81.真実に触れた瞬間
二日後――。
「今日は特別なお客様ですよ、すずらん様!」
支度を手伝いながら、ウタが目を輝かせて報告してきた。
「特別?」
すずらんは鏡越しにウタを見る。
「はい! もともとすずらん様の予定は入っていたのですが、その方はなんと――五倍の金を払うからと、すずらん様を貸切にされたのです!」
ウタは興奮気味に身振り手振りを交える。
「五倍……?」
すずらんの胸に不穏な予感が走る。
「それって……まさか、蘭皇ではないでしょうね?」
「いえいえ! そうではありません。お名前は中村様。南の方から来られたお役人だそうです」
「中村様……」
すずらんは唇をかすかに噛む。どこか引っかかる名だ。
だが、もし本当にその“中村様”とやらが高官なら、疑いの目を向けるのは無礼にあたる。
結局すずらんは、胸のざわつきを抱えたまま、案内された宿へと足を運ぶことにした。
すずらんはウタとともに指定された宿へ向かった。
賑やかな町の中心から少し外れた場所にあるその宿は、立派ではあるが、どこか人の気配が薄い。
「……思ったより静かね」
すずらんは小声で呟く。
「きっと、高位のお役人様だから、余計な者を近づけないようにしているのでしょう」
ウタは明るく答えたが、どこかぎこちない。
門をくぐると、宿の者らしき男がすぐに現れ、恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました。すずらん様、こちらへ」
「中村様は?」
すずらんが問いかけると、男は微笑んだまま、
「すでにお部屋でお待ちです」とだけ答えた。
すずらんとウタは案内に従い廊下を進む。
赤い絨毯が敷かれた長い廊下は、やけに静まり返り、どこか張りつめた空気が漂っていた。
部屋の前に辿り着くと、すずらんは畳の上に正座をし、深く頭を垂れた。
「すずらん、ここに参りました」
「入れ」
落ち着いた声が返る。
「はい」
ウタが緊張した手つきで障子をゆっくりと開けた。
すずらんはまだ深く頭を下げたまま。
白地に赤を重ねた華やかな着物が、灯りの下でひときわ輝きを放つ。
「本日はお呼びいただき、有り難き幸せにございます」
顔をあげた瞬間――
そこに座していたのは“中村様”ではなく、蘭明。
その背後には八軒の姿もある。
蘭明の口元が、じわりと意地悪く吊り上がった。
「……これは、蘭皇様でございましたか」
すずらんの静かな声。
しかし隣のウタは驚きのあまり、声を裏返らせた。
「えっ!? ら、蘭皇様……?」
慌てふためくウタに対し、すずらんはひときわ落ち着いていた。
「中村様と伺っておりましたゆえ……どうやらこちらの不手際にて、部屋を取り違えたようでございます。ご無礼、失礼いたしました」
そう言って、もう一度、深々と頭を下げた。
ウタが慌てて廊下に飛び出し、掛け札の番号を見比べる。
そしてもう一度、この部屋の札を確認すると、困った顔で戻ってきた。
「すずらん様……こちらのお部屋で、お間違えございません」
小声ながらも、はっきりとそう告げた。
「間違ってないぞ、すずらん」
低く通る声が響く。蘭明が、余裕の笑みを浮かべて言った。
「――私が中村だ」
すずらんはその瞬間、ふっと瞳を細め、鋭い視線を蘭明に向けた。
その視線は氷のように冷たく、しかし内心の動揺を隠すための仮面でもあった。
「下がれ」
蘭明の一言で、八軒がすぐに頭を下げ、障子へ向かう。
去り際に、横目でウタを促した。
「でも……」
心配そうにすずらんを振り返るウタ。
すずらんはわずかに首を横に振り、微笑みを作った。
「ウタ、下がっていいわ。下で待ってて」
迷いながらも、ウタは「はい……」と頷き、障子を閉めて出ていった。
――残されたのは、蘭明とすずらん。
空気が、ひときわ重く張り詰めていく。
静まり返った部屋に、二人の息遣いだけが満ちている。
最初に口を開いたのはすずらんだった。
「蘭皇様――。嘘をつき、多額なお金を積んでまで、このすずらんをお呼びとは……よほど私をお気に召したご様子で」
袖口で口元を隠し、上品に笑う。
その笑みは華やかでありながら、どこか突き放す冷ややかさを帯びていた。
「ああ。そなたのためなら、いくらでも積んでやる」
蘭明は余裕を崩さぬ笑みで返す。
「ありがたいお言葉ですが――お金を積むのは今回限りとしてくださいませ。
何ヶ月も前から予約を頂いている方々が、ほかに大勢おられますので」
「……よほどの人気だな」
「はい。ありがたいことに」
「では、どうすれば次に会える?」
「他の方と同じく、予約をお取りくださいませ。数か月先になりますが」
にこやかに答えながらも、すずらんの目元は少しも笑っていなかった。
その視線が、まるで「これ以上踏み込むな」と告げているかのように。
「今日はこれで下がらせていただきます。規定通りご予約をいただきましたら、このすずらんのお時間を蘭皇様にさしあげましょう」
深々と一礼し、すずらんは立ち上がる。
その背筋はまっすぐで、迷いひとつ見せぬまま。
蘭明は黙ってその姿を見送る。
眼差しは鋭く、まるで彼女の背に真実を探し出そうとするかのようだった。
すずらんは後ろに下がり、静かに部屋を後にする。
「ウタ、帰るわよ」
「はい、すずらん様。……だいぶ早かったですね」
「そりゃそうよ。規定通りの予約じゃないもの。ウタ、これから気をつけなさい。特に、多額に金を積む客には」
「はい」
すずらんの一言一言は、まるで今の出来事を戒めるかのように冷ややかだった。
――その頃。
「蘭皇、今日はどうでしたか? うまくいきましたか?」
すずらんが帰ったのを確認して、八軒が部屋へ入ってきた。
蘭明は鋭い視線で八軒を睨みつける。
「……」
「あぁ……ダメだったんですね」
八軒は思わず肩をすくめる。
「手強いな。そう簡単には行かないか」
蘭明は吐き捨てるように言い、深く椅子に腰を沈めた。
「八軒。明日、すずらんの予約を入れている客を探せ」
「はっ」
蘭明の眼差しはなおも冷たく、しかしどこか愉しげに燃えていた。
――獲物を追い詰める狩人のように。
「すずらん様、今日もお綺麗で」
「ウタはいつも褒めてくれるのね」
「はい、本当のことですから。ウタは嘘を申しません」
「ふふ、ありがとう」
「今日は大丈夫です! 酒場三軒と、最後に常連の西沢様です」
「西沢様ね……わかったわ」
――さすがに昨日の今日で、蘭明が動くはずはない。
そう心に言い聞かせるすずらん。
予定通り酒場三軒で舞を披露し、喝采の声とともに夜が更けていく。
そして最後に、西沢様のもとへ向かった。
西沢は半年前からの常連で、すずらんを殊のほか気に入っている人物だ。
だからこそ、安心できる相手でもあった。
「西沢様、すずらん、ここに参りました」
「おお、来たか来たか! はよ入れ」
「はい」
深々と頭を下げるすずらん。
ウタがそっと襖を開いた。
――しかしその向こうに待っていたのは、いつもと同じ夜ではなかった。
襖が静かに開き、すずらんはにっこりと笑みを浮かべながら顔を上げた。
――その瞬間、息が止まる。
そこにいたのは、西沢様の隣で杯を掲げる蘭明だった。
「西沢様、本日は……」
言いかけて、視線を蘭明へと向ける。
「たまたま下で飲んでいたらな、意気投合してしまってな。私が無理を言って付き合わせてもらったのだ」
蘭明は涼しい顔でそう告げる。
「左様でございましたか……」
すずらんの胸の奥で冷たいものが走る。
「西沢様、恐れながら……こちらのお方が陽月国の蘭皇様とご存知で?」
すずらんが問いかけると、西沢は目を見開いた。
「皇子!? なんというご無礼をしたことか!」
慌てて杯を置き、頭を下げようとする。
だが、蘭明が軽く手を上げて制した。
「今はそんな立場など関係ない。ただの酒の席だ。楽しく飲もうではないか」
「……そうか! ならば尚更、今宵は飲み明かさねばな!」
西沢は一気に表情を緩め、再び上機嫌に盃を掲げた。
蘭明はその横で、蘭明はすずらんに目をやり、唇の端を持ち上げた。――あの嫌な笑みで。
やがて座敷の空気を変えるように、すずらんの舞が始まった。
しかし――。
今宵はただの舞ではない。
至近の距離から、蘭明がじっと視線を向けている。
観客のような遠い目ではない。
獲物を逃さぬ猛禽のような眼差しで。
すずらんは決して蘭明と目を合わせぬよう、ひたすら舞い続けた。
指先ひとつの震えも許されぬ緊張の中で。
すずらんは、自分の目にいつの間にか涙が溜まっているのに気づいた。
喉の奥が熱くなり、今にも零れ落ちそうだ。眠っているように見える蘭明を、ただ静かに見つめる。言葉は喉に詰まって出てこない。
「私は守華よ」――そう叫びたい衝動に駆られる。だが、頭の中にあの言葉が重く響く。
『妖石に願いを託した者、その身代わりにそばにいる一番愛する者が死す』。
その呪いが、すずらんの胸を凍らせる。言えば、蘭明を――自分のいちばん大切な人を――傷つけるかもしれない。だから言えない。言ってはいけない。
すずらんは、掴まれている方とは反対の手で、そっと蘭明の頬を撫でた。指先に伝わる彼の体温が、胸をさらに締めつける。声が震える。
「ごめんね、蘭明……」
その一言だけを残し、すずらんは息を殺して部屋を出た。障子をそっと引き、足音を立てぬように廊下へと消えていく。背中は震えているが、顔はいつものすずらんのままに保とうと必死だった。
しかし──。扉が閉まった瞬間、闇の中でゆっくりと瞼が開いた。
蘭明は決して深く酔ってはいなかった。眠りを装っていたのだ。
彼の瞳は澄んでおり、胸中に燃えるものが静かに揺れていた。眠りごまかしの時間を使って、すずらんの一挙手一投足を確かめていたのだろう。ふっと笑みが漏れる。
「何が『ごめんね』だよ」
掠れた声が、虚空に零れる。
そして、腕で目を覆い隠しながら、静かに震える声でつぶやいた。
「そんな言葉より――守華だと言ってくれよ」
目の前にいるのに、どうしても掴めない。
そのもどかしさに、胸の奥が軋むように痛んでいた。
それから一週間、蘭明と顔を合わせることはなかった。
もしかすると、すでに陽月国へ帰ってしまったのかもしれない。
……それでいい。
そうすれば、何もかも元に戻る。
今日もまた、すずらんの歩く道には誰一人いない。
ただ舞い散る花びらが、彼女のためだけの花道をつくっていた。
変わらぬ景色。
変わらぬ日々。
蘭明とは別の道を歩むと決めた――その覚悟の証として、自ら作ったこの花道。
それが、私の決めた人生。
この宿って……蘭明が泊まっていたところじゃ……
「この宿ですか?」
「はい!林様というお客様ですよ」
「林様……どこかで聞いたことがある気もするけれど……」
部屋の前に着き、いつものように正座をして頭を下げる。
「すずらん、ここに参りました」
「入れ」
待って、声……知ってる。
でもまだ確信は持てないまま、ウタがいつものように襖を開けてしまった。
すずらんが顔を上げると――やっぱり、予想通り蘭明がいた。
「これは……蘭皇様。今宵も」
「ちゃんと予約は済ませたぞ。八軒の名前でな」
あっ、だから聞き覚えがあったんだ!
林八軒――そうだ、八軒の名前だ。
「ちょうどキャンセルが出たらしく、そこに入れてもらった」
すずらんはウタを見ると
「はい、確かにキャンセルが出ていました」
とそっとすずらんの耳元で知らせた。
「言われた通り、規定通りに予約をした――
今宵のすずらんの時間は、間違いなく私のものだな。」
八軒が部屋を出るとき、前回と同じようにウタにも外に出るよう促す。
「大丈夫よ。先に帰ってていいわ」
部屋の中には、静まり返った空気のなか、蘭明とすずらんの二人きり。
「すずらん、酒を注いでくれ」
低く響く声に、すずらんは少し眉をひそめる。
「蘭皇様、私は踊り手でございます。酒を注いでもらいたいのであれば、違う方をお呼びくださいまし」
毅然とした態度で断るすずらんだったが、蘭明の目はじっと彼女を見つめ、少しも揺るがない意志を伝えてくる。
「1杯だけでいい」
その言葉に、すずらんは息を飲み、一瞬ためらった後、ついに小さく頷き、杯にお酒を注いだ。
「元気だったか?」
見つめられる視線に、すずらんの心は無言のまま揺れる。
「私はずっと後悔していた。あの日、なぜ繋ぎ止められなかったのかと・・・」
蘭明の声には深い痛みと哀惜が混じる。
「蘭皇様はフラれてしまったのですね」
すずらんは淡々と答えるが、心の奥底で鼓動が速まるのを感じていた。
「ああ、そうだ。会いたかった、守華」
その名前が静かに、しかし確かにすずらんの胸を打つ。
「蘭皇様、私はすずらんでございます。守華さまという方は、愛されていて羨ましい限りでございます。私、そんなに似ているのですか?」
真っ直ぐに見つめる蘭明の目。目をそらそうとするが、体が言うことを聞かない。
「ああ、とーっても似ておる」
蘭明は言いながら、そっとすずらんの顎に手をかけ、視線を絡める。
「この目に、この鼻、この唇」
手が顔をなぞり、距離がぐっと縮まる。
そして、顔をすずらんの首元へ近づける蘭明。
「そして、この匂い。私が大好きな守華の匂いだ」
すずらんは思わず肩で押し返す。
「蘭皇様、私は先日お会いしたばかりでございます」
「いや、ずっと前から会っておる」
その声に背筋がぞくりとする。
「そのようなお話で舞を披露しないなら、この辺で下がらせていただきます」
毅然と立ち上がるすずらん。扉へ向かおうとした瞬間、蘭明が後ろからお姫様抱っこで抱き上げた。
「何をするんですか!おろしてください!」
反射的に叫ぶすずらん。
ベッドの上に置かれると、彼女は息を整えつつも警戒を緩めない。
「前にも言いましたが、私は踊り手。遊女ではございません」
それでも、蘭明は関係なく顔を近づける。思わず目をぎゅっと伏せるすずらん。
髪に触れる何かを感じて目を開けると、目の前で蘭明がそっと蘭の簪を手にしていた。
「この蘭の簪は、私が愛する者に贈った、たった一つのものだ」
低く響く声に、すずらんの胸が小さくざわめく。
「・・・その簪は、前に陽月国の女性から舞を教えていただいたときに頂いたものです。言われてみれば、何となく私に似ていたかもしれません。その方が守華さまではございませんか?」
すずらんは必死に平静を装いながら、簪を髪にそっと刺し直す。
少し、心が落ち着く気がしたが、蘭明は容赦なく低い声で問い詰める。
「まだ、シラをきるか」
すずらんの足元をじっと見つめ、着物の裾をかき上げる蘭明。
「この足首に付いているのは、私と縁が切れたくても切れぬ証拠だ」
その言葉に、すずらんの記憶が一瞬で甦る。
—アンクレット。母から託された蘭明とお揃いのアンクレット。切ろうとしても切れなかった.....
息が止まるほどの衝撃が走る。
思わず顔が強張り、瞳が大きく見開かれるすずらん。
その瞬間、彼女は自分の正体が、隠し通せないことを悟ったのだった。
目を逸らすすずらんに、蘭明は低く響く声で問いかける。
「言い訳はもう思いつかないか? すずらん、いや、守華」
怒りと緊張で思わず目を伏せ、横を向こうとした瞬間、蘭明に顔を戻され目の前に唇が押し当てられた。
一瞬、身体が凍る。抵抗したくても、どこかでずっと求めていた感覚に心が震える――。
だが、頭の奥に冷たい言葉が響き渡る。
“妖石に願いを託した者。その身代わりにそばにいる1番愛する者が死す”
理性と恐怖が混ざり合い、すずらんは思わず蘭明の唇を噛みつける。
「いたっ!」
唇が離れ、血が滲む。蘭明は指で血をそっと拭いながら、鋭くすずらんを見つめる。
心臓が激しく打ち、胸が苦しい。
「私はすずらん……守華じゃない」
そう自分に言い聞かせるたび、胸の奥で守華としての記憶や感情がざわつく。
一方で、蘭明の温もり、あの懐かしい匂い、触れられた感触は確かに守華を思い起こさせる。
“これは罠か、それとも運命か――?”
すずらんの心は揺れ、理性が声をあげる。
涙がこぼれそうになり、手が小刻みに震える。
……どうして、こんなにも心が揺れるの……!
その混乱の中で、すずらんはわずかに息を整え、目の奥に決意を灯した。
「……守華じゃない、私はすずらん。それを忘れちゃいけない……」
すずらんは上半身を起こし、震える心を押さえつつも、蘭明をまっすぐ睨みつけた。
「私は守華じゃないわ。1年半前から私はすずらんよ。あなたの知らない、彩国で踊り手ナンバー1のすずらんなの!守華という名前は、もう捨てたの」
蘭明の手が勢いよくすずらんを押し倒し、着物を下げようと迫る。
心臓が早鐘のように鳴る中、すずらんは言葉を発さず、ただその瞳で蘭明を刺すように睨みつけた。
「私に出来ないと思っているのか?」
「いいわよ!脱がせなさい!」
その瞬間、蘭明の唇がすずらんの首元へ迫る。
だが、鋭く響く声に蘭明の動きはピタリと止まる――
「あなたは公主の夫となる者!」
その声に、部屋の空気が一瞬静止したかのように感じられる。
蘭明は息を詰め、目の前の女性の強い意志に戸惑いを隠せない。
「違…」
「そして、私は彩国第一将軍、季昭の妻よ!」
「季昭の妻…?」
勢いに任せていた蘭明は、一気に力を抜き、すずらんの上から退く。
その背中に気圧されるように、すずらんも乱れた着物を整え、背筋を伸ばして毅然と立ち上がった。
部屋には互いの呼吸だけが響き、緊張と静寂が張り詰める。
すずらんの瞳には、かつての守華としての影はもうなく、確固たる「すずらん」としての意思が宿っていた。
立ち上がったすずらんの両肩を掴み、蘭明がわずかに揺さぶる。
「季昭の妻?信じない」
「信じないなら信じなくていいわ。ただ、彩国の人間ならみな知っていることよ」
すずらんは一歩も引かず、冷たく答える。
「じゃあ、なんで幸せそうな目をしていないんだ?なんでそんな悲しい目をしている。泣くのも我慢しているんだろ?私がいる、泣いていいんだ」
その言葉に、すずらんは烈火の如く蘭明を吹き飛ばす。
「自惚れないで!この一年半で私は変わったのよ。泣くべき場所はもう、蘭明のところじゃない!」
ショックで言葉を失う蘭明を前に、すずらんは静かに髪から蘭の簪を外し、そのまま蘭明の胸元に滑り込ませる。
「私の前に、もう現れないで」
その一言で、蘭明の体が後退する。
一歩、二歩、無意識に下がっていき、やがて部屋の外へと消えた。
部屋に残るのは、すずらんの静かな呼吸だけ。
強さと覚悟を胸に、彼女は自分の人生の歩みを再び前に進めていった。
蘭明が廊下に出ると、そこには季昭が立っていた。
両者、鋭い視線を交わし、互いを睨みつける。
すれ違う瞬間、季昭が冷ややかに言った。
「私の妻を、いじめないでくれるかな、蘭皇」
「私は認めない」
蘭明の声には、抑えきれない感情が滲む。
「蘭皇に認めてもらう筋合いはない。決めるのは、すずらんだ」
季昭の言葉には揺るぎない覚悟がある。
「すずらんじゃない!守華だ!」
蘭明は感情のまま季昭の胸ぐらを掴む。
その瞬間、すずらんが部屋から駆け出し、二人の間に割って入る。
「何してるの!やめてよ!」
すずらんの力で二人を引き離すと、彼女は蘭明を見据え、強い瞳で言った。
「季昭は、私の大切な人よ。傷つけないで」
その言葉に、蘭明の心は言いようのない焦燥感に包まれる。
胸の奥が締めつけられるようで、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
すずらんは季昭の手を握り、静かに連れ出していく。
残された蘭明は、二人の後ろ姿を追いながら、胸の中で呟く。
「守華…お前は、もう、俺のそばにはいないのか…」
悲しげな瞳のまま、蘭明はその場に立ち尽くした。
冷たい廊下の空気が、心の奥の空虚さをさらに際立たせる。
季昭の手をぎゅっと握り、すずらんは歩き出す。
「すずらん?」
「あっ、ごめんなさい」
手を離そうとするすずらんに、季昭はしっかりと手を握り返す。
そのまま、二人は暗く静かな街を歩く。閉まった店から漏れるわずかな灯りが、足元を照らすだけだった。
「嘘でも、嬉しかったぞ」
「え?」
「大切な人だって」
すずらんは少し笑みを浮かべ、安心したように頷いた。
「あー、それは本当よ。季昭は私にとって大切な人よ。それより、遠征から帰れたの?」
「ちょうど帰ってきたら、屋敷にはウタしかいなかったんだ。それで話を聞いて、もしやと思って来てみたら、蘭皇と鉢合わせになった」
すずらんは心の中でため息をつく。
「完全にバレたわ。私が守華だって……」
「どうするんだ?」
「えっ?どうするって?」
「蘭皇のところに戻らないのか?」
すずらんは一瞬立ち止まり、真っ直ぐ前を見据える。
「戻るわけないじゃない。公主の夫となる人よ。それに、私はもう守華じゃないの。自分で道を作った、すずらんよ。私は彩国で生きる」
季昭は小さく頷き、二人の歩みは再び夜の街へと続いた。
「そうか……」
二人の手はしっかりと絡んだままで、互いの温もりが指先から伝わる。
夜風に混じる街灯の柔らかな光が、二人の影を長く伸ばす。
すずらんは心の中で、彩国での自分の選択が間違っていなかったことを確かめるように、ゆっくりと息を吐いた。
季昭もまた、その手の感触から力強い安心を感じ、静かに頷く。
闇に包まれた街の中で、二人だけの時間がそっと流れていった。
未来はまだ見えないけれど、今は確かに、この手を離さずにいられる。
季昭はそれだけで、十分だった。




