97.家族が導く答え
仕事が終わり、歩いて帰っていると女性の声が聞こえてきた。
「離してください」
「暇なんでしょ?カラオケいこうよ」
「嫌です!」
女子高生に3人の男が絡んでいた。どう見ても嫌がっている。
私は女子高生の肩に触れていた男の手をガシッと掴む。
「いてててて!」
そのまま手をひねり、女子高生から突き放した。
「大丈夫?」
「えっ…あ、はい」
「お前誰だよ」
「誰だよじゃないでしょ」
昔も今も、女に手をあげる男っているものね。…本当に許せない。
「嫌がってるんだからやめなさいよ。それでも男? 周りから嫌われるわよ」
「…へぇ、よく見たら結構いい顔してんじゃん」
「お前らに褒められても1ミリも嬉しくないわ」
「じゃあ、この女の代わりにお姉さんが相手してくれる?」
やれやれ、本当嫌になる。
「ええ、いいわよ。私が相手してあげる」
その瞬間、回し蹴りを食らわせた。ドンッ。3人のうち1人が地面に転がる。
残り2人が飛びかかってきたが、すべて空振り。
――当たるはずがない。陽月国で刺客十人と渡り合った私にとって、こいつらの動きはスローモーションにしか見えない。
まだ夢だと半信半疑だったけど、身体がちゃんと覚えている。…やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。
「うわ、この女やべえ!」
「やめとこうぜ、無理だ!」
情けなく叫びながら、男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
私は落ちていた自分のバッグと女子高生のバッグを拾い、彼女に手渡す。
「大丈夫?怖くなかった?」
「ありがとうございます…助かりました」
涙目の女子高生は、何度も何度も頭を下げてきた。
「どこに行くの?」
「お兄ちゃんと待ち合わせしてて…」
「一人で平気?ついて行こうか?」
「いえ、大丈夫です。本当にありがとうございました!」
今どきの女子高生らしく、ぺこぺことお辞儀を繰り返して、そのまま走り去っていった。
取り残された私はというと――思わず飛び跳ねてガッツポーズ。
「やった!ちゃんと身についてる!」
嬉しさで胸がいっぱいになる。
陽月国は確かに存在した。夢なんかじゃない。
私は蘭明からもらったミサンガを見つめ、そっと手を空へと掲げた。
心の中で――「また会えるよね」と、ひっそりつぶやきながら。
社内ミーティング。
ボスは前に座り、私はその横でパソコンに内容を打ち込んでいた。
今日のメインは企画部とマーケティング部。
進行役はいつも通り田中さんだ。
「本日は2つ、発表があります」
まずひとつ目は、来年のバレンタイン商戦について。
まだ7月だというのに、もうバレンタインを考えなくてはならないのか――
きっと私と同じように、新入社員たちもそう思っているはずだ。
確かに、クリスマス商戦の企画は、私たちが入社する前にはすでに決まっていた。
「バレンタインは初の試みだ。花は男性から女性へ贈ることが一般的だが、日本では女性から男性へ贈る習慣は少ない。そこで“女性から男性へ花を贈る”をテーマに、気持ちと一緒に届けられる形を考えてほしい」
「はい!」
会議室に声が揃う。
「企画部は、次回までにいくつかのパターンを企画書として出してくれ」
再び、力強い「はい」が響いた。
「そしてもうひとつ。化粧品会社《Re》とのコラボ商品が形になってきた。発表に向けて本格的に動き出す」
「Reって、ボスの彼女の会社だよな?」
「やっぱりそうだよね……」
小さなざわめきが広がる。
私は一瞬そちらを見てから、思わずボスの方に視線を移した。
「そうだ。Reは莉子の会社だ。ただし前から“化粧品と花のコラボ”の話は出ていた。今、両社とも勢いに乗っている。だからこそ今やるべきなんだ。莉子は俺の彼女だが、このコラボはあくまで仕事。プライベートを持ち込むつもりはない。そこは理解してほしい」
「はい!」
社員たちの返事はさっきよりも力強い。
「バレンタイン商戦は田中を中心に。Reコラボは俺が中心になる。二つを同時進行で進めるから、みんなに負担もかかるがよろしく頼む!――今日は以上だ」
一斉に立ち上がり、ざわめきながら部屋を出ていく社員たち。
そんな中、田中さんとボスだけは、まだ席に残っていた。
二人の間に立つと、心臓がうるさいほど鳴っていた。
勇気を振り絞って声を出す。
「あ、あの……」
同時に振り返る二人。
鋭い視線に一瞬ひるみそうになる。
「どうした、神崎?」
田中さんが静かに問いかける。
喉がカラカラだ。それでも言わなきゃ。
「バレンタイン商戦の企画……私も考えてみたいんです」
沈黙。
ボスと田中さんが顔を見合わせる。胸がぎゅっと締めつけられた。
「もちろん、秘書の仕事もちゃんとやります。コラボ商品のサポートも全力で……! 仕事に影響は出しません。だから、どうかお願いします!」
勢いのまま、深く頭を下げる。
次の瞬間、低い声が落ちてきた。
「お前な……俺のサポートだけでも大変なんだぞ。それで企画まで?経験もないのにできるわけないだろ」
――やっぱりダメだ。
視界がじわりとにじみそうになる。
「……そうですよね」
消え入りそうな声でつぶやいた、その時。
「ボス」
田中さんの声が鋭く響いた。
「神崎にもやらせてみたら?企画部の流れを見るのも勉強になるし、人手も多くはない。案が多いに越したことはないでしょう。企画書の作り方なら俺が手伝うし、それなら問題ないはず」
思わず顔を上げる。
田中さんの横顔は真剣で、私の背中を押してくれていた。
二人の視線が、ボスに集まる。
ボスはしばらく無言のまま私を見つめ――
「……わかった。ただし、俺のサポートがおろそかになった瞬間、即終了だ。いいな?」
「……え?」
胸の奥で何かが弾けた。
慌てて大きく頭を下げる。
「はい! 本当にありがとうございます!」
嬉しさで涙がこぼれそうになりながら、何度も頭を下げ続けた。
企画に参加できると決まって、嬉しさのあまりスキップしながら自分の席へ戻っていく。
――その後ろから、足音がついてくるのに気づいた。
「神崎」
声に驚いてぴたりと止まり、振り返る。
「しゃ、社内をスキップするな」
そう言って、ボスは私の横を通り過ぎていく。
その背中に向かって、思わず べーっ と舌を出した。
……が、通り過ぎたはずのボスがふいに振り返る。
「!」
目が合った瞬間、慌てて真面目な顔に戻し、何もなかったようにスタスタとすれ違って席へ向かった。
_____たったったったっ。
この足音は……やっぱり。
「しゅーかー!」
琴音が笑顔で飛び込んできた。
最近はもう、足音だけで誰か分かるくらいになっている。特に琴音のは特徴的だ。
「走るとボスに怒られるわよ」
「えー、今まで怒られたことないけど?」
「私なんて、さっきスキップしたら注意されたんだから」
「まじ?あははははっ!」
琴音はお腹を抱えて笑う。
「きっと、守華だから怒られたんじゃない?」
「は?どんな理由よそれ」
ぷくっと頬をふくらませる私。
「でも、企画考えるんでしょ?」
「……なんで知ってるのよ!? 今決まったばかりなのに!」
「えっ、田中さんに聞いた」
――田中さん、口軽すぎ。
「だって私、本当は企画部に入る予定だったんだもん。だからずっとやりたかったの。」
「守華の企画が通ったら、私が宣伝めちゃくちゃ頑張るから!」
「いや、私のじゃなくても頑張れよ」
呆れ顔の私に、琴音はニコニコとおかまいなし。
「じゃあ、頑張ってもらうためにも……今日はランチ奢っちゃう♡ 一緒に行こ!」
「奢り!? OK〜!」
私たちは笑いながら、席を後にした。
_____トントン。
ボスの部屋のドアをノックし、中へ入る。
「失礼します。ボス、私、ランチに出ますけど……何か買ってきましょうか?」
「もうそんな時間か。いや、今日は約束があるからいい」
「お昼に約束なんて珍しいですね。莉子さんですか?」
「莉子ではないよ」
「そうなんですね。では、行ってきます」
「……ああ」
部屋を出ながら、思わず考え込む。
ボスがお昼に誰かと会うなんて、本当に珍しい。
普段は食事もろくに取らず、部屋にこもって仕事ばかりしているのに。
しかも仕事関係の予定なら、私が把握しているはず。
でも、今日のスケジュールにはそんな予定はなかった。
――莉子さんじゃないなら、田中さん?
視線を向けると、田中さんは社員たちと笑いながらお弁当を広げている。
……違う。じゃあ一体、誰?
気にしちゃいけない。
でも、気になる。
胸の奥で小さなもやもやが膨らんでいく。
「琴音、行こう!」
無理やり気持ちを切り替えて声をかけると、
琴音と一緒に近くの喫茶店へ向かった。
「ご馳走様♡」
ランチを食べて喫茶店を出た私と琴音。
「スタバでも買って帰ろうよ」
「いいね!ボスの分も買っていこうかな」
「さすが秘書。勤務中でもボスのこと忘れないなんて」
いい気分で歩いていたそのとき――
「あれ……後ろ姿……ボスじゃない?」
「え?」
振り返ると、スーツ姿の背中。
しかも隣には、制服女子高生がぴったり腕を絡めている。
「え、嘘でしょ…」
「まさかの……」
「「パパ活!?」」
私と琴音の声が見事にハモった。
通行人が振り返るレベル。
「ちょ、声大きい!」
慌てて口を塞ぐ。
でも視線はボスと女子高生から離れない。
(何あれ!?莉子さんいるのに!?信じらんない!)
ボスたちが入っていったのは――まさかのランジェリーショップ。
「やばっ!完全クロだよ!」
「いやいや、まだホテル行ってないから!」
「勤務中にホテル行ったらクビだわ!」
私と琴音は店先で座り込んで大騒ぎ。
「……てか私たち、何やってんの?」
「……確かに」
冷静になりかけたその瞬間――
琴音がよろけて、私の背中を思いっきり押した。
「うわっ!?」
前に飛び出した私は、派手に転ぶ――はずが。
「っと」
ガシッと腕に抱きとめられた。
「……神崎!?」
「ボス!?」
まさかの“お姫様抱っこ未遂”。
周囲の視線が痛い。
「また俺に飛び込んできたな」
「ち、違いますっ!バランス崩しただけで!」
焦って体を離すと、ランジェリーショップから女子高生が出てきた。
「お待たせ〜」
(終わった……現行犯……)
「ボス、私たち何も見てませんから!ほんと、スルーしてください!」
私と琴音、同時に土下座レベルで横向き。
すると女子高生が私を見て――
「あ!お姉さん!」
「え?私?」
「こないだ助けてくれたお姉さん!」
思い出した。絡まれてた子だ!
「え、じゃあボスとは……」
「うん、お兄ちゃんだよ」
「「お、お兄ちゃん!?!?」」
声が揃って商店街に響き渡った。
周りのサラリーマンまでビクッとした。
(いや、紛らわしすぎでしょ!!)
「そう、年は離れてるけど、こいつは俺の妹のあずさだ」
「確かに……言われてみれば、顔が似てるかも」
思わず小さく呟く私。
「パパ活かと思った……」
琴音も小声で、安堵したようにつぶやく。
「パパ活!? 俺がそんなことするわけないだろ!」
その小さな声も、どうやらボスには聞こえていたようだ。
「「すみません」」
二人でそろって大人しく頭を下げる。
「って、神崎、お前があずさを助けてくれたのか?」
「あ、助けたというか……まぁ、そうなりますね」
「男三人を一気にやっつけたって聞いたけど」
「えっ!? 守華が?」
琴音もボスの言葉に目を丸くする。
「アハハハ、まぁー、そうなりますね」
ちょっと照れ笑いで答える私。
「妹を助けてもらったのはありがたいが……神崎、お前も女なんだからな!」
「あっ、はい。でも、私、強いですから」
思わずニヤリと笑う。
「本当にお前はSPみたいだな」
「お兄ちゃん、SPなんかより、断然強かったよ」
アハハハとボスは苦笑い。
少し和んだ空気が、まだ胸の奥をドキドキさせる。
ボスもあずさと別れ、私たち3人は会社に戻る。
途中、スタバでボスに奢ってもらった。
私はアフォガード、琴音は抹茶フラペチーノ、ボスはブラックコーヒー。
「ボスと守華って、ナイスコンビですね」
いきなり琴音が口を開く。
「何言ってるのよ」
少し赤面しながらツッコミを入れる私。
「ボスもそう思いません?」
「……あー、そうだな。今までの秘書は続かないことが多かったから、合うも合わないも正直分からなかったけど」
ボスは少し考え込むように答える。
「守華が続けられてるってこと自体が、ナイスコンビってことですよ」
琴音の言葉に、ちょっと褒められてるのか、それともただの事実観察なのか分からず、私は少し首をかしげる。
「まぁー、確かに、このボスについていけるのはきっと私だけでしょうね。いくら怒られても、めげませんから」
自信満々に笑って言う私に、琴音もつられて笑う。
ボスはそんな二人の様子を、横目でちらりと見ていた。
少しだけ、微笑んでいるようにも見えた。
___ピーピー
「はい、ボス」
定時の18時。社員たちが少しずつ退社していく中、ボスからの内線が鳴った。
「ちょっと来てくれ」
「はい」
私はすぐにボスの部屋へ向かう。
「神崎、この後、予定あるか?」
「特にありません。……仕事ですか?」
「いや、仕事じゃない。あずさがな、神崎を家に連れてこいってうるさくて」
「あずさちゃんが?」
「助けてもらったお礼に夕飯をごちそうしたいってさ。作ってるのはお袋だけどな。お袋も神崎に会ってみたいらしい」
「私でよければ……」
「おっ、本当か?助かった!連れて帰らないと、あずさがネチネチうるさくてさ」
「仲のいい兄妹ですね」
「ほら、俺ってカッコいいから、自慢の兄なんだよ」
「でたでた、ボスのその自信……」
思わず呆れて笑ってしまう。
その日は珍しく、ボスも私も定時で退社。
並んで会社を出て、ボスの車に乗り込む。
ボスの実家は、肩の力が抜けるような、ごくごく普通の一軒家だった。
「連れてきてやったぞー」
玄関から声を張り上げるボス。
その声に反応して、リビングから走ってくる足音が近づいてきた。
「神崎さーん!」
勢いよく飛びついてきたのは、あずさちゃん。
思わず受け止めきれず、よろけそうになる。
「ほら、困ってるだろ。離れろ」
「ご、ごめんなさいっ」
「あ、大丈夫よ」
思わず笑って答える。
その後ろから、ゆったりとした足取りで女性が現れた。
優しい笑みを浮かべる――きっとボスのお母さんだ。
「いらっしゃい」
「こんばんは。はじめまして。ボスの秘書をしております、神崎守華と申します」
「まぁ!守華ちゃんね。あずさを助けてくれてありがとう。散らかってるけど、どうぞ上がって」
「あ、あの、これ…よかったら食後に」
さっき寄ったケーキ屋で買ってきたケーキを差し出す。
「あらあら、逆に気を使わせちゃってごめんなさいね。じゃあ、あとでみんなでいただきましょう」
「神崎、上がれよ」
「あ、はい。お邪魔します」
座卓につくと、あずさちゃんはすぐ守華の隣にぴったりと陣取った。
目を輝かせながら、あれこれと話しかけてくる。
守華は――どうやらすっかり気に入られてしまったようだ。
テーブルの上には、ボスのお母さんが腕をふるった手料理がずらりと並んでいた。
見ているだけで心がほぐれる光景だ。
「おやじは?」
「今、出張中よ」
交わされる、ごく普通の家族の会話。
――なんだかいいな。こういう雰囲気。
横であずさが、助けてもらったときの話を興奮気味に繰り返していた。
「もう何回目よ」
「だって本当にすごかったんだもん!お兄ちゃんだって守華ちゃんにすぐやられるよ」
「なんだよそれ。……まぁ、神崎は俺には手出せないよな?」
「え、あ、はい」
「えー、なんで?」
「仕事できるかできないかの権限、俺にあるからな」
「ずるーい!」
「それが大人の世界なんだよ」
「また子ども扱いして!……もういいもん。私にはお姉ちゃんができたから♡」
そう言って、あずさは嬉しそうに私に抱きついた。
「こらこら、守華ちゃんが食べられないでしょ」
「大丈夫です。……妹ができたみたいで、私も嬉しいので」
そう答えると、お母さんが優しく問いかけてきた。
「守華ちゃん、ご家族は?」
「父だけです。母は私が中学のときに病気で亡くなりました」
一瞬、空気が止まった。三人とも驚いた表情をしている。
「そうだったのね……ごめんなさいね、辛いこと思い出させちゃって」
「全然大丈夫です。ずっと一人で食べることが多かったので……こんなふうに家族の中に入ってご飯を食べられるの、本当に嬉しいです。今日は呼んでくださってありがとうございます」
笑顔を向けると、お母さんも柔らかく微笑んだ。
「守華ちゃんさえよければ、いつでも来てちょうだい。蓮なんか連れてこなくてもいいから」
「なんだよそれ。俺抜きかよ」
「そうよ。守華ちゃんだけで十分」
みんなで声をあげて笑った。
***
「今日はごちそうさまでした」
玄関でヒールを履きながら頭を下げる。隣にはボスが立っていた。
「守華ちゃん、今度一緒にどこか行こうね」
「ええ、いいわよ。あずさも、いつでも電話してね」
――気づけば、「あずさちゃん」じゃなくて「…あずさ」と呼んでいた。
「ちょっと、いつの間に連絡先交換してたんだよ」
「お兄ちゃんは気にしなーい!」
「また仲間外れかよ」
「守華ちゃん、また来てね!」
「はい!」
車に乗り込むまで、あずさとお母さんが手を振り続けてくれていた。
「神崎、疲れただろう?」
「全然。むしろ、すごく楽しかったです」
「そうか?」
「はい。ボスの意外な一面も見られましたし」
「……なんだよ、それ」
「家族思いで、ちょっと寂しがり屋さん」
思わず吹き出すと、ボスがむっとした顔をする。
「誰が寂しがり屋だ」
「いいんですよ、私には分かりますから。安心してください、会社では秘密にしておいてあげます」
くすくす笑いが止まらない私を、呆れたように見つめるボス。
「そんなに楽しいか?」
「はい。家族って……いいですね」
その一言で、ボスの表情がふっとやわらぐ。
「またみんなでご飯食べたくなったら、いつでも連れてってやるよ」
「本当ですか!? ずっと一人だったから……嬉しいです」
「……悪いな。母親のこと、思い出させちまって」
「大丈夫です」
私はにこっと笑ってから、そっと問いかけた。
「ボス、このあと……少し時間ありますか?」
「……あぁ」
***
彼に連れてきてもらったのは、私の「秘密の場所」。
小高い丘の上、夜景と月を眺めるために通っていた思い出の場所だった。
「わぁ……久しぶり!」
胸いっぱいに深呼吸すると、都会の光が宝石みたいに瞬いていた。
「ここ、よく来てたんです」
「会社に入ってからは?」
「忙しくて来れなくなったので……代わりに屋上で空を見上げてました」
「なるほどな。神崎がいないときは屋上を探せばいいんだな」
「ふふ、そうですね」
ふたり並んで見下ろす夜景。
その周りには寄り添う恋人たちの姿もちらほら。
けれど不思議と、居心地が悪いどころか、心が満ちていくのを感じた。
「今日は月が見えませんね」
「そうだな」
私はふっと小さく息をつく。
「母はよく言っていました。『弱さを見せちゃダメ。泣きたくなったらお月様を見なさい』って。だから、泣くのをずっと我慢してきたんです。……でも今なら、母がそう言った理由が少し分かる気がします」
ボスが静かに呟いた。
「……だから神崎は強いと勘違いされるんだろうな。まぁ、俺についてこれてる時点で強いけど」
そう言って、大きな手が私の頭にそっと置かれる。
「でもな、神崎。今は俺の部下だ。泣くのを我慢して苦しくなるくらいなら、泣け。……俺が隠してやる。他の誰にも気づかれないようにな」
その声に、胸の奥がじんわり温まっていく。
「それに知ってるか?」
私は見上げる。彼の横顔は、夜景に照らされて真っ直ぐだった。
「涙は、幸せになるために流すものなんだ。いっぱい泣いたほうが、きっと幸せになれる」
その瞬間、こらえていたものが溢れ出す。
頬を伝って、一粒、二粒……涙が零れていった。
「ボス……その言葉……」
信じられなかった。
かつて愛した人、蘭明が言ってくれた言葉とまったく同じだったから。
驚きと戸惑いと、どうしようもない温かさで胸がいっぱいになる。
視線を向けると、ボスの瞳が私を射抜いていた。
――涙を流す守華の瞳に、蓮はもう目を離せなかった。
ボスは、涙で震える私の手をぐっと掴み、そのまま自分の胸へと引き寄せた。
強くも優しいその腕に抱かれ、私は思わず顔を胸元に埋める。
彼の左手が、子どもをあやすように私の頭をトントンと撫でる。
低く落ち着いた声が耳に届いた。
「今は誰にも、お前の弱さはバレない。だから安心しろ」
温度を持った言葉に、また涙が溢れる。私は嗚咽をこらえながら何度も頷いた。
「神崎……ひとつ貸しだからな」
それにもコクコクと頷く。
――確信した。やっぱりボスは、私の愛した蘭明なんだ、と。
記憶はなくとも、あの頃と同じ温もりを持つ人。
胸が締めつけられるように苦しくて、それでも嬉しい。複雑な想いに、涙が止まらなかった。
けれど私は決めた。
かつて彩国で、突き放しても諦めず追いかけてきてくれた蘭明。
ならば今度は、私が追いかける番だ。
「ボス……」
顔を埋めたまま、小さく呟く。
「ん?」と蓮が覗き込む。
「……いい匂いですね」
「そうか?」
「ボス……」
「なんだ、もう泣き止んだか?」
顔を上げた守華の潤んだ瞳に、蓮の心臓が不意に跳ねた。
その視線に射抜かれて、思わず息を呑む。
「私、ボスのことが……大好きです」
「……は?なんだよ、いきなり」
頬を赤らめるボスに、私は慌てず一歩引いて微笑む。
「えー?でも、前にも言いましたよ?」
「前?」
「忘れたんですか? “俺に惚れたか?”って聞かれたから、“はい”って答えました」
「……あれか。って、お前には好きなやつがいるだろ!」
「はい!私が唯一、愛した人は――ボスでした!」
「……はぁっ!?」
「でも安心してください。無理に莉子さんとの仲を裂いたりなんてしませんから」
にっこりと笑って続ける。
「私は、愛する人が自分じゃなくても、その人が幸せならいいって分かる人間ですから」
さっきまで泣いていたとは思えない、晴れやかな笑顔。
そして言い切った。
「でも――ボス。きっとボスの運命の相手は私です。必ずボスは、私を好きになりますから」
あまりの自信満々な宣言に、蓮は呆れたように「はぁ!?」と声を上げる。
けれど、無邪気に笑う守華を前にすると、その表情も自然と緩んでしまうのだった。




