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守る華・守られる花  作者: ミシル
第二章 すずらん

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87/113

87.月明かりの下、心の本音

咲公主がいたため、無理をせずゆったりと進んだ道のりは、結局十日ほどかかった。


そして――ようやく陽月国の地へ足を踏み入れる。


一年十か月ぶりの帰国。

懐かしい空気が胸いっぱいに広がる。

この独特の匂い、そして山上から一望できる陽月国の景色――やはり、ここが好きだ。


星曜や夏翠は、元気にしているだろうか。


本来の任務も忘れてしまいそうになるほど、心が弾む。

足取りは自然と軽くなり、山を下って町へと入った。


そこには変わらぬ賑わいがあった。

行き交う人々の声、商人たちの呼び込み、漂う香ばしい匂い。


――あぁ、変わっていない。


その懐かしさに胸が温かくなり、ほっと息がこぼれた。



そう思ったのも束の間、何かを感じ始めたすずらん。

しかし、それはすずらんだけではなかった。

蘭明や季昭の目にも、異変の兆しが映っていた。


「八軒、咲公主を守れ」


「はっ!」


「咲公主、何があってもこの場から動かないでください。よろしいですね?」


「えっ……どうしたの?」


「刺客です。必ずお守りいたします。ご安心を」


すずらんが一瞬、迷うように目を伏せる。

――私にできるだろうか。でも、守らなきゃ。絶対に。


「でも……あなた、武芸はできないでしょう?」


問いかけに、すずらんの返事はなかった。

すでに刀を手に取り、静かに距離をとる。

握る手に力がこもり、指先に微かな震えが伝わる。

深く息を吸い、吐き出すたびに心を落ち着ける。

その目には揺るがぬ決意が宿っていた。

誰もが知ることのできない覚悟が、そこにあった。


「すずらん、気をつけろよ、来るぞ!」


緊張が走る。

空気が一瞬にして張り詰め、すずらんの背筋に力が入り、刀先がわずかに光る。

息を整え、目を鋭く見開くその姿に、誰もが息を飲んだ。


一斉に弓矢が飛び交った。


逃げ惑う人々の悲鳴があちこちで響く。


すずらん、蘭明、季昭、八軒、そして他の護衛たちも矢をかわしながら前へ進む。

心臓が早鐘のように打つ中、彼女の視線はただ公主の馬車だけを追っていた。

――絶対に、何があっても守る。


しかしその瞬間、屋根の上から何十人もの刺客が飛び降りてきた。


「公主を守れーーー!」


八軒を中心に、護衛たちは馬車の前で陣を固める。

すずらん、蘭明、季昭も前線に立ち、刀を握る手に力を込めた。


「公主には絶対に近寄らせるな!」


「分かっているわ」


刀と刀がぶつかる鋭い音が、戦場の空気を震わせる。

すずらんの耳に、矢が弾く音や金属同士がぶつかる音が入り混じり、鼓動がさらに速まる。

刹那、彼女の心は覚悟で満たされ、恐怖は決意に変わった。


蘭明も周囲を見渡し、動きを計算する。季昭は盾を構え、八軒は公主の周囲を飛び回るように守る。

誰もが必死だった。

もう少しで公主を安全に届けられたはずなのに、こんなところで立ち塞がる敵たち。


すずらんの目に、蘭明の背後から襲いかかろうとする影が映った。


――まずい。


「蘭明!」


声と同時に、すずらんの体が自然と蘭明の元へと飛び込む。


振り向いた蘭明は、咄嗟に抱きついてきたすずらんをそのまま抱き寄せ、くるりと回転して背後から狙った人物を交わす。


「守華!大丈夫か!?」


守華の左腕には、刀の刃がかすっていた。


季昭もそれに気づき、すずらんの元へ駆け寄る。


「大丈夫よ。蘭明、ちょっと鈍ったんじゃない?背後から襲われるなんて」


「びびらせるなよ」


すずらんが無事だと知り、季昭は安堵の息をつく。

三人は背を合わせ、周囲の刺客に刀を向ける。


「いけるか?」


蘭明がすずらんに問いかける。


「もちろん」


すずらんの左腕からは血が流れ出していた。

――本当に、命がいくつあっても足りないわね。

陽月国でこう思ったのも、もう何度目だろう。

でも、今となっては全部、いい思い出。


血の感触を感じながらも、すずらんの動きは止まらない。

鋭い呼吸に合わせ、刃が風を切る音が響く。

刺客たちの動きを正確に読み取り、次々と刀を交わす。

痛みを感じるたびに身体が瞬時に反応し、攻撃の角度を変え、隙を突く。


そして――踊りに専念していた一年半。

毎日重い着物をまとって舞ったことが、今のしなやかな足さばきと体幹の強さを育てていた。

一歩ごとに衣の重さを支え続けた脚は、戦場で踏ん張る力となり、舞で培った回転や跳躍は、刀を避ける身のこなしへと変わる。


さらに、時折欠かさなかった武芸の稽古も無駄ではなかった。

握り慣れた扇の動きが、今は刀に変わっても自然と手に馴染み、相手の隙を突く鋭さを生んでいる。

舞と武芸が交わった動きは、刺客の予想を超え、流れるように敵の刃をかわし、反撃の一閃を生み出す。


周囲の敵の足音、武器の金属音、遠くから聞こえる叫び声――

すべてが戦場のリズムとなり、すずらんの集中力を研ぎ澄ます。


――まだ終わらない。絶対に公主を守り抜く。


腕が立つ者ばかりだ。

負けるはずがない。


やがて諦めた刺客たちは、次々と退いていった。

深追いはしない。――今は一刻も早く咲公主を送り届けることが先決だ。


すずらんは息を整え、馬車へと向かおうとした。

咲公主に声をかけて安心させてあげよう、そう思った瞬間――


まだ残っていた刺客が屋根の上に潜んでいた。

公主の馬車を狙い、弓矢を放つ。


それに気づいた蘭明と季昭。


「守華ーッ!」

「すずらーん!」


二人の声が重なった。


振り向いた瞬間、すずらんの目の前に立っていたのは――蘭明だった。


「大丈夫か?守華」


状況が理解できず、守華は目を見開いたまま動けなかった。

間に合わなかった季昭が、屋根の上の刺客に矢を向け放つ。


その一連の流れを見て、すずらんはようやく悟る。


「……蘭明?」


目の前には、蘭明の背中が立ちはだかっていた。

振り返ることなく、低く落ち着いた声が響く。


「……大丈夫か?」


その声に違和感を覚え、すずらんは恐る恐る回り込み、蘭明の正面へと足を運んだ。

そこで目に飛び込んできたのは――胸に深々と突き刺さった一本の矢。


「無事でよかった……」


かすかな微笑みと共に、蘭明の体が崩れ落ちる。


嘘――。


「蘭明?……蘭明! ねぇ、蘭明っ!! ダメよ……ダメーーーーっ!」


すずらんの絶叫が戦場に響き渡る。


その声を聞きつけ、馬車の反対側にいた八軒が駆け寄った。

咄嗟に状況を把握した八軒は、すぐ傍に蘭明の屋敷があることを思い出し、胸に刺さった矢を短くおり、迷わず抱きかかえる。


「急げ!」


護衛たちの手を借り、蘭明を屋敷へと運び込んだ。


すぐに医者に見せることができた。

部屋の外では、すずらんと季昭が落ち着かない様子で待っていた。


すずらんは手を胸に当て、何度も深く息をつこうとするが、呼吸は浅く乱れている。

「すずらん、大丈夫だから、落ち着け」

季昭が低い声で宥める。


「で、でも……また私のせいで、蘭明が……」

涙声で吐き出すすずらん。


「大丈夫だ!必ず助かる。あいつはそう簡単に倒れやしない」

力強い言葉をかけても、もうすずらんには季昭の声が届いていない。


落ち着きなく部屋の前を行ったり来たりするすずらん。

張り詰めた沈黙の中、やがて扉が開き、医者が姿を現した。


「先生!」

すぐに駆け寄るすずらん。


「とりあえず一命は取り留めました。ただ、まだ油断はできません。薬で眠らせていますが、少しでも異変があればすぐに呼んでください」


その言葉にすずらんの足から力が抜けそうになる。

彼女はすぐさま蘭明の部屋へと駆け込み、その傍らに座り込んだ。


すずらんはすぐさま蘭明の手を握りしめた。

その温もりを確かめるように、強く、しかし壊れ物を扱うように慎重に。


少し経ってから季昭が静かに部屋へ入ってくる。

彼の視線の先には、必死に蘭明の手を離そうとしないすずらんの姿があった。


「今、知らせが入った」

低い声で切り出す季昭。


「……あの刺客たちは彩国の者だった。彩国と陽月国が仲良くなるのをよく思ってない集団だ。だから、陽月国でわざと公主を狙い、陽月国の仕業に見せかけようとしたらしい。咲公主とも話したが、とりあえず蘭皇が目を覚ますまでは、このことは両陛下には黙っておく」


すずらんは顔を上げ、小さくうなずいた。

「うん……その方がいいわね」


「すずらん。お前は今日、ここにいろ」


「えっ……?」

驚いて後ろに立つ季昭を見上げる。


「どうせ宿に戻ったって、蘭皇のことが気になって眠れねぇだろ。俺は咲公主のところに行ってくる。きっと怖い思いをしただろうからな」


すずらんは力を込めて頷いた。

「……うん、わかったわ。蘭明が目覚めたら、行くから」


「……ああ。でも、あんまり無理すんなよ」


「ありがとう、季昭」


ほんの一瞬、季昭は言葉を失い、その場に留まりたそうにすずらんを見た。

だが、やがて後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。



部屋には、静かに眠る蘭明と、寄り添うすずらんだけがいた。

すずらんは水で濡らした布を取り、そっと蘭明の額を拭う。


「……また、この屋敷に来ることになるなんて、思わなかったわね」

小さくつぶやき、器の水を替えるため部屋を出ていった。


向かったのは桜音亭。

夜風にそよぐ枝の下で、すずらんは桜の木を見上げる。


「……何も、変わってないわね」

その声には、懐かしさと切なさが入り混じっていた。


ふと背後から、柔らかな温もりが肩にかかる。羽織だった。

驚いて振り返ると、そこには小心の姿があった。


「夜風は体に悪いですよ、守華さま」

小心は穏やかに微笑む。

「……おかえりなさい」


「小心……」

その姿を目にして、すずらんの胸に込み上げるものがあった。


「こんな形で帰ってくるなんて、夢にも思わなかったわ」


「蘭皇なら大丈夫ですよ!」

小心は力強く言い切る。

「守華さまを置いて死ぬなんて、あり得ません」


すずらんは小さく息をつく。

「そうだといいのだけど……でも、咲公主に申し訳なくて」


「公主に?どうしてです?」

小心は首をかしげる。

「守ったのですから、悪いことではありませんよ」


「えっ?だって……蘭明に嫁いできた、その日に蘭明の命が危うくなってしまって。しかも私を守って……どんな顔で会えばいいか……」


「ちょ、ちょっと待ってください!今、何ておっしゃいました?」


「どんな顔で会えばいいか?」


「もっと前です!もっと!」


「えっ?……蘭明に嫁いで来た日?」


「そこです!蘭皇に嫁いでませんよ!」


「え?」


「彩国の公主と婚約するのは星皇です!」


「え、えーーーっ!? 星曜? じゃあ、なんで蘭明が迎えに来てるのよ!?」


「それは……星皇が蘭皇の荒ぶりを見て、気分転換に他国へ行かせたんです。星皇ご自身は婚礼の準備で忙しく、屋敷を離れられませんから。その代わりに蘭皇を、と。……そこで守華さまと再会したのは、星皇にとっても予想外だったはずです」


「……私はてっきり、咲公主は蘭明に嫁ぐものだと……。蘭明も何も言わなかったし……」


蘭明の結婚ではなかった――。

そう気づいた瞬間、胸の奥でひそかに安堵している自分に気づき、すずらんはほんの少し頬を赤らめた。


蘭明の結婚ではなかった――。

胸の奥でひそかに安堵したものの、その気持ちを悟られまいと、すずらんはそっと視線を逸らした。


「ま、まぁ……どっちにしたって私には関係ない話よね。とにかく、公主が無事に嫁げばそれでいいんだから」


わざとらしく肩をすくめ、平然を装うすずらん。

けれど、心の奥でほっとした鼓動は、なかなか静まってはくれなかった。


部屋に戻ると、蘭明はまだ眠りの深い海の中に沈んでいるようだった。呼吸だけが、かすかに胸を上下させている。すずらんはその音にすべてを託すように、震える手で布を絞った。水の冷たさが指先に戻ってくるたび、現実が胸に刺さる。


「……咲公主と結婚するのは、蘭明じゃなくて、星曜だったのね」


誰にも知られたくないのに、少しだけ安心している自分に気づく。

胸がじんわり温かくなるのを必死に隠して、すずらんは平然を装った。


夜な夜な、すずらんは蘭明に話しかけた。

話していれば、きっと――目を覚ますはずだと、細い頼みを込めて。


「彩国って、本当に私のいた国と似ているところが多かったのよ。蘭明のことを思い出さないように、私は踊り手を目指した。朝から晩まで、ひたすら練習していたの。何かで忙しくしていないと、すぐにあなたのことが頭に浮かんでしまうから。彩国で踊り手の序列は、皇后、そして公主に続いて三番目なんだって。だから、その三番目の座をまず目指したの。何のためだったんだろうね……。地位なんて本当はどうでもよかったはずなのに。本当は、トップまで上り詰めて、陽月国で私の名が流れて──そうすれば、あなたが気づいてくれるかもしれないって、どこかで期待してたのかもしれない。」


言葉は細く、でも止められない。すずらんはそっと蘭明の頬に触れる。指先が当たるだけで、冷たく、脈が感じられない。胸がきしむ。


「それで、あなたが本当に目の前に現れたときは、心臓が止まりそうだった。気持ちを整理しようとしていたのに、現れて、冷たくあしらってもついてきて……忘れたいと思えば思うほど、逆に抑えられなくなってしまって──」


言葉が途切れ、すずらんの頬に涙が伝う。ひと粒が、静かに蘭明の頬を濡らした。


「でも……季昭はいつも私の味方でいてくれた。聞かなくても分かってくれて、黙って支えてくれた。季昭がいたから私は何とか壊れずにいられた。だから、季昭を見捨てるなんてできない。」


言葉が詰まる。古い伝承の呪いが、唇を割るように口をついて出た。


「“妖石に願いを託した者。その身代わりにそばにいる一番愛する者が死す”――どれだけあなたを愛しても、私たちは一緒にいられない。だから私は、あなたから離れた。あなたに生きていてほしかったから、遠くから祈ることにしたのに……私が戻った途端に、あなたの命が脅かされるなんて。ここであなたが消えたら、私が耐えてきた意味は何なの? 私の選択は全部、無駄になってしまうの?」


声が震え、唇が何度も震えた。理由を問いただすように、世界に向かって叫ぶように。


どうして――どうして私は、こんなに弱いの......こんなに頑張ったのに、あなたのそばにいるとまた全部壊れそうになるの。


部屋を出ると、夜の冷たい空気が肩を押す。

庭の木々は赤や黄色に染まり、ひらひらと落ち葉が風に舞う。淡い月明かりがその影を床に落とし、ゆらゆらと揺れる。


すずらんは立ち止まり、手に握った袖をそっと握りしめた。秋の匂いが鼻をくすぐり、胸の奥のざわめきを少しだけ落ち着かせてくれる。

それでも、蘭明の安否を思えば心臓はまだ速く打ち、指先は冷たく震えていた。


「私は――ただ、あなたを守りたかっただけなのに」


声が震え、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。涙が止まらず、頬を伝って落ちる。


「お願い、死なないで。お願い、目を覚まして。お願い……」

夜風が彼女の吐息をさらい、言葉は遠くへ消えていく。残されたのは、温もりの欠片と、どうにもならない切なさだけだった。


桜音亭の屋根の上。

ここも、何も変わっていない。私の特等席。


十月の夜風がそっと頬を撫で、庭の木々の赤や黄色の葉がひらひらと舞う。月明かりに照らされ、屋根の影や舞い落ちる葉までが柔らかく光る。


「ここから見る月が、一番綺麗……」

そう呟いたけれど、涙は止まらず、頬を伝って次から次へと流れ落ちる。

陽月国を離れてから溜め込んでいた心の疲れも、悲しみも、すべてが押し寄せてくる。


座る私の後ろから、ふわりと暖かい体温が伝わった。

「守華は、私が命を落とそうとしないと、本音を言わないんだな。あと何回死に損ねればいい?」


振り返ると、そこには笑みを浮かべた蘭明がいた。

「蘭明!?」

思わず声が震える。


「えっ、傷は? 具合は? ちゃんと寝てないとダメじゃない」

胸の中から取り出されたのは――

「それは、私が返した蘭の簪」


「割れてしまったけどな。この簪に助けられたみたいだ」


「えっ!? でも、医者も油断できないって言ってた……」


「そう言うように伝えたんだ」


「えーーー!? じゃ、ずっと起きて……たの?」


「あー……守華の本音を聞くためにな。あっ、でも刺客までは仕込んでないぞ?あれは本物だ」


「分かってるわよ!」


「言っただろう? 私が守ると」


「だからって、命を粗末にしないでよ……」


涙が止まらない。

「せっかく、泣かない自分に戻ったのに、蘭明のせいでまた弱い自分になっちゃう……」


「弱くていいんだよ。守華の涙は綺麗だ」

そう言って、蘭明は優しく私の頬の涙を拭き取る。


「よかった……本当に生きててくれてよかった……」


蘭明の声には、これまでの不安と安堵、そして覚悟が混じっていた。

「守華が私から離れた理由も、あとで呂布お爺様に聞いてわかった。だから必死に守華を探し回ったんだ。彩国で偶然見つけたとき、本当に安心した。でも、守華の愛する者はもう私ではなく季昭なんだと思って……言い出せなかったんだ」


胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

「私は死なない。守華と血の約束を交わすなら、死ぬことはないんだ」


「え……?」


「守華が最後まで話を聞かずに、勝手に誤解して、勝手に判断して、勝手に私の前からいなくなったんだ」


「うそ……」


「こんな状況で嘘が言えるか」

その言葉に、すべての涙と不安が少しずつ解けていくようだった。

そして、蘭明の真剣な目が、私をどれだけ思ってくれているかを、言葉以上に伝えていた。


涙が止まらないまま、すずらんはそっと蘭明の手を握る。

心臓が張り裂けそうなほど痛むけれど、同時に、安堵が胸いっぱいに広がっていく。


「蘭明……生きててくれて、本当によかった……」


その言葉を何度も何度も言う。


蘭明の指先が私の手を優しく包む。

「守華……泣かなくていい。もう大丈夫だ」

その言葉に、涙が自然に溢れ、止めようとすればするほど、溢れ落ちる。


すずらんの胸にぎゅっと抱き寄せられると、震えていた身体が少しだけ落ち着く。

「私は……あなたを守りたかっただけなのに、あなたが無事でいてくれるなら……もうそれだけでいい……」


蘭明のぬくもりに包まれ、涙を拭きながら、すずらんは自分の心に素直になる。


どれだけ離れていても、どれだけ誤解しても、私の想いは変わらない――

蘭明を、守りたい。大切に想う気持ちは、何も変わっていない。


月明かりに照らされた屋根の上で、落ち葉がひらりと舞う。

その中で、すずらんの心は少しずつ、穏やかに、そして確かに蘭明とつながっていることを感じていた。



「私は蘭明を愛してる。でも、やっぱり私は彩国に戻らないと。季昭が助けてくれたぶん、次は季昭を助けてあげないと」


「やっぱりそうか……」

少し寂しげだけれど、蘭明の瞳には理解と優しさが宿っていた。


「うん」


「守華が言ったな? 自分の幸せが一番だと思ってたって。でも、相手の幸せを一番に考えられるようになってこそ、“愛してる”という意味だと。だから、私は守華が幸せになれるなら、もう止めはしない」


胸がぎゅっと熱くなる。

「蘭明……ありがとう。私も、蘭明の幸せを一番に願ってる」


二人はしばらく見つめ合い、自然と笑顔が溢れた。

心の中の緊張や不安が、そっと溶けていくようだった。


空一面に輝く星たち。

そして、満月の光が二人を柔らかく照らす。

その光の中で、私たちは言葉以上に、互いの気持ちを確かめ合った。

夜風が頬を撫で、遠くで葉がひらりと舞う。

世界は静かで、でも確かに、私たちの心は温かくつながっていた。


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