94. 知らなかった現実
カフェエリアでコーヒーを飲んでいた私のところに、琴音が全力の笑顔で駆け寄ってきた。
「しゅーかー!」
その声に、私は思わず顔を上げ、琴音のほうを見る。
「すごいじゃん!1ヶ月経ったよ!よく辞めなかったね」
「何よ、辞めてほしかったの?」
「滅相もございません!」
頭を深く下げる琴音に、つい吹き出してしまった。
「でも、本当にすごいよ!私の掛けも勝ったし、今度ランチ奢るわ。先輩たちもみんなビックリしてたんだから」
「なんでよ」
「辞めなかったこともだけど、あのボスが守華が秘書になってから“おはよう”って言うようになったって。最初、言われた時は、この世の終わりかと思ったってさ。顔はいいのに、ボスも勿体ないよね」
「確かに、顔はいいんだけど、性格がね……まぁ、私にかかればあんなボス、手のひらで転がすだけよ」
手のひらを上に向け、ドヤ顔を作る私。
そんな私を見て、琴音も笑おうとしていた――が、突然。
「ボス、お疲れ様です」
その言葉に、ドヤ顔が一気に凍りつく。
「神崎、誰を転がすんだ?」
「ボス、お疲れ様です!」
私は椅子から飛び上がり、頭を深く下げた。
「書類はまとめたのか」
「今すぐやってきます!」
敬礼し、足早にその場を去る私の後を、慌てて琴音も追いかけていった。
____カツカツカツカツ
ロビーに響き渡るヒールの足音。
「本日は10時より社内ミーティング、14時よりSESにてプレゼン、16時半より…」
足早に歩くボスの後ろを、ほんのり赤く色づいた唇を軽く開き、歩くスピードに合わせて今日の予定を淡々と伝える。
水色のカットソーに黒のパンツ、足元は黒のヒール。腰まである髪を軽く巻いて一本にまとめ、前髪は茶色く染め斜めに分けている。外見はまさに「できる女」。
秘書をはじめてから、3ヶ月が過ぎた。
エレベーター前に着くと、ボスの後ろにいた私はそっと追い越し、ボタンを押す。扉が閉じないように、上階のボタンをしっかり押さえた。
「神崎、乗らないのか?」
気づき、慌ててエレベーターに乗り、10階のボタンを押す。
もう、ボスの正体を探ろうとは思わなかった。
あの日、胸の傷を確認しようとしたあの瞬間――傷がなく、現実を突きつけられた衝撃。あれを再び味わうことは、自分を虚しくするだけだと分かっていた。
だから決めた。ボスはボス。蘭明ではない。ただ、顔が似ているだけ。
その日から、私は秘書としての仕事に没頭した。
ボスにはこき使われ、冷たい言葉を投げかけられ、時にはパワハラじゃないかと心がざわつくこともある。だが、そんなことでくじける私ではない。
陽月国での経験に比べれば、こんなの余裕だ。
そう考えると、もしかすると――このボスの秘書として、私は向いているのかもしれない。
社内ミーティングを終え、私は自分のデスクに戻った。
「こんにちは」
手を振りながら近づいてくる一人の女性。肩までのミディアムヘア、すらりとした体型、大人の雰囲気を纏い、ほんのり甘い香りが漂ってくる。自然と目が追うほど存在感があった。
私は反射的に足を止め、ボスの部屋の前で立ち止まる。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?社長にご用件があれば、あらかじめアポイントをお取りください」
「あなたは?」
「失礼しました。私は秘書の神崎と申します」
「新しい子?」
「はい、今年の4月に入社しました」
「じゃあ、私のことは知らないわね」
鼻にかかった少し高慢な言い方に、頭の中が真っ白になる。心臓が微かに早鐘を打った。
そのとき、ボスがドアを開けて顔を出す。
「神崎、騒がしいぞ」
「蓮!」
「莉子……お前、アメリカじゃないのか?」
「さっき帰ってきたの。蓮を驚かせたくて、連絡しなかったのよ」
「すみません、ボス」
気まずそうに口を挟む私に、二人の視線が向く。
「ああ、神崎は初めてだな。俺の彼女の莉子だ。で、こっちが秘書の神崎」
「彼女……」
思わず小さく漏らす。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
どうしてこんなことを今知るんだろう。
ボスに彼女がいる――しかもこんなに自然に、私の目の前に現れるなんて。
目の前の莉子を見つめながら、頭の中で警告灯が点滅する。心臓は騒ぎ、手のひらがほんのり湿っている。
いや、いてもおかしくはない。
確かに長身で、顔はまるで芸能人のように整っている。
性格はさておき、彼女がいないほうが不思議なくらいだ。
でも――それでも、心の奥底で小さな衝撃が走る。
ボスは蘭明じゃないのに、胸の奥がざわついて仕方ない。
目の前で、ボスは彼女の頭をそっと撫で、仕事中とはまるで別の優しい視線を向けている。
その表情は、まるで世界で莉彼女だけを見つめているかのようだ。
こんな顔、初めて見た。
社員に向ける冷静で厳しい顔と、彼女に向ける柔らかい笑顔――その差が胸をぎゅっと締め付ける。
蘭明じゃない、分かっているのに、心が勝手に痛む。
嫉妬と悔しさと、何とも言えない孤独感が混ざり合う。
「ボス、コーヒーを入れてきますね」
声に少し震えを押し込み、無理に微笑む。
「あー、頼む。莉子にはミルクと砂糖も入れてくれ」
「分かりました」
軽く一礼をしてカフェエリアに向かう背中に、二人のやり取りが重くのしかかる。
肩越しに見えた優しい光景が、胸の奥で小さくチクリと痛む。
蓮と莉子にコーヒーを入れていると、琴音が近づいてきた。
「ボスと彼女に?」
「えー、そうよ」
「ボスに彼女がいたなんて……。ボスを狙っていた同期たち、みんな落ち込んでたわ。まさか守華も?」
「まさかー。あんな性格悪い人、どうでもいいわ」
嘘だった。本当は、気になって仕方がない。
「先輩から聞いた話だけど、ボスと彼女は大学の同級生で、卒業してから付き合ってもう2年くらいらしいよ。彼女も化粧品会社を立ち上げた社長みたい。海外出張が多いけど、たまにボスに会いに会社に来るんだって」
さすが情報通の琴音だ。聞き出し上手ってやつだろうな。
「そうなんだ」
素っ気なく答える。そんな情報、私にはどうでもいい。
けれど、胸の奥は少しざわついている。
「彼女の前でも、冷たい態度なのかな?」
「それはないんじゃない?彼女の前では、優しい目つきになってたし」
「えー、そうなの!?そんな目のボス、一度は見てみたい!やっぱり、会社立ち上げでお互いを助け合って、くっついたのかな?」
「どうなんだろうね」
表情を変えず、私はコーヒーをトレーにのせた。
――――――トントン
ボスの部屋のドアをノックする。
「失礼します」
中を見ると、二人は仲良さそうにソファに並んで座っていた。
私は二人が座っているソファの前のテーブルに、それぞれコーヒーを置いた。
「ありがとう」
莉子さんが私に向かって微笑みながらお礼を言ってくる。
私は軽くお辞儀をする。
「神崎さんって言ったっけ?」
「はい」
「蓮にいじめられてない?」
――私は思わずボスの顔を伺う。だが、ボスはコーヒーを飲みながら、私とは目を合わせなかった。
「大丈夫です」
笑顔を作り、莉子さんに向かって答える。
「本当に?」
「……いや、少しだけ」
親指と人差し指で「少しだけ」と示しながら、苦笑いを浮かべる。
「神崎さんが3ヶ月も秘書を続けてるって聞いて、びっくりしたわ。今まで1ヶ月も持った人いなかったから」
ねー、蓮、と言いながら、莉子さんがボスの腕にしがみつく。
「ボスのいじめなんて全然余裕です♡」
まるでラブラブ感を見せつけられた気がして、私も負けじと満面の笑みで答えた。
ボスが私を見たのに気づき、軽くお辞儀をして、そそくさと部屋を出る。
自分のデスクに戻り、午後からのプレゼン書類の最終チェックを始める。
だが、頭の中はボスと莉子さんのことでいっぱいで、集中できない。
「なんでボスもあの人なんだろう……。確かに綺麗だけど、絶対性格悪いよ。あの見せつけの“やってやった感”の顔!ボスも痛い目に合えばいいのに!」
右手でペンをくるくる回しながら、思わず独り言をつぶやく。
……でも、よく考えたら、何も分からない相手をあれこれ悪く言ってる自分の方が、よっぽど性格悪いじゃん。
やめやめ!考えるのやめ!このままだと私まで性格ブスになっちゃう。
気を引き締めて、書類のチェックに集中し直した。
そろそろお昼だ。
ボスと莉子さんは、まだ出てこない。ついボス部屋のドアを見つめていると――ドアが開いた。
思わず立ち上がる。
「神崎」
「はい」
「莉子とランチをしてからSESに直接向かう。神崎もプレゼンの書類を持ってSESに来い。USBは絶対に忘れるなよ」
「はい!」
USBを手に持ち、ボスに見えるように高く上げる。
「あと、遅刻するなよ」
「はい。あ、ボスも莉子さんとのランチで時間を忘れないように気をつけてくださいね」
――思わず言ってしまった言葉に、莉子さんが面白くなさそうな目を向けてくる。
「俺が遅刻するわけないだろ。お前、一言多いんだ」
「すみません……」
ボスと莉子さんの後ろ姿を見送る。
手に持っていたUSBを、着ている上着のポケットに押し込み、私もお昼を買いに行った。
屋上でご飯を広げる。
7月の日差しは強く、汗が額ににじむ。
でも、食欲はあまり湧かない。
目の前のサンドイッチも、いつものおにぎりも、口に運ぶ手が止まることが何度もあった。
頭の中は、ボスと莉子のランチのことばかり。
「今頃、二人は楽しそうにランチしてるんだろうな……」
想像するだけで、胸の奥がざわつく。
羨ましさと悔しさが混ざって、思わずため息が漏れた。
手元のサンドイッチをぎゅっと握りしめる。
何もしていないのに、心が小さくチクリと痛む。
自分でも、どうしてこんなに気にしてしまうのか分からない。
――分かってる。ボスは蘭明じゃない。
それでも、私の心は簡単には落ち着かない。
目の前の景色を無理やり眺め、風に当たりながら気持ちを整えようとする。
でも、視界の端にあるオフィスビルの窓越しに、二人の姿が浮かんでしまう。
「……やめやめ、考えるのやめ!」
小さく呟き、深呼吸して肩の力を抜く。
午後からのプレゼンのために、集中しなければ。
でも、心の片隅で、あの二人の笑顔がまだ鮮明に残っている。
胸のざわつきは、簡単には消えそうもなかった。




