8.女神の誓いと初舞
全ての準備を終え、守華は陛下の元へと向かった。
白鋭が蘭明の耳元でささやく。
「身支度が整い、こちらに到着しております。」
蘭明はゆっくりと立ち上がり、声を張った。
「父上、お待たせいたしました。勝利の女神が到着しました。」
「通せ、通せ。」
蘭明は白鋭に合図を送る。
大広間の重厚な扉がゆっくりと開き、外の光とともに守華が現れる。
一筋の光が彼女に注ぎ、赤い漢服の生地にキラキラと反射した。まさしく、勝利の女神の降臨のようだった。
大広間に集まる人々の視線が守華に集中する。
しかし、守華は微動だにせず、堂々と陛下の方を見つめ、静かに歩みを進めた。
化粧は整えられ、赤い口紅が鮮やかに唇を彩る。アクセサリーもすべてが光を帯び、彼女はまるで別人のようだった。
蘭明、海尭、星曜も目を見張る。
「前に会ったあの娘か……?」と、思わず声が漏れそうになるほど見惚れていた。
その視線に気づいたのか、夏翠公主がぷいっと膨れ顔を作る。
普段チヤホヤされている彼女も、守華の存在には嫉妬を隠せなかった。
守華は陛下の前に進み、先ほど習ったばかりの挨拶をする。
「陛下、皇后さま、ご挨拶申し上げます。」
微かに体を低くし、顔を下げて丁寧にお辞儀をした。
「顔をあげよ。」
陛下の声に従い、守華はゆっくりと顔を上げた。
「感謝いたします。」
あの無邪気でお転婆な少女が、わずかな時間で一国の姫のように振る舞う姿に、蘭明は驚きを隠せない。
陛下が静かに口を開く。
「名は何と申す?」
「守華と申します。」
守華は微笑みながら答える。
陛下は少し目を細め、興味深そうに言った。
「守華よ。この度の戦、そなたがいて勝利を手にしたと聞いておる。それは誠か?」
守華は少し考え、真摯に答えた。
「はっきり申し上げますと、私のおかげかどうかは分かりかねます。ただ、間違いなく私が方向を導き、それを蘭皇が上手く活かして勝利に至りました。なので、この戦は私というよりも蘭皇の策によるものだと思われます。」
陛下はくすくすと笑う。
「ほほう……自分の手柄を主張せず、蘭皇を立てるとは……おもしろい娘だ。」
皇后も微笑みながら見つめる。
「では、私からよろしいでしょうか?」
「言ってみよ。」
「はい。本日、蘭皇の二十歳の誕生日、そして戦の勝利を祝い、この勝利の女神から贈り物はないのでしょうか?」
皇后の視線が鋭く、守華を試すようだった。
その目には単なる好奇心ではなく、警戒心や不信、場合によっては軽い嫌悪さえも含まれているように見えた。
守華はほんの一瞬、息を止めてその視線を受け止める。
「母上、守華は急遽呼ばれた者。私は何もいりません。」
蘭明がとっさに立ち上がり、皇后に向かって言い放った言葉だった。
その声には、守華を守ろうとする強い意志と決意が込められていた。
守華は驚きと同時に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
大広間の空気が一瞬張り詰め、皇后は微かに目を細める。
守華はその視線を横目で捉えつつ、心の中で小さく決意を固める。
「ここで、自分の役目を果たさなければ――」
皇后は守華を見つめる。守華は微笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「はい、皇后さま。もちろん準備しております。」
陛下の前で堂々と宣言する守華。
「時間がなく物の準備はできませんでした。その代わり、陛下、蘭皇のために、今後もこの陽月国に勝利を導く舞を捧げましょう。」
蘭明、海尭、星曜は、守華の動きを不安そうに見つめていた。
あの一瞬の堂々たる態度、そして皇后に立ち向かうかのような言葉──本当にこの娘はやり遂げられるのか、と胸中で思案しているようだった。
一方、皇后の視線を受け継ぐかのように、夏翠は守華を見下すような目でじっと見つめていた。
その瞳には「やれるものなら、やってみなさい」という挑戦的な色が混じり、軽く鼻で笑うような冷ややかさも感じられた。
勉強は得意ではなかったが、体を動かすことやダンスには自信があった。
幼いころから培った経験と、柔軟な体を駆使すれば、どんな舞でも思い通りに操れる──守華はそう確信していた。
今ここで求められているのは、頭の良さではなく、体の表現力と瞬間の判断力。
心の奥底で、少し胸が高鳴る。やるべきことはわかっている。自分の体は裏切らない。
この余裕が、彼女を堂々たる舞いへと導いてくれるはずだ。
演奏者に合図を送り、ゆったりと踊り始める守華。
ひらひらと舞う袖が光を受け、優雅な舞はまさしく妖精のよう。観衆の目を一瞬で奪った。
夏翠も思わず見惚れ、ぷいっとしていた顔が消えた。
蘭明の目が守華に釘付けになっているのを確認すると、守華は心の中でにやりとする。
次に視線を反対側に向け、海尭を見つめる。
微笑む海尭に守華も自然と微笑みを返した。
舞いながら交わす小さな視線のやり取りが、ちょっとした遊び心と自信を守華に与える。
舞のテンポが徐々に早まり、ターンや足上げを巧みに決める守華。
柔らかな体を使った舞は、まるで生まれつきこの舞台のために生まれたかのようだった。
この時代独特の音楽に、ここまで自然に身体を合わせられるとは、自分でも驚いていた。
舞うたびに心臓が高鳴り、指先や足先まで緊張で震えそうになる。でもその緊張が逆に自分を研ぎ澄まし、舞をより鮮やかにする。
ふと足元でカチリと響くママのアンクレットの感触を思い出す。
「ママ、私、ちゃんとできてる…?」心の中でそっと問いかけると、まるでママが微笑んで足を導いてくれているかのように感じた。
その温かい気配が、守華の胸を勇気で満たし、舞いはさらにしなやかに、輝きを増していく。
観客の視線が次第に守華に集まり、ざわめきが静まる。
その目は驚き、羨望、そして息をのむような感嘆でいっぱいだった。
「女神のようだ…」「この世のものではない…」「天女が舞っているみたいだ」
囁き声が部屋中に広がる。
守華はその声に鼓舞されるように、ひらひらした袖を操り、柔らかな身体をくねらせ、舞を全身で表現した。
舞台の中心で、自分が光となり、観客の視線を一手に集めている感覚。
その瞬間、確信する。ここでは、私は本当に勝利の女神だ、と。
舞を終え、守華は静かに元の位置に戻る。
心臓はまだ高鳴り、額にはほんのり汗が滲んでいるが、胸の奥には満ち足りた達成感が広がっていた。
その瞬間、大広間に一斉の拍手が響き渡る。
歓声と称賛の声に包まれ、守華は少し照れながらも、背筋を伸ばして陛下の方へ歩み出す。
深くお辞儀をし、声を揃えて感謝の意を示す。
陛下は微笑みながら、ゆっくりと守華を見つめ
「素晴らしい舞であった。」
陛下の笑顔に、守華は小さく胸を撫で下ろす。
陛下が穏やかに問いかける。
「何か欲しいものはあるか?金か、宝石か?」
守華は軽く笑みを浮かべ、蘭明に目を向ける。
「私、守華は金や宝石などは望みません。」
大広間の人々がざわめく中、守華は続ける。
「戦前の記憶も名前しか残っておらず、帰るべき場所もわかりません。ですから、どうかこの陽月国に置いてください。置いてくれましたら、勝利の女神としてこの陽月国の力となるでしょう」
私は大きな声で、迷いなく断言した。
こうなったら、勝利の女神として堂々としていればいい――そう心に決めた。
ここで突き通すしかない。生き抜くために。
「我が国に貢献するということか?」
陛下が穏やかに問いかける。
「はい。」
私の声は少し震えたかもしれない。でも、強く、はっきりと答えた。
隣で皇后が眉をひそめる。
「素性が分からぬ者を置いていいのですか?」
その声には不安と疑念が滲んでいた。
蘭明がその様子に気づき、すぐに声をあげる。
「父上、私にも褒美をいただけるということでよろしいでしょうか?」
「もちろんだ。」
「では、私の屋敷にこの守華を預からせてください」
私は思わず蘭明を見つめ、口パクで「何言っての!?」と合図する。
しかし彼はにやりと笑い、見て見ぬふりをしている。
蘭明は続けて、皇后に向かい静かに告げる。
「母上の素性が分からず不安であろうことは理解しておりますゆえ、私がこの陽月国に連れて帰った責任を取り、しっかりと監視いたします。勝利の女神が本物であれば、また必ず、私の戦に勝利をもたらしてくれることでしょう。」
陛下は守華を見つめ、少し頷いた。その眼差しには、深い思索の色が見える。
その後ろで、陛下の耳元に小さく言葉をささやく者がいた。
無観――陛下付きの側近だ。
何を話しているのかまでは聞こえなかったが、陛下は静かにうなずく。
無観が一歩下がると、沈黙の中で空気が少し変わった。
「では、守華よ」
「はい。」
「そなたは、蘭明の屋敷に身をおきなさい。何か思い出すかもしれん。それにしっかりと勝利の女神として役目を果たせ。それが嘘だと分かればどうなるかはわかっておるな?」
その言葉に、一瞬、私の胸は凍りついた。
だって、私、本当は勝利の女神なんかじゃない――。
でも、そう思えば思うほど、この場での自分の立場を思い知る。
ここでは、私は勝利の女神。見ている兵士たちが証人。
「はい。しっかりとその役目を果たし、貢献いたしましょう」
私は深く息を吸い込み、心の中で自分を鼓舞した。
「ならば下がってよい」
陛下の声に、蘭明と一緒に一例して、後ろへと下がる。
大広間の重厚な空気の中を、静かに、しかし確かな足取りで進む。
扉の外の光が私の顔を柔らかく照らす。
新しい世界に足を踏み入れた――その感覚に心が震えた。
後ろで蘭明が小さく笑い、私を見守ってくれているのがわかる。
大広間を後にした瞬間、私は決意を新たにした。
「この陽月国で、私は勝利の女神として生き抜く――絶対に。」