88.二つの想いを抱いて
「季昭!」
すずらんは笑顔を作り、手を振って季昭に駆け寄った。
「蘭皇は?」
「うん、もう大丈夫そう。季昭、ありがとうね」
「いや、俺は何もしてねーし」
「咲公主は?」
「星皇と一緒にいる」
「そっか……星曜なら、きっと幸せにしてくれるわね」
「会わなくていいのか?」
「会いたいけど、きっと会ったら別れが悲しくなるから……いいの」
歩き出す二人の間に、ほんの少しの沈黙。
「腕の怪我は大丈夫か?」
「うん!大丈夫よ。それより、早めに彩国に帰りましょう」
すずらんの笑顔は明るく見えた。けれど季昭には、無理に作った微笑みにしか見えなかった。
その笑顔の裏にある切なさ、必死で隠そうとしている痛みが、季昭の胸をぎゅっと締めつける。
少し前を歩くすずらんを、季昭が後ろからそっと抱きしめた。
「季昭?どうしたの?」
「ほんの少しだけ……」
いつもの冗談っぽい季昭とは違う、その声の奥に、守る者としての強さと、秘めた想いが混じっていた。
「なあ、すずらん。もし、俺が蘭皇より先に会っていたら……すずらんの心は俺ひとりのものになっていたか?」
「それは……」
守華は、答えを言葉にできずにいた。季昭は静かに、守華の肩に手を置き、そしてそっと離す。
「すずらんは、公主を守るために刺客に襲われて……死んだ」
「えっ?」
守華が目を見開く。
「どういうこと?」
季昭の瞳は揺らがない。
「お前は守華として、ここに残れ。咲公主にも話してある。陛下にバレることはない」
「季昭、何を言……」
「守華、本当のお前の姿を引き出せるのは、俺じゃなかった。蘭皇のところへ戻れ」
言葉に詰まり、守華の胸は押し潰されそうになる。
「……必ず幸せになれ」
季昭は優しく微笑み、守華の頭をぽんぽんと撫でた。
「じゃあな」
守華は立ち尽くし、視界が滲む。季昭はそのまま通り過ぎる。
「季昭……あなたはどこまで……いつも……」
涙が止まらず、守華は振り返り、夜風に乗せて季昭に叫んだ。
「季昭……もしあなたがいなかったら、私は今ここにいられなかった。本当に、本当にありがとう!あなたのおかげで、負けずに生きてこれた。あなたは……最高の人よ!」
季昭が振り返り、笑顔を守華に向ける。
「いつでも拐いにきてやるからな!」
守華も力なく笑みを返す。季昭は再び歩き出し、背中を見せながら手を振っていた。
季昭との出会いから今日までのすべてが、走馬灯のように守華の胸に流れる。
あなたを利用してしまったこと……
最低な選択をしたこと……
自分の気持ちに素直になれず、傷つけてしまったこと……
それでも、いつも味方でいてくれた……
最後まで、こんな私のことを思ってくれた……
「季昭に素敵な人が現れますように……」
季昭の私への思い、決して無駄にはしない。
必ず幸せになるわ、ありがとう……
守華は、蘭明の屋敷へ走った。
桜音亭で見た月明かりの下の木々の景色が、蘭明の横顔と重なり、胸が締めつけられる。
「蘭明」
「守華……季昭のところに戻ったんじゃ…」
守華は迷いなく歩み寄り、彼の袖を掴む。
「私が本当に彩国に戻ってもいいの?」
「それは……もちろんだ」
蘭明が歩き出すと、守華はすぐに立ちはだかり、静かに、でも強く言った。
「私と季昭は一線を越えてない。だから……私を引き止めないと、その口ちょん切るわよ」
蘭明は一瞬、守華の瞳を見つめ、そして低く囁いた。
「行くな!どこにも行くんじゃない!」
その言葉に守華は胸が熱くなり、涙を浮かべながらも微笑む。
「私は……もうあなたから離れない」
守華は蘭明の手を握り、胸に当てたまま見つめる。
蘭明は守華の言葉に微笑み、そっと抱き寄せた。
そのまま優しくお姫様抱きにして、二人は屋敷の中へと運ばれる。
部屋の明かりは月明かりだけ。
窓から差し込む柔らかな光が、二人の姿を静かに包む。
抱きしめられた守華は安心と温もりで胸がいっぱいになり、自然と涙が零れた。
蘭明は守華の髪を撫でながら囁く。
「もう離さない……ずっとそばにいる」
守華も小さく頷き、蘭明の胸に顔を埋めた。
夜が深まる中、二人は互いの鼓動を感じながら寄り添い、静かに時間を重ねる。
外の世界の喧騒も、危険も、過去の痛みもすべて忘れられる――
今、この瞬間だけが二人のものだった。




