80.疑念の影
次の日、
すずらんのことを心配していたものの、すずらんが大丈夫だからと、蘭皇もきっと、咲公主を連れてすぐ陽月国に戻るだろうと思って季昭はすぐに遠征地へ戻っていった。
同じ彩国にいても、二人が再び出会うことはないはずだった。
今日も、すずらんはいつものように踊り手としての準備に取りかかる。
ウタを伴って町へ出ると、景色は昨日と何も変わっていなかった。
それでも、自然と人々はすずらんの前に道を空け、花道のように彼女の周りに集まる。
すずらんの姿は、誰もが注目する存在だった。
その光景を、遠くからじっと見つめる者がいた――そう、蘭明だ。
「なんで、みんな道を空けるんだ?」
近くの町人に尋ねると、
「兄ちゃん、彩国の者じゃないのか?すずらん様は彩国の踊り手ナンバー1だ。みんな道を空けるのは当然さ。しかも、たった半年で頂点に立った伝説の踊り手なんだよ」
「半年で……?それはいつの話だ?」
「ちょうど1年前の大会からだね。1年半前から狙っていたんじゃろうな」
――1年半前。ちょうど、守華が私の前から姿を消したころだ。
花道を堂々と歩くすずらんの姿は、化粧で顔立ちは変わっているものの、陽月国で踊っていたときの守華そのものだった。
そのしなやかな動き、周囲を惹きつける華やかさ……蘭明は思わず息を呑む。
「蘭皇、すごく綺麗ですね」
「あー、そうだな……」
「本当に守華さまでしょうか?」
「八軒、お前の目は節穴か!」
「す、すみません……」
蘭明は八軒に小声で指示を出す。
「とりあえず、今日一日、すずらんという女の行動を追跡するぞ」
「はい!」
その日、すずらんが行く先々に、蘭明と八軒は隠れるようについていった。
だが、いくら見て回っても、守華であると断定できる決定的な証拠は掴めない。
日が傾き、町に夕暮れの影が差し始めた頃、今日の踊り手としての仕事は終わる。
すずらんはウタに声をかけた。
「ウタ、少し走れる?」
「え……あっ、はい」
「じゃあ、行くわよ」
二人は町を抜け、人影のない道に出る。
すずらんは着物の裾を軽く持ち上げ、風を切るように走り出した。
その後ろ姿は、昼間の舞での華やかさとは違う、自由でのびやかな空気を纏っていた。
すずらんは、ずっと誰かに尾行されていたことに気づいていたのだった。
重い舞衣ではないとはいえ、着物は着物。走りにくいが、足早に歩きながら屋敷の中へと入っていく。
気配を消すように門のところからそっと覗き込むと、そこには予想通り、門の前で立ち尽くす蘭明と八軒の姿があった。
「やっぱり、あの二人だったのか……」
心の中でつぶやくすずらん。
蘭明は、きっと疑っているのだろう。自分が守華なのではないか、と。
こうなったら、すずらんとしての演技を徹底してやり切るしかない。
「すずらん様、いきなり走るなんて、どうしたんですか?」
ウタが少し心配そうに声をかける。
「いや、ちょっとつけられてる気がしたんだけど、気のせいだったみたい」
ウタに心配をかけないよう、すずらんは自然に微笑みながら嘘をつく。
それでも、胸の奥では蘭明への緊張が静かに燃え続けていた。
「蘭皇、今日も尾行しますか?」
「いや、昨日は私たちがつけていることに気づかれた。今日は控えよう」
「やはり、我々に気づくということは、普通の女ではなさそうですね。守華さまならすぐ気づきそうですが」
「そうだな。守華でなかったとしても、ただの女ではないのだろう」
蘭明は茶を口に含み、遠くを見つめる。
その視線の奥には、微かな警戒心と同時に、どう扱うべきか迷う思いが垣間見える。
「蘭皇、お腹は空きませんか?」
「そうだな。食べにでも行くか」
二人は賑やかな酒場の中へと足を踏み入れた。
赤い絨毯が敷かれた小さな舞台を中心に、客席がぐるりと囲むように設けられている。
案内され、舞台の横の席に着く二人。1階も2階も、見渡す限り満席だ。
「すごいですね、このお店。大繁盛じゃないですか!ギリギリ入れてよかったです」
「そうだな」
蘭明は周囲を注意深く見回す。
店の喧騒の中、どこに何があるのか、誰がいるのかを把握しようとする視線には、無意識のうちに守華の姿を探す鋭さが滲んでいた。
いきなり、会場中から歓声が湧き上がる。
同時に、舞台だけにスポットライトのような光が降り注ぐ。
近くにいた女性客に声をかける蘭明。
「何が始まるんだ?」
女性は目を輝かせながら答える。
「知らずに来たんですね!ラッキーですよ。今から、彩国踊り手ナンバー1、すずらん様の舞が始まります」
「すずらん…?」
問いかける蘭明の耳に、すでに音楽が流れ始める。
聞き覚えのある旋律。心臓が少し高鳴る。
「この曲は…」
「すずらん様が最も得意とする舞の曲だそうです。陽月国で学んだとか…」
その言葉を聞いた蘭明は、思わず立ち上がり舞台へと足を向ける。
「蘭皇?」
八軒が呼びかけるも、蘭明は一瞥もせず、舞台の方へ進んでいった。
舞台の中央で、すずらんは静かに舞っていた。
観客の視線が注がれる中、彼女の目はただ舞に集中しており、蘭明や八軒の存在に気づくことはなかった。
舞台袖には仮面が置かれている。蘭明はそっと手に取り、それを顔に装着した。
そのまま、すずらんの舞う舞台へと出ていった。
流れ始めた曲は、かつて陛下や皇后の誕生日に守華と共に踊った曲だ。
蘭明はすずらんの手を取ったその瞬間、すずらんは初めて蘭明の存在に気づき、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
踊りを止めようかと迷う心に、蘭明が耳元で囁く。
「踊り手ナンバー1が、みんなが見ている中で舞を辞めてもいいのか?」
その言葉に、すずらんはハッと息を整え、舞を止めずに続けることを決めた。
ずっと一緒に踊っていなかったのに、彩国風にアレンジされた曲調でも、二人の呼吸は自然にぴったり重なる。
まるで、時間を超えて息を合わせてきたかのように――舞台の光と影の中、二人の世界はひっそりと重なった。
観客から小さな拍手とざわめきが広がる。
すずらんはその音を感じながらも、視線は前だけに向け、心の中で自分に言い聞かせる。
そんな二人の舞に、観客たちは息を呑み、呼吸を忘れるほど見入っていた。
いつものすずらんの一人舞も美しい。だが、蘭明との息がぴたりと合った舞は、それ以上に圧倒的な輝きを放っていた。
曲が終わると、これまでにないほどの歓声と拍手が会場を包み込む。
それでも、すずらんは気にもせず、そそくさと舞台を降りた。
舞台袖へ向かう途中、すずらんの前にスーッと人影が差し込む。
道を塞いだのは、やはり蘭明だった。
つけていた仮面を外し、冷ややかに口元を上げて微笑む。
「この踊り……陽月国の高貴な者しか理解できない舞だ。どこで覚えた?」
すずらんは落ち着いた声で答える。
「1年前、旅の途中で出会った女性から教えていただきました。陽月国の高貴な方しか分からないというのであれば、その方も高貴な方だったのかもしれません」
蘭明は口元だけで「ほう……」と返す。納得したのか、まだ疑念を抱いているのかは読み取れない。
すずらんは一歩前に出て、静かに促す。
「次の舞も控えております。そちらをどいていただけますか?」
蘭明は渋々道を譲る。
すずらんがその脇を通り抜けると、耳元で低く、しかし確実に届く声が響いた。
「必ず、暴いて逃がさないからな」
すずらんはその言葉を無視するかのように、何事もなかったかのように通り過ぎた。
彼女の背中は、舞台上での輝きと同じく凛として揺るがなかった。
今日は後ろからつけられていなかったはず……なのに、どうしてだろう?
たまたま?
それとも、私がつけられているのに気づかなかっただけなの?
危なかった……。心臓がぎゅっとなる。
しっかりしなきゃ、すずらん。
私は守華じゃない。
もう、守華の名で蘭明の前に現れるわけにはいかない。
私は彩国、踊り手ナンバー1のすずらん。
この名に恥じない立ち振る舞いをしなければ。
それなのに、どうしても視界に入ってしまう……。
自分から離れると決めたのに、心の奥でまだ彼の存在を感じてしまう。
自分の気持ちを抑え込もうとすればするほど、熱が体中に広がっていく。




