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守る華・守られる花  作者: ミシル
第三章 サザンクロス

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91.再会の錯覚

「蘭明!」


衝動のまま抱きついた相手は、職場の上司だった。

振り返ったその顔は、私が命を懸けて愛した人と、あまりにも瓜二つ。


「……警察呼ぶぞ」


冷たく突き放す声に、胸の奥で時が止まる。

——あなたは、蘭明じゃない。

頭では分かっているのに、心が必死に否定する。


夢だったのか、現実だったのか。

私の愛した人は、いったいどこにいるの……?





私は二十二歳になった。


陽月国から戻された当初、心にぽっかりと穴が開いたような虚無感に襲われた。ふとした瞬間に蘭明の顔がよぎり、ひとり胸が締めつけられて涙がこぼれる。これまであれほど泣かなかった私が、彼を思い出すたびに止めどなく泣いてしまうのだ。


「お前の泣く場所は、俺のところだ——」


その言葉だけが、夜ごと頭の中で反芻される。でもこの日本には、私の涙を受け止めてくれる場所がない。頼れるのは自分の調べ物だけで、中国の歴史、日本の歴史、アジア各地の記録を片っ端から紐解いた。どこかに「陽月国」という地名はないか、第二皇子『李蘭明』の名が刻まれてはいないかと探し続けた。


何度調べても、その痕跡はどこにも見つからない。あれは夢だったのだろうか——現実なのか夢なのか、境目は次第にぼやけていった。


陽月国からこの日本へ戻って、もう四年が経つ。日が経つごとに、あの国で過ごした時間の輪郭は薄れ、色が褪せていくようだ。そして同じように、蘭明の姿も──少しずつ遠ざかっていく気がする。




大学を卒業した私は父の元を離れ、一人暮らしを始めた。

そして今日から、いよいよ社会人としての生活が始まる。


就職先は花を扱う「株式会社サザンクロス」。

会社名を目にした瞬間、胸の奥が不思議とざわめいた。


——花言葉は「願いを叶えて」「遠い思い出」。


夢でも現実でも、蘭明を心にしまって生きていこう。

そう決意した矢先に出会った名前だった。まるで、私と彼の物語を映し出しているようで……。


半ば運命に導かれるように試験を受けたら、驚くほどすんなり合格してしまった。

この厳しい時代に、こんなに順調に道が開けるなんて。

現実のはずなのに、どこか夢の続きのように思えてならなかった。




髪を少し茶色に染め、前髪を斜めに流してコテでふんわり巻いた長い髪を揺らしながら、私は黒のパンツスーツとヒールで会場の席に腰を下ろした。緊張で手のひらがじんわり汗ばんでいる。


「ただいまより、株式会社サザンクロス入社式を行います」


ホテルの広間が一瞬で静まり返る。前列には新入社員が十人程度、後方には在籍社員がぎっしり。決して巨大な会社ではないけれど、空気は公式で、心臓が高鳴る。


「それではここで、株式会社サザンクロス代表取締役社長 中村 れんより、ご挨拶を申し上げます。皆さま、どうぞご清聴ください」


“中村…” その名前が耳に入る瞬間、胸の片隅がざわついた。どこかで見覚えのある響き──蘭明が嘘で使った名前と同じだ。

思わず下を向いて、微かに笑みがこぼれる。


少し高くなったステージに、足音が響く。


「あの人が社長?かっこよくない?」


周囲の女子たちも騒ぎ始める。

社長面接がなかったのは私だけじゃなかったみたい。

一瞬、喜びを独り占めした気分になっていた自分が恥ずかしくなる。


「かっこいい!しかも若い!」


守華も顔を上げ、ステージを見た瞬間——


「らん、めい?」


社長の視線が私を捉えた。空気が消え、周囲のざわめきはまるで遠い海の音になった。彼と私だけがそこに取り残されたように、目と目が合う。


「蘭明」


その一言と、薄く笑みを浮かべた顔。私の胸が一度、鋭く震えた。理屈では説明できない感覚が胸いっぱいに広がる。


私は、また、あなたに恋をしました。




「新入社員のみなさん、おめでとう。私は、このサザンクロスの代表、中村なかむら れんだ。我が社は設立してまだ五年目。これから伸びるかどうかは、今ここに座っている皆さんにかかっている。若い発想力に期待している。そして……私のことは“社長”ではなく、“ボス”と呼んでくれ」


その言葉とともに、ボスは一礼し、ステージを降りていった。


私はその姿から目を離せなかった。

心臓が早鐘を打ち、全身が熱くなる。

もう入社式の言葉なんて、ひとつも耳に入らなかった。


短い黒髪、黒のスーツ。

髪型も服装も確かに違う。けれど——あの瞳、笑ったときの口元、輪郭、背丈、体格。どれも蘭明と同じ。


——蘭明。

やっと……やっと会えた。


式が終わると同時に、彼は会場を出て行った。

私はもう考えるより先に立ち上がり、その背中を追っていた。


人でごった返すロビー。ざわめきに包まれているはずなのに、私の世界には彼しかいない。


「蘭明!!」


溢れる想いが声になり、胸の奥から飛び出した。

その瞬間、彼が振り返る。


——ああ、間違いない。

あの目は、私の愛した人の目だ。


涙がにじみ、笑みがこぼれる。

心が震えるほどの高鳴りに突き動かされ、私は駆け出していた。


騒がしかったロビーが、一瞬で静まり返った。

私が大声で叫んだからだ。注目を浴びているのは分かっていた。けれど、もうどうでもいい。


呼んだ声に反応し、彼が足を止め、ゆっくりと振り返った。


——止まってくれた。

“蘭明”と呼んで、彼は振り向いてくれた。


胸が熱くなる。間違いない、蘭明だ。やっと会えたんだ。


「蘭明!」


私は駆け出し、そのまま彼の胸に飛び込んだ。全身が震える。やっと、やっと再会できたのだから。


周囲がざわめき、誰もが目を見開いている。


「ちょっと君、離れなさい!」


隣にいた二人が私を引き剥がそうとする。

——いや、離れたくない。やっと会えたんだから。もう二度と失いたくない。


それでもしがみついた瞬間。


「……警察呼ぶぞ」


頭上から響いたのは、冷たく低い声。

その声音に、心臓が凍りついた。


「え……蘭明?」


抱きしめたまま、恐る恐る顔を上げる。

そこにあったのは、ステージで微笑んでいたあの温かな表情ではなく、冷ややかで鋭い眼差し。


「いつまで抱きついている?」


息が詰まった。——違う。

これは蘭明じゃない。私が入社した会社の社長。冷たく見下ろす“ボス”だった。


「……す、すみませんでした」


言葉が震える。悲しみで胸が潰れそうになるのを必死にこらえ、深く頭を下げた。


——違う人だと分かっているのに。

あの瞳に、どうしても重ねてしまう。

蘭明……あなたに、もう一度会いたい。


私は、悲しい笑みを浮かべながら、その場を去ろうと歩き出した。


「お前は新入社員か?」


鋭い声が背後から突き刺さる。

去ろうとしていた足が止まり、私は思わず振り返った。


「……はい」


喉が乾いて、かすれた声しか出ない。


「名前と部署は?」


神崎かんざき 守華しゅか、企画部です」


「神崎守華か――覚えておこう」


その言葉は氷の刃のように冷たく、温情のかけらもない。

一歩、また一歩と、二人を従えて私の横を通り過ぎていく姿には、近寄ることを許さぬ圧があった。


ただ見送ることしかできなかった。


――蘭明。そう思った瞬間、胸が跳ねた。

でも違った。

目の前にいるのは、蘭明なんかじゃない。


ほんの一瞬の高揚が、彼の冷酷な言葉で踏み潰される。

心臓ごと、地獄に叩き落とされたような気分だった。


私は肩を落とし、トボトボと外へ出る。


しかもよりによって――

蘭明じゃなかった人に、

この会社のボスに、

入社初日で、

全社員が揃っている中で、

思い切り抱きついてしまった。


……私、完全に変人じゃん。


「覚えておこう」

その声音は、冷酷な判決のように耳に焼きついて離れない。


――二日目を迎える前に、クビが飛ぶかもしれない。




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