぱり変化はない。
書類整理、アポ取り、予約調整。
Reとのコラボ商品資料集め。
花業者との打ち合わせ。
夜は取引先のお偉いさんとの会食。
毎日が忙しさで埋め尽くされ、
気づけば一日が一瞬で過ぎてしまう。
……でも、胸の奥ではあの瞬間が何度もよみがえる。
ボスの低くて落ち着いた声、柔らかく触れられた手の感触。
「涙は、幸せになるために流すものなんだ。いっぱい泣いたほうが、きっと幸せになれる」
あの言葉は――蘭明と同じ言葉だった。
その短い言葉が、まるで冷たい世界の中に差し込む一筋の光のようだったのに.....
優しさを見せてくれたのに、
今はまるでそんなもの存在しなかったかのように振る舞うから、余計に心がかき乱される。
「神崎!」
「はい、ボス!」
「今からRe本社に行くぞ」
「えっ!? 今からですか? 今日は予定に――」
「お呼びがかかった。行くぞ」
「は、はいっ!」
慌ててバッグをつかみ、ボスの背中を追いかけた。
Re本社前に到着したボスと私。
二度目の打ち合わせだけど、やっぱり慣れない。
マリオでいうクッパ城みたいな場所に足を踏み入れた気分だ。
「蓮〜」
手を振りながら近づいてくる莉子さん。
ボスも自然に笑顔で手を振り返す。
私は礼儀正しくお辞儀をした。
「今日も秘書さんを連れてきたのね」
「あー、仕事だからな」
莉子さんの目が、鋭い刃のように私を刺す。
負けじと目をそらさず応戦するけど、内心では「やめて、ライバル視しないで!」と絶叫。
「それより、いきなり呼び出してどうしたんだ?」
「あっ、他の会社で新作が何点か出たみたいだから、一緒に視察に行こうと思って。被ったら大変でしょらう?」
「あー、そうだな」
……あれ?私、完全にお邪魔者扱い?
「ボス、そういうことでしたら、私はいなくても大丈夫かと思いますので先に会社に戻りますが……」
「そうね、秘書さんは……」
「いや、お前の意見も必要だから、一緒についてこい」
ええーっ!?せっかく空気を読んで退こうとしたのに、なんでこうなるの!?
心の中で「マジで、ボスぅ!空気読んでよー!」と叫ぶ私。
しかも、莉子さんの視線がビシリ。
まるで「お前、何様?」と言われている気分。
悪くないのに、私が悪者扱い……。
「でも……」
「なんだ、神崎。俺に逆らうつもりか?」
「いえ……」
仕方なく、気まずさ全開で二人の後ろを歩く私。
――心の中では
「くっそー、あの笑顔め! 後ろから蹴り入れたい!」
「でも、蹴ったら怒られる……いや、蹴る!」
そんな葛藤がぐるぐる渦巻く。
歩きながら、後ろに蹴りを入れる妄想を繰り返す私。
頭の中は完全にアクション映画状態だ。
二人の邪魔をしないように、新商品の化粧品をそっと見て回る。
「可愛い…この口紅」
やっぱり、キラキラしたデザインには弱い。
コップにもつかないのは、本当にありがたい。
「……あ、今、一応仕事中だった」
手に取った口紅をそっと元に戻す。
また一人であちこち見て回る。
心の中では「早く会社に戻りたい……」とつぶやきながら。
一回りして、そろそろ二人に合流しようと戻ってきたとき――目に飛び込んできた光景に、思わず立ち止まる。
二人が仲良く並んで、商品を手に取り笑い合っている。
莉子さんが何かを差し出すと、ボスは嬉しそうに受け取り、にこっと微笑む。
___ドクン
胸の奥が、急に締め付けられるように痛む。
この光景、どこかで見たことがある……。
はっと思い出す。
あれは、蘭明と貴愛奈さまのあのとき――。
香り袋を手渡していた、あの二人の姿。
好きな相手に思いを告げるための、香り袋。
「ボス!思い出したことがあるので、私は先に会社に戻りますね!ボス、今日は予定がないので、ゆっくりで大丈夫ですから」
「では、莉子さん、失礼します」
言い終わると、私は足早に店を飛び出した。
高いヒールをカツカツ鳴らしながら、足早に会社へ戻る。
頭の中ではまだ、香り袋のことがぐるぐる回っていた。
「香り袋なら男性へのプレゼントに使える。
受け取ればOK、受け取らなければNO。
花の香りもいくつか用意して……」
考えごとをしていると――
「あれ?守華じゃん!」
振り向くと、目の前に悠真が立っていた。
「悠真!また会ったね。仕事中?」
「もちろん、守華も?」
会社に戻る途中、偶然会った悠真とつい話が弾む。
話し始めると、女友達のように次から次へと話題が溢れ、笑いが止まらない。
____プップー
盛り上がっていると、突然クラクションの音が響き、二人でそちらを見る。
鳴らしたのはボスの車だった。
運転席の窓が下がり、低い声が響く。
「ボス……」
「神崎、先に会社に戻るんじゃなかったのか?」
私は隣の悠真をチラリと見て、咄嗟に答える。
「戻る途中に偶然会って、話が盛り上がっちゃってつい……」
「お前ら、その辺で立ち話好きな主婦か!?」
悠真が耳元で小声で囁く。
「いつも守華の近くにはボスがいるんだね?」
「そうなの。一応、今は秘書だから、嫌でもいつも一緒なのよ」
嫌そうにそう答えると、悠真はニヤリと笑った。
「ご愁傷様」
その瞬間、ボスの低く冷たい声が響く。
「神崎!」
「はい!」
「早く乗れ、会社に戻るぞ」
「はい!じゃあ、悠真、またね!」
笑顔で手を振り、私はボスの助手席へ駆け込む。
心臓が少しドキドキする。
悠真と笑っていたあの時間が、いきなりボスの存在で引き締まる。
静まり返る車内。
音楽もテレビもついていない、ただの無音。
……気まずすぎる。
「ボス、早かったですね。莉子さんと、ゆっくりお茶でもしてくればよかったのに」
「遊びで行ったんじゃない。仕事で行ったんだ」
――そこは真面目か!? 思わず心の中で突っ込みたくなる。
「なんだ。俺が早く帰ってきたのが不満か? あの男との邪魔でもしたか?」
「アハハハー、そんなわけないですよ、ボス」
……あれ、なんかもっと気まずくなった気がするのは私だけ?
とりあえず話すのをやめて、窓の外へ視線をそらした。
「神崎」
「はい」
――あ、やば。余計なこと言うとまた面倒だから黙ってたのに、今度はボスのほうから話しかけてくる。
ボスは前を向いたまま、低い声で言った。
「思い出したことって、なんだ?」
「え?」
「神崎が言っただろう。思い出したことがあるから、先に会社に戻るって」
「あー……それですね。それは、ボスと莉子さんを見ていて――バレンタイン商戦の企画がひらめいたんです!」
「俺と莉子でか?」
「はい!」
「どんな企画だ?」
「それはまだ言えません。ボスに先に言っちゃったらアドバイスをもらえて、みんなと同じスタートに立てなくなっちゃいます。私は、他の社員と同じ条件で挑戦して、選ばれたいんです」
ボスは少しだけ口元を緩めて、短く答える。
「そうか。……じゃあ楽しみにしてるよ」
無音の車内。
さっきまでの気まずさとは少し違う――胸の奥がほんのり熱くなるような沈黙に変わっていた。
会社に戻った私は、デスクに座るや否やパソコンを開いて「香り袋」について検索をかけた。
すると――出てきた。
私が知らなかっただけで、日本にも一応「香り袋」って存在してたらしい。
でも、やっぱり知らない人は多いはず。
しかも、その香り袋を“愛の告白”に使うなんて……!
陽月国みたいに自分で生地を縫うのもロマンチックだけど、今の時代に合わせたほうが絶対いい。
今の時代といえば――やっぱりSNS映え!
見た目で「欲しい!」って思わせる香り袋……
「あっ!!」
閃いた瞬間、私は慌ててノートを広げ、思いついたことを勢いよく書き殴った。
「神崎」
「はいっ!」
ビクッと立ち上がる私。
振り返ると、そこにいたのはボスじゃなくて田中さんだった。
驚いた顔で田中さんが言う。
「なに急に立ち上がってんだよ、びっくりしたじゃん」
「あ、すみません!てっきりボスかと思って、反射で……」
「どんだけボス恐れてんのさ」
アハハハーと笑って誤魔化す。
「それよりさ、ボスから聞いたよ。バレンタイン商戦でなんか閃いたって?」
「あっ、はい! いまノートにまとめてて……田中さんに企画書の作り方を教えてもらおうと思ってたんです」
「どれどれ」
私は慌ててノートを差し出した。
田中さんが目を通す間、なぜだか妙に背筋が伸びる。
田中さんに一通り目を通してもらう。
ここでOKが出れば、いよいよ企画書へと進める。
「悪くないと思うよ。ただ……“バレンタインの期間限定”っていう特別感を、もっとアピールしたほうがいいな」
「期間限定……ですか。なるほど、分かりました!考えてみます!」
私はノートにメモを取りながら、うんうんと大きくうなずいた。
その後、田中さんに企画書の書き方を一からレクチャーしてもらう。
これで形にできる――。
あとは「期間限定」をどう盛り込むか、そこを詰めれば次のミーティングに間に合う。
***
家に帰ってからも頭の中はフル回転。
「期間限定……期間限定……」
香り袋を“バレンタイン限定”として売り出すのはアリだけど、それだけじゃ弱い気がする。
バレンタインといえば、やっぱり“手作りチョコ”。
相手がどんな味を好きかな?って想像したり、喜んでくれる顔を思い浮かべたり。
自分の気持ちを伝えたくて、一生懸命つくる。
……あの時の私みたいに。
胸の奥がちくりと疼く。
そうだ。
「手作り」って、ただの形じゃなくて――“想いを込めること”そのものなんだ。
「手作り……」
私はつぶやきながら、ノートに新しいアイデアを走り書きした。
5日後。
「では、ミーティングを始める。今日の議題は先日も話したバレンタイン商戦についてだ」
会議室の前に立つ田中さんが、真剣な声でみんなを見渡す。
「各自の企画から、俺が選んだ3つをまず発表する。その上でボス、そしてみんなの意見を加味して最終決定をする」
ごくり、と息をのむ。
この時点で選ばれていなければ、私の企画はそこで終了。
変な汗が背中をつたっていく。
「選んだのは――橋本、鈴木、そして……神崎」
「……!」
自分の名前が呼ばれた瞬間、胸の奥が弾ける。
やった。とりあえずボスの前で、みんなの前で、プレゼンできる。
思わず笑みがこぼれてしまった。
「神崎、勘違いするな。まだ決まったわけじゃないぞ」
冷たい声が飛んできて、私は慌てて表情を引き締めた。
「わ、分かってます!」
「よし。じゃあ、橋本から始めてくれ」
橋本さんの発表、続いて鈴木さんのプレゼンが終わり、最後に私の番が回ってきた。
「最後に、神崎」
「はい!」
立ち上がり、ノートPCを操作してプロジェクターに映す。
会議室が一瞬静まった。
「私、神崎が提案するバレンタイン商戦は――“香り袋”です」
ざわ、と空気がわずかに揺れる。
私はスライドを指し示しながら話を続けた。
「みなさん、ご存じでしょうか? 古代中国では告白の際、女性が想いを込めて香り袋を渡しました。相手が受け取れば“YES”、拒めば“NO”。――それが愛の告白の合図だったのです」
そこで私は、無意識にボスの顔を見てしまった。
その瞬間――。
「……っ」
ボスが頭を押さえて、苦しそうに俯いた。
「ボス!? どこか具合でも悪いんですか?」
会議室全体の視線が一斉にボスへと集まる。
だが、ボスは短く息を吐き、顔を上げた。
「なんでもない……大丈夫だ。神崎、続けろ」
「……はい」
胸の奥に不安を残しながらも、私は再び前を向き、プレゼンを続けた。
「本来は女性が袋を縫い、その中に乾燥させた花――ドライフラワーを入れて贈るのが香り袋です。ですが、今の時代は裁縫が苦手な女性も多い。そこで、私は“今風”にアレンジしました」
視線をボスへ向けると、まだ少し顔色が冴えない。それでも私は前を向き、続ける。
「現代の女性が惹かれるのは“可愛いもの”と“限定感”、そして“SNS映え”です。そこで――透明なテトラポット型にし、中身が見えるデザインにしました。中にはドライフラワーと一緒に、ハートの飾りやラメを散りばめます。光を受けるたびにキラキラ輝き、写真を撮りたくなるような仕様です」
スライドを切り替え、次の提案を示す。
「さらに限定感を出すために、全国に特設ブースを設置。どの花を選ぶか、どうブレンドするかは“作る本人”が決めます。よくある“好きなお菓子を自分で詰める”感覚です。バレンタインは、好きな相手を思って選び、作り、渡したいもの。――その気持ちに寄り添えるようにしました。誰一人同じにはならない、自分だけの香り袋。世界にひとつだけの想いを込められるんです」
言い切った瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げる。
「……以上が、私・神崎が提案するバレンタイン商戦です!」
静寂のあと、会議室に拍手が広がった。
「よかったぞ、神崎」
田中さんの笑顔に、胸の緊張が少し緩む。
「ボスの意見は?」と田中さん。
視線を向けると、さっきまで苦しそうだったボスはもう普段の顔に戻っていた。
「ブースの確保が課題だが、今から動けばなんとかなるだろう。神崎の案は、作る側の気持ちをよく考えているし、SNS戦略も的確だ。バズれば一気に広がるはずだ。橋本、鈴木の案も良かったが……今回は神崎のが一番面白いな」
「賛成です!」
琴音が勢いよく手を挙げた。
「SNSにアップしたくなる見た目ですし、友チョコみたいに女の子同士で交換するのにも合います!」
「なるほど。確かに今までにない発想だ」
他の社員たちも頷き合い、次々に賛同の声があがる。
「では来年のバレンタイン商戦は、神崎の提案で進める。具体的な詰めは――神崎、田中、企画部の三瓶、そしてマーケティングの根本に任せる」
「えっ、私ですか!?」
驚いて声を上げた根本――琴音に、ボスが眉を上げる。
「やりたくないのか? SNSは若い根本が一番詳しいと聞いているが」
「や、やります!任せてください!」
琴音は顔を赤くしながら、私に向かってガッツポーズ。
「田中、三瓶。新人二人をフォローしてやれ」
「了解しました」
「今日はこれで解散だ」
ぞろぞろと部屋を出ていく社員たち。
残った私と琴音は、思わず顔を見合わせ、抱き合って小さく跳ねる。
「やったね、守華さん!」
「うん……ほんとに!」
胸の奥が熱くて、涙が出そうになる。




