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守る華・守られる花  作者: ミシル
第三章 サザンクロス

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95/113

95. 怒られた日、喜びの夜

13時45分、SES本社前。

私は時計を見つめながら、心臓の鼓動を数えていた。


「待ったか?」

背後から声がして振り返ると、いつもの冷静な顔のボスがいた。

その姿に、なぜか少し安心してしまう。


「いえ」

答えて後を追う。


「書類は持ったな?」

「はい!大丈夫です」

「USBは?」


――その言葉に、体が固まった。


「はい、ここに……」

慌ててカバンの小ポケットを探す。だが、ない。

焦って別の場所を探す。…ない。


昼休みの記憶が、脳裏をよぎる。

屋上のテーブルに置いた上着。そのポケットに、USBを入れたままだ。


「どうした?」

ボスが立ち止まり、私を鋭く見た。


「……すみません。USBを、忘れてきました」


一瞬、空気が凍りつく。

次の瞬間、怒鳴り声がロビーに響いた。


「はぁ? あれだけ“絶対に忘れるな”と念を押しただろ!」


広いロビーに響き渡り、人々の視線が突き刺さる。

顔が熱くなり、今すぐ消えてしまいたい衝動にかられる。


「すみません!今から取ってきます!」

「間に合うはずがないだろ!」

「……本当に、すみません……」


声が震える。涙が出そうになる。

――初めての、大きなミス。しかも最悪のタイミングで。


その時、ボスは短く舌打ちをしてから視線を逸らした。

「……行くぞ」

「でも……」

「時間に遅れるほうが致命的だ。俺がなんとかする」


怒りを抑え込んだ低い声。

それ以上逆らえず、ただ必死に後を追うしかなかった。


私は唇を噛み、震える指先を隠すようにカバンを強く握った。


ボスは資料とホワイトボードを駆使して、どうにかプレゼンを終えた。

だが――結果は目に見えている。

契約には至らない。私のせいだ。


競合がひしめく中で、この一社を落とすわけにはいかなかったのに。


帰り道、ボスは一言も口をきいてくれなかった。

黙々と歩く背中が、これまでで一番遠く感じた。


会社に戻ると、社員たちの前に立ち、深々と頭を下げた。


「申し訳ない。今回はきっと契約に結びつけられない。俺のプレゼンが至らなかった。

みんなの努力を結びつけられなくて、本当にすまない」


――違う。

悪いのは私なのに。

ボスは一切、私のことを口にしなかった。


_____トントン。

「失礼します」


ドアを開けると、彼は書類に目を落としていた。

きっと今、私の顔なんて見たくないだろう。

それでも、謝らなければ。


覚悟を決めてUSBを差し出す。


「本日は、私の不注意で多大なご迷惑をおかけしました。……どうして社員のみなさんに、私が忘れたことを伝えなかったんですか?」


ボスはUSBを手に取り、しばらく無言で見つめていた。


「社員のミスは、最終的に俺の責任だ。

この中には、全員の努力が詰まっている。

それを届けるのが俺の役割だ」


淡々とした声。だが、その裏に確かな重みがあった。


次の瞬間、視線が鋭く向けられる。


「……神崎。慣れた気になって気が緩んだのか?

お前の一つの油断が、何ヶ月も積み上げてきたものを崩すんだ。

その意味を理解してるのか?」


言葉に詰まる。胸の奥に重しを落とされたようだった。


「迷惑だ。そんな気持ちでやるなら、辞めちまえ」


目を見開いた。

喉が焼けるように痛い。


「……申し訳ありませんでした」


深く頭を下げ、部屋を出る。

扉の前には田中さんが立っていた。

会話を聞かれていたのは明らかだった。


軽く会釈し、私はその場を離れる。


田中さんが中に入ると、ボスは椅子に腰掛け、額に手をあてて静かに目を閉じていた。

その表情には、怒りよりもむしろ、責任の重圧を背負う苦悩が刻まれていた。


守華が走り去った後、田中は静かにソファーへ腰を下ろした。


「……あんな言い方、少しは可哀想なんじゃないか? まぁ、ボスらしいといえばボスらしいけどな」


目を閉じていた蓮が、ゆっくりと顔をあげる。

田中の視線がまっすぐにぶつかった。


「せっかく続いてる秘書だぞ。今のでまた辞めちまうかもしれない」


「いられても迷惑だ」


「迷惑? 何も分からない状態でいきなり秘書になって、三ヶ月も完璧にこなしてきたんだ。

今までの秘書を思い出せよ。それと比べりゃ、神崎はよくやってるほうだ」


蓮の眉がわずかに動く。

「……なんだよ、まるで俺が悪いみたいな言い方だな」


「そうは言ってないさ。ただ――ボス、お前、神崎に期待しすぎてたんじゃないか?」


図星を突かれたのか、蓮は視線を逸らした。


「怒っても滅多に声を荒らげないお前が、今日はあんな大声まで出した。

廊下まで響いて、社員たちがざわついてたぞ。なだめる俺の身にもなれ」


「……それが、お前の仕事だ」


「はいはい、そう来ると思ったよ。……まぁ、頭を冷やせ」


田中は立ち上がり、ふと蓮を一瞥してから、静かに部屋を出ていった。


一人残された蓮はデスクに肘をつき、深く息を吐く。

USBを見つめるその表情には、苛立ちと同じくらい、複雑な影が差していた。


屋上に来ていた私は、ゆっくりと沈んでいく夕日を見つめていた。

この季節、7時を回ってもまだ空は明るい。


現実は厳しい。思うようには進まない。

さすがに前向きな私でも、今日のミスには胸が重かった。


ボスに叱られるのは慣れている。

けれど、あんな怒鳴り声は初めてだった。

社員たちの努力を、私一人の失敗で無駄にしたのだから当然だ。


……でも、ひとつ気づいたことがある。

ボスはちゃんと社員のことを見ている。

彼らの想いを背負っている。

社長として、その責任を誰よりも理解している。


――まるで、蘭明みたいだ。


蘭明も兵士を大切にしていた。

共に戦った仲間のもとへ戦後に足を運び、亡くなった者の家族にまで気を配っていた。

部下を「駒」ではなく「人」として思っていた。


顔だけじゃなく、考え方まで似ているのね。


“秘書の仕事が続いて浮かれていたのか? 気の緩みか?”

――そんなわけない!


「辞めちまえ」と言われたけど、


「辞めるもんかーーーー!」


屋上に響き渡る声。

落ち込みはもう消えていた。

胸の奥に、新しい火が灯った。



次の朝。

私はいつも通り、誰よりも早く出社していた。デスクに腰を下ろす前に深呼吸をひとつ。昨日の失敗が胸にまだ重く残っている。


「守華ぁ!」

声をかけてきたのは琴音だった。ドアの隙間から、こちらを覗き込むように顔を出している。


「おはよう、琴音」

「守華、辞めないよね?」

「え?」思わず聞き返す。


「昨日、ボスにかなり怒鳴られてたじゃん?オフィス中に響いてたよ」

やっぱり……みんなの耳に入ってたか。


「……あんなんで辞めてたまるか!確かにプレゼンを台無しにしてしまったのは申し訳ないけど、逃げるつもりはない」


琴音は安心したように笑った。

「よかった。みんな、今回こそ守華が辞めるかどうかで賭けてたのよ」


「ったく、毎回私の人生で遊ばないでよ」

「まぁまぁ。先輩たちも誰も責めてないんだから、そのくらいは許してあげなよ」

「……ごもっともです」守華は深く頭を下げた。


ちょうどその時、社内に低い挨拶の声が響く。

「おはようございます、ボス」

「おはようございます」


社員たちの声に混ざって、私と琴音は思わず目を合わせる。琴音は口パクで「じゃー」と言い、軽く手を振って自分の席に戻っていった。


私は両手で頬を叩く。

――負けてたまるもんか。今日こそ、挽回の一歩を踏み出すんだ。


ボス部屋のドアの前で、私はいつものように姿勢を正して待った。

ドアが開き、目が合う。


「ボス、おはようございます」

深く頭を下げると、私の隣に立ち止まったボスが一瞥を寄こす。


「……なんだ、出社していたのか」


それだけを言い残し、無表情のまま部屋へ入っていった。

胸の奥でムッとしたが、ぐっと飲み込む。――昨日のことは、紛れもなく私の落ち度だ。


私はコーヒーを淹れ、深呼吸してからボス部屋へ。

パソコンに向かっているボスのデスクに、湯気を立てるカップと白い封筒を静かに置いた。


カタカタと打たれていたキーボードの音が止まる。

視線が、封筒へ落ちた。


「……神崎、退職届の書き方も分からないのか」


低い声が部屋に響く。

封筒には『退職届』の文字はなく、ただの白紙だった。


「ボス。誰が退職届だと言いました?」


睨むような視線が下から突き刺さる。私は一歩も引かず、背筋を伸ばしたまま立ち続けた。


ボスが無言で封筒を開け、中から便箋を取り出す。

広げた瞬間、その眉がわずかに動く。


目を見開き、口が止まる。

そこに書かれていたのは、たった一文。


――「神崎守華は辞めません!ボスを守れるのはこの私だけです!」


沈黙。

部屋に流れるのは、まだ熱を帯びたコーヒーの香りと、私の鼓動の音だけだった。


「神崎……」

ボスの低い声に振り向く。


「はい!」

「こんなこと、わざわざ書いてくるな。口頭で言え」

「いえ!ボスのことですので、絶対また私に辞めろと言うはずです。ボスが忘れないためにも、書いた方がいいと思いまして」


ボスの眉が少し跳ねる。

「なんだよ、それに“俺を守れるのは私だけ”って……だからお前はSPか!?」

「はい!秘書でもあり、SPでもあります。私がお守りできないと思ってますよね!? ボス、甘いですよ!私を舐めないでください!」


胸を張り、一礼をして続ける。

「ということで、私は辞めません。ただ、今回の件は本当に申し訳ございません。深く反省しております。今後、このようなミスがないよう徹底いたします」


守華はそのまま、凛とした足取りでボス部屋を出て行った。


デスクに戻る守華を見つめる蓮の口元が、わずかに緩む。

「予想外の行動をする女だな」


その視線を感じながら、守華のデスクに繋がる内線が鳴った。

「はい、ボス」


ボス部屋に目を向けると、低い声が再び響く。

「今日の予定を聞いてない」

「はいっ、今すぐ伺います!」


手帳を握りしめ、守華は慌ててボス部屋へ向かった。


それからは、私は完璧に秘書の仕事をこなしていった。

書類の確認、スケジュール調整、電話応対――すべてに抜かりなく。


ある日、外出先から会社に戻ると、社内がいつもより騒がしいことに気づいた。

何があったのだろう、とドアを開ける。


「戻りました」

私が声をかけると、一斉に視線が集まる。


「え……?」

少し戸惑って後ずさる私に、田中さんが声を張り上げた。


「SESと契約が決まったぞ、神崎!」

「嘘!? 本当ですか!!?」

思わず口を押さえ、目を見開く。


「嘘なんて言ったらボスに殺されるわ」

田中さんは笑いながら、ボスの方をチラリと見た。


私はボスの顔を見つめる。

――笑顔だった。

その顔を見て、嘘じゃないと確信し、自然と私も笑みをこぼす。

同僚たちの歓声と拍手に包まれながら、私もみんなと一緒に喜んだ。


「よし、今日はみんなで打ち上げだ!」

田中さんが声を張る。


「新入社員の歓迎会もまだだったし、今日はボスの奢りだな。いいよな?」

「あっ、あー!」

奢りと聞いた途端、社員たちのテンションはさらに上がり、笑い声が社内に響き渡った。


「かんぱーい!!」

初めての会社での飲み会だった。

みんな浮かれた表情で、仕事中には見られない一面を見せる。


「田中さん、聞いていいですか?」

「ん?どうした?」

「なんでSESと契約が取れたんですか?」


ビールを飲んでいた田中さんが、テーブルにグラスを置く。

「なんでだと思う?」

「ん〜、ボスのプレゼンのおかげ……?」

「まぁな、確かにボスのプレゼンも大きい。でも一番はきっと神崎のおかげだろう」


「えっ、私ですか?」

「あー。お前、書類に落書きしてただろ?」

「落書き……?」

頭の中で思い出す。


「パラパラ漫画だ」


「あ! 使わない資料のほうに描いてたつもりでした」

そう、私はプレゼンで使わないと資料の余白に、こんな漫画を描いていた。


―― それぞれ別の場所で種ができ、風に飛ばされて着いた場所に2つの種がうまり、それぞれ花を咲かせる。ずっと一緒にいるうちにお互いの花が恋に落ちると言う内容のパラパラ漫画を書いていた。


絵は下手だったけど、花だけは少し上手に描けたつもりだった。

使わないと思っていた資料がコピーされ、まさかプレゼンで使われることになるとは思わなかった。


「それがSESの幹部たちの心を打ったんだ。SESはブライダル業界だろ? ブライダルといえば“愛”だ。しかもパラパラ漫画という演出がまたよかった」


「なんだか恥ずかしいけど、あんな絵が……」


「それにUSBを忘れたせいで、ボスがホワイトボードで全部説明したことも、今時珍しくて興味を引いたみたいだぞ。さすがボスだ。USBの内容をすべて頭に入れていたなんて」


「確かに……すごいです」


「まぁ、大事なUSBを忘れた神崎は反省しないとな。それに大事な書類に落書きするな、でも、そのおかげで契約が決まったんだけどな。もう気にするな」


「はい! ありがとうございます、田中さん」


落書きが思わぬ形で役に立ったことにほっとする反面、下手をすれば本当にクビになっていたかもしれない――そう考えると、ぞっとした。


お酒が得意ではない私は、カクテルを少しずつ口に運んでいた。

ボスのほうを見ると、社員たちに囲まれてかなり飲まされている様子だった。


仕事中は近寄りにくい存在だけど、酒が入ると関係なく、みんながボスにお酒を勧めている。

普段は冷たいとか怖いとか言われているボスも、社員たちにはちゃんと慕われているんだな、と感じる瞬間だった。


それに、断らずに次々と飲み干すボスもすごい。

私だったらとっくに潰れているだろうな、と思う。


気づけば、もう3時間ほど経っていた。


「2次会、カラオケ行きましょう! カラオケ!」

「おー、いいね! 行こう行こう!」

社員たちが盛り上がる中、ボスはさすがに飲みすぎて寝てしまった。


「ボスはダメだな。俺が送ってくるから、みんなは先に2次会に行っていいぞ。送ったら俺も合流する」

「「はーーーい!」」


守華も2次会へ向かおうと準備していたところで、田中さんから声がかかる。


「神崎」

「はい!」

「悪いが、ボスの荷物持って一緒に来てくれないか?」

「あっ、はい! 分かりました」


一緒にいた琴音に手を振り、私はボスの荷物を抱える。

田中さんはボスをおんぶして、送り届けるために歩き出した。


歩きながら、寝ているボスの顔を見る。

普段の厳しい表情とは違い、ほんの少し頬が赤く、無防備に眠る顔。

思わず、笑みがこぼれる。


少し照れくさい気持ちを押さえながら、ボスをおんぶした田中さんの後ろを歩く。

会社の仲間と過ごす、ちょっと特別な夜が、私の心を温かくしていた。


車の行き来が多い大きな道路の脇を歩きながら、私はボスの家へ向かう。夜風は少し湿っていて、7月の夜特有の蒸し暑さが体にまとわりつく。街灯の光がアスファルトに反射し、濡れたような黒い道を淡く照らしていた。


「ボスの家、近いんですか?」

「あー、近いよ」

「ボスも潰れることあるんですね」

夜の街に笑い声が少し響く。


「会社の飲み会で潰れるのは、はじめてなんじゃないかな?」

「そうなんですか?」

「まぁ、神崎。こいつに酷いこと言われても辞めずにいてくれて、ありがとな」

「え、なんで田中さんがお礼なんて……」

「きっと、こいつも神崎に感謝してると思うぞ。感情表現が下手なだけで、素直じゃないんだ。こんな上司を待つのも大変だよな?」


「そうですか? 私は楽しいですよ! きっと甘やかされるより厳しいほうが、私を燃え上がらせるというか」

そう言うと、田中は思わず笑い出す。


「そりゃそうか。入社日当日にこいつに抱きついてたもんな」

「もう、その話はやめてください!」

顔が赤くなる私。


「サザンクロスの伝説の話になるわ」

田中は大笑いする。


「まぁ、でもな、神崎が来てから、会社にいるこいつの顔つきが変わってきてるのは確かだ。いい意味でな。きっと他の社員も思ってるぞ。神崎が来る前なんて、みんな避けてるぐらいだったからな」


なるほど、と思いながらも、ずっと気になっていたことを聞いてみる。


「あの、田中さんってボスとどんな関係なんですか? ボスといったり、こいつといったり……」

「あー、俺は蓮の大学の先輩だったんだよ」

「大学? ボスとかぶってたんですか?」

「俺は蓮の3つ上だから、被ってるよ」

「えーーー! 田中さん、28歳ってこと?」

「なんでそんなに驚く?」

「いや、30歳過ぎてるかと思って……」

「アハハハー、そんなに老けて見えるか」


私は慌てて、ハハハハーと笑ってごまかした。

夜の蒸し暑い空気の中、遠くの車のライトが流れていくのを見ながら、少しずつ心が落ち着いていく。


「ちょうど、俺が仕事をやめてどうしようかと思ってるときに、会社立ち上げるからと誘われたんだよ。会社では俺の上司だけど、プライベートでは、俺の方が上だな」


「そうだったんですね。じゃあ、田中さんも莉子さんと仲がいいんですか?」


「莉子?あー、まぁ、同じ大学だったしな、それなりには」


「そうなんですね」


「お互い、一から会社を立ち上げたからな。お互いを支えていたのは確かだ。会社が軌道に乗ってからは、忙しくてなかなか会えてないみたいだけどな」


「……」

答えに困る私。なんとなく胸がざわつく。


「なんだ?神崎も蓮のこと狙ってるのか!?」


「そ、そんなわけ……」

思わず声が小さくなる。


「まぁ、莉子と別れることはないと思うから、あんまり夢中になるなよ」


「大丈夫ですよ!私はただ単にボスのSPですから!」


「SP?」

思わず言葉に出してしまう。


そんな話をしているうちに、ボスのマンションに到着した。

一人で住むには広すぎる高層マンション。夜景が目の前に広がり、窓から差し込む街の光がリビングを淡く照らしている。

「さすが社長」と思わず小さくつぶやく。


田中さんはボスを布団の上に慎重に下ろした。

私はボスの荷物をリビングのソファーに置く。


「神崎」

「はい!」

「お前、2次会行かなくてもいいだろう?」


「え?」

嫌な予感が頭をよぎる。


ニヤニヤ笑う田中。

「あいつ、かなり飲んでるから、神崎、残って面倒見てくれ」


「えーーー!?」

「んじゃ、よろしくな!俺は2次会を楽しんでくるから」


田中さんはそう言うと、軽やかに走って出て行ってしまった。

リビングに残された私と、まだ意識がややぼんやりしているボス。


やられた。

絶対、田中さん、最初からこれを狙ってたんだ。

田中さん一人で送れば、田中さんがボスの面倒を見ないといけなくなる。私がいれば、田中さんは2次会に行けるという作戦……完璧すぎる。


「ハァー」

思わずため息が漏れる。

でも、私も酒は弱いし、これはこれでちょうどいいのかもしれない。


仕方なく、コップに水を注ぎ、寝ているボスの寝室へ向かう。

ベッドの隣の机に水を置き、そっと腰を下ろす。


寝ているボスの顔を見る。

……この顔、好きだな。


思わず手を伸ばし、ボスの頬に触れる。

「蘭明……」

胸の奥が締めつけられる。会いたい、蘭明に。


その手に、ボスの手が重なる。


____ドクン、ドクン、ドクン

触れただけで、心臓が跳ねる。


「___こ」

???

ボスが何か言っているが聞き取れず、耳をそっと口元に近づける。


「莉子……」


その一言に、体中の血が一気に熱を帯びる。

目の前の現実と、胸の中の感情が、同時に波立つ。


「莉子」


触れた手を振り解き、守華は立ち上がった。

ボスの心は、やっぱり莉子さんしかいないのか――!?

私の気持ちなんて、分かろうともしないで、彼女の名前を呼びやがって……。


帰ろう……

たぶん朝まで寝ているから、介護しなくても大丈夫だろう。


「う……」


帰ろうとしたその瞬間、ボスが苦しそうに唸る。

ネクタイをしていたことに気づき、せめて外してあげようと手を伸ばす。


「何このネクタイ……なんで外れないの?」


立ちながらももたつき、結局さっきのようにベッドに腰を下ろし、顔をネクタイに近づけて外し始める。


「やった!外れた」


ふと顔を上げた瞬間、目の前にボスの瞳があった。

その瞬間、勢いよくひっくり返され、気づけばボスが私の上にまたがっていた。


右手には、さっき外したネクタイが握られたまま。

両手首を、ボスが力強く押さえている。


視線がぶつかる――

息が止まりそうな距離で、二人はじっと見つめ合った。


驚きで、守華は何も言えず、目を見開いたまま硬直する。


___ドクン、ドクン、ドクン


胸の奥で鼓動が暴れるのがわかる。

まるでこの音が周りに響いてしまうんじゃないかと思うほど、心臓が激しく打つ。


ボスの顔がじわじわと近づいてくる。

動けない私は、思わず目を瞑った。


_______?


数秒後、胸のあたりに重みを感じ、そっと目を開ける。

そこには――私の胸の上に顔をうずめて寝ているボスの姿があった。


「莉子ー」


まだ呼ぶか、私の胸の上で!?


「私は守華だーーー!」


叫ぶと同時に、思いっきりボスをどかす。

勢い余ってボスはそのままベッドの下に転がっていった。


私は少し息をつき、顔をしかめながらも、寝ているボスにあっかんべーをして部屋を後にした。


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