92.予想外の任務
昨日は、やらかしてしまった。
気まずさが胸を締めつけるけれど、初日から休むわけにはいかず、私は会社へ向かった。
駅の出口から次々と人が溢れ、横断歩道を渡り、それぞれの会社へ散っていく。
本来ならワクワクと胸を弾ませる初出社の日なのに——
頭の中は、蘭明によく似たボスでいっぱいだった。
昨日は一睡もできなかった。
――別人……なのかな?
私のことを分かっていなかったし、でも、あんなにそっくりな人が現実にいるなんて……。
その考えが頭の中でぐるぐると回る。
確かめる方法はあるのだろうか。
アンクレット……!
もしかしたら、蘭明ならあれをつけているかもしれない。
それに、私を守ってくれたときの傷も。
どうにかして確かめられれば、あの人が蘭明かどうか分かるはず。
でも、どうやって……
――ドンっ!
「イタッ!!ご、ごめんなさい!」
考え事をして下を向きながら歩いていた私は、前を見ていなかった。
目の前で立っていた誰かの背中に、おでこをぶつけてしまったのだ。
「また、お前か……神崎守華」
低く冷たい声が、胸に突き刺さる。
まさか……その声は——
恐る恐る顔を上げると、ボスが上から鋭く私を見下ろしていた。
目が合った瞬間、全身の力が抜けるような恐怖を感じた。
「蘭明!じゃなくて、ボス!!おはようございます!」
思わず勢いよくお辞儀をする。
腰は90度近くまで曲がっているだろう。
下を向いた顔は、昨日の失態を思い出して痛々しい表情になっていた。
恐る恐る顔を上げると——
目の前には、もう誰もいない。
エレベーターは上に向かって閉まっていった。
ある意味、私はほっとした。
だって、あの狭いエレベーターにボスと二人きりなんて、無理だもの。
腕時計をチラリと見て、「やばっ!」と思った瞬間、背筋がゾクッとする。
初日から遅刻なんて、絶対に避けなきゃ。
私は咄嗟に階段へ向かう。
心臓がバクバク鳴り、息が上がるのを感じながら、両手で手すりを握り、足を必死に動かす。
一段、また一段。
10階までの長い階段は、まるで試練のように感じられた。
汗が額を伝い、胸の奥が締め付けられる。
それでも、前を向いて駆け上がる。
もし遅れたら……ボスにどんな冷たい目で見られるか、想像するだけで体が震える。
「あと、もう少し……!」
息を切らしながら、必死で足を動かす。
周囲の人の視線も気になるけれど、今はただ、階段の先にある会社の10階だけを見つめていた。
やっとの思いで10階にたどり着くと、胸を大きく揺らしながら深呼吸する。
汗まみれで息も絶え絶えだけれど、少しだけ達成感と安堵が込み上げる。
——でも、心のどこかで、まだあのボスの冷たい視線が、頭から離れなかった。
_____ハァッ、ハァッ、ハァッ……
私は息を整えながら、フロア入り口の看板を見上げた。
株式会社 サザンクロス
エレベーターを待ったほうが早かったかもしれない。
でも、朝の混乱でそんなことを考える余裕もなかった。
「よし!」
気合いを入れてドアを開ける。
「おはようございます!」
大きな声で挨拶をすると、新入社員たちはすでに立って並んでいた。
その中の一人の女性が、にこっと微笑みながら手招きしてくれる。
急いで小走りで彼女の隣に駆け寄る。
「ギリギリね」
「本当ね。エレベーターに乗れなくて、階段で上がってきたから……」
「えっ!?10階まで?」
「そうよ」
「朝からすごいパワーね。さすが、昨日ボスに抱きつくだけの度胸がある人だわ」
「そ、それは……」
苦笑いで誤魔化すしかなかった。
「私は根本 琴音、マーケティング部よ。よろしくね」
「神崎守華、企画部です。こちらこそよろしくね」
根本琴音――初めて会社でできた友達だった。
身長は私より少し低く、まん丸の目に茶髪のボブ。少しぷっくりしていて、可愛らしい。
もし私が猫なら、琴音は小さな子犬のような存在だ。
「新入社員の朝礼、はじめるぞー!」
30歳過ぎくらいに見える、グレーのスーツに黒縁メガネの男性が近づいてきた。
「俺は田中。新入社員の教育係だ。よろしくな」
――ん?
あっ、この人、昨日私を止めた人だ。
一気に気まずくなり、私は下を向く。
「まず、各部署ごとに分かれて」
「はい!」
みんながそれぞれの部署のグループへ移動していく。
私も企画部のグループに向かおうとしたそのとき――
「神崎守華!」
背中から呼ばれて、思わずピンと背筋が伸びる。
「はい」
ゆっくり振り返ると、田中さんがこちらをじっと見ていた。
「昨日のお前だな」
つい、また苦笑いが出てしまう。
「神崎、お前はボスが呼んでる。今すぐボス部屋に行け」
「え!?私ですか?なんで?」
「行けば分かるさ。昨日のことも関係あるかもな」
意地悪そうに言い放つ田中さん。
「ボス部屋はここから見えないけど、真っ直ぐ行って奥の左側だ」
指を差して場所を教えてくれる。
この会社のフロアは、中央にエレベーターがあり、そこから左右に部屋やスペースが広がっているイメージだ。
エレベーターを降りて右側には、カフェスペースやミーティングルームなどが配置されている。
左側には各部署が並び、各部署の一番奥にボス部屋がある。
つまり、エレベーターを降りて真っ直ぐ進み、左に自分の部署の手前を通り過ぎ、さらに奥に進むとボス部屋にたどり着くという構造だ。
「分かりました」
深く一礼して、私はボス部屋へ向かう。
足取りは緊張で重く、胸の奥はざわついていた。
なんだか、悪いことをして校長に呼び出されたような気分だ。
まさか……クビ?
昨日はボスに抱きつき、今朝はぶつかり……
可能性はゼロじゃない。
ボス部屋には、すぐに到着してしまう。
だからあえて、ゆっくり、ゆっくり歩いた。
さっきの新入社員たちの笑い声が、どこからか聞こえてくる。
本来なら、私もあっちで笑っていたはずなのに……
今は怖くて、階段を駆け上がったときの脈拍よりも速く心臓が打っている気がする。
仕事を始めている社員たちを横目で見ると、全員が私を見ているように感じた。
いや、気のせいじゃない。
昨日のボスへの抱きつきは、社内で今日の話題になっているのだ。
注目の的になってしまうのは、当然だった。
愛想笑いを浮かべ、軽くお辞儀をしながら、慎重に歩を進める。
——こんな社会人のスタート、私が想像していたものとは、まったく違う。
ボス部屋の扉が、少しずつ視界に入ってくる。
その存在感だけで、胸の奥がキュッと締め付けられる。
手のひらに汗をかいているのを感じながら、呼吸を整えようとするけれど、鼓動は止まるどころか早まる一方だ。
階段を駆け上がったときの息切れもまだ残っていて、足取りはぎこちない。
扉の向こうには、あの冷たい目をしたボスがいる。
蘭明によく似たあの人……いや、昨日とは違う現実の人。
思い出すだけで、背筋がぞくぞくする。
「はぁ……はぁ……」
小さく息をつき、もう一歩、もう一歩と慎重に前進する。
愛想笑いもできず、ただ胸の高鳴りを抑えながら、扉の前までたどり着いた。
手をかける指先がわずかに震える。
ここから先は、もう後戻りできない。
ガラス張りのボス部屋。
だが、白く曇っていて中の様子は見えない。
心臓が爆発しそうな鼓動の中で、私はドアを叩く。
――____トントン。
「入れ」
喉がカラカラになり、ゴクンと唾を飲む。
「失礼いたします」
恐る恐るドアを押し開け、軽くお辞儀をして中へ入ると、デスクに腰をかけ、鋭い目でこちらを見つめるボスがいた。
“蛇に睨まれた蛙”とは、まさにこのことだろう。
体が硬直し、足も動かせない。
陽月国なら、勢いよく前に出て言いたいことを言えたのに……いや、あの頃はまだ若くて怖いもの知らずだったのかもしれない。
でも今は、これが現実。
クビになるかもしれない状況で、蘭明に似たボスの鋭い視線を前にして、言葉ひとつも出てこない。
静まり返ったボス部屋。
息をするのも忘れそうになるほど、緊張が張り詰めていた。
「神崎と言ったな」
蘭明と初めて話した、あの地下牢での口調をふと思い出す。
どこか、似ている気がした。
「ボス、私のこと、知りませんか?」
冗談ではない。心の底から、本気で聞いている。
ボスがゆっくりと私の方へ近づいてくる。
「俺に言い寄ってくる女は多いが、いきなり抱きついてきて、ぶつかってきて、『私のこと知りませんか?』だと?
こんな方法で迫ってくる女は初めてだ。お前は当たり屋か、神崎」
「当たり屋なわけないじゃない……こっちは真剣なのに」
小さくボソッとつぶやく。
するとボスの顔が目の前まで迫り、低く鋭い声で言う。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
笑っていないその顔に、背筋がゾクッとする。
「いえ……何でもありません」
私は一歩後ろに下がり、目を合わせないように下を向いた。
そんな私を見て、ボスは自分のデスクに歩き、座り心地がよさそうな椅子に腰を下ろす。
「神崎、お前、企画部だったよな?」
「はい」
面白くなさそうに返事を返す。
「企画部にお前の席はない」
「は、はい……」
思わず目線を下げるが、数秒後に意を決して目を見開く。
「はぁい???ボス、今、何と言いましたか?」
「今の若いやつは、話もちゃんと聞けねーのか?」
私は思わず縮こまり、大人しく頭を下げる。
「すみません……」
しかし、ボスの鋭い視線は容赦なく続く。
「企画部にお前の席はない」
息が詰まるような言葉に、思わず口ごもる。
「では……私は、どこに行けば……?」
まさか、予想通りの展開――クビ?
背もたれに寄りかかるボスがゆっくりと体を起こし、人差し指でデスクを指し示す。
「ここだ」
「へぇ……ここって、まさか私が社長に……?」
背中に寄りかかっていた姿勢が途端に消え、蓮の上半身が前のめりになる。
「馬鹿か!社長は俺だ!俺の会社を潰す気か!!」
その迫力に、思わず肩をすくめる守華。
「だって、今……ボスが“ここだ”って指差しましたから」
鋭い声が耳を打つ。
「神崎、ボスの俺に、よくもそんな口をきくな。普通の新人なら、何も言えず黙っているものだぞ」
「す、すみません……」
形式的に頭を下げつつも、守華の瞳は逸らさない。
間違ったことを言ったとは思っていなかったからだ。
さっきまでビクビクしていたけれど、思い出す。
陽月国では、命をかけて戦った。
命を奪われる恐怖よりも、怖いものはなかった。
少しずつ、守華の中の強さが戻ってくる。
緊張の糸が張り詰めたまま、しかし心の奥に静かな覚悟が芽生え始めていた。
「まぁ、いい。正確に言えば、あそこが神崎の席だ」
ボスがリモコンのボタンを押すと、さっきまで白く曇っていたボス部屋のガラスが、一瞬で透明になった。
その指差す先を見ると、そこには一台のデスクと椅子が置かれていた。
さっきボス部屋に来た時は、まったく気づかなかった。
緊張で頭がいっぱいだったし、周囲の社員たちの視線に圧倒され、周りを見る余裕すらなかったのだ。
「入社早々、問題ばかり起こすから監視されるんですか?」
その問いに、蓮は「何言ってるんだ?」とでも言いたげな表情を見せたが、守華の頭にはその顔すら入ってこなかった。
やっぱり、このボスは……蘭明なのか。
思わずそんな考えが頭をよぎる。
監視され、屋敷から自由に出られなかった日々の記憶が蘇り、ふと、「監視が好きなのか?」なんて思ってしまう。
「馬鹿か」
さっきまでの鋭く冷たい目つきとは打って変わって、ボスはわずかに笑ったような気がした。
「社長秘書だ」
「秘書……?」
思わず聞き返してしまった。予想外の言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。
「そうだ。先月、秘書が辞めたばかりでな。新人の中から選ぼうと思っていたんだ。そして選ばれたのが、お前だ。神崎。俺の秘書なんて、滅多にできるもんじゃない。喜ぶところだろ?」
私の頭の中は、ぐちゃぐちゃにかき回されたような状態だった。
私が秘書……?大学でも秘書の勉強なんてしていないのに。
しかも、花に関する行事や企画を考えたくて、企画部に入ったのに……。
喜べるはずもない。
「ボス、私、秘書の仕事なんて分からないですが……」
「大丈夫だ。難しいことは何もない。とりあえず、これを三日以内に全て頭に叩き込め」
ボスはそう言うと、デスクの下から大量に積まれたファイルを取り出し、私の前に差し出した。
「ボス、これは……?」
「俺のことだ。秘書はボスのことを完全に把握しないと務まらない。あとは俺の行動、付き合いのある他会社の情報、もちろんこの会社の社員のことも全て書いてある」
「これを……たった三日で!?」
「そうだ」
つい、ボソッと口をついて出た。
「パワハラ……?」
「神崎、いいんだぞ。秘書が嫌なら席はもうないけどな」
――これが現実。社会人というもの。縦社会には逆らえない。
いや、時代も国も関係ない、どこも縦社会だ。
ボスの姿が、ふとあの陛下や皇后に見えてしまう。
重いファイルを両手で抱え、口がぽかんと開いたまま固まる。
「どうする?神崎」
「……三日ですね。やります」
戦闘モードで答えたその瞬間、ボスがふっと笑ったように小さく言った。
「さすがだな」
その言葉に、思わずハッとする。
蘭明がよく私に言っていた「さすがだな」と同じ響き……。
またもや、目が離せずボスを見つめてしまう。
「なんだ、神崎。俺に見惚れているのか?」
「あっ……あと、何もなければ失礼します」
一礼して、重いファイルを抱え、ボスに言われた席へ向かった。
蘭明のようで、蘭明じゃない。
蘭明じゃないようで、やっぱり蘭明。
私のただの思い込み……なのだろうか?
顔が似ているだけで、ちょっとした仕草や表情にまで、つい蘭明を重ねてしまっているだけかもしれない。
そうだよね。
陽月国という名前すら、存在しなかった。
夢だったのか……それともパラレルワールド?
次元が違う。現代に蘭明がいるはずがない。
でも……諦めらてきれない.....
社長秘書……ということは、ほとんどボスのそばにいるってこと。
アンクレットや傷を、確認できるチャンスがあるかもしれない。
そして、このファイルの中には、ボスのことがぎっしり書かれている。
手を置き、じっと見つめる。
やってやる!
蘭明かもしれない可能性が、たとえ1%でもあるなら、気が済むまで確かめてやる。
それに、入社初日にボスに抱きついた女として、すでに変な目で見られている。
今のこの会社で、私が存在感を消せる唯一の場所は、この秘書席――社員の視線から隠れられる場所だ。
今の私に、ぴったりだ。
……ちょっと待って!
もしかして、分かってて私を秘書にした……?
いやいや、ないない。




