77.偽りの夫婦と本心
「お待たせしました、すずらん様」
「ありがとう、ウタ」
ウタが丁寧に重い着物を脱がせてくれると、体がどんどん軽くなる。
これまであの重さの中で踊っていた自分が、改めてすごいと感心してしまうほどだ。
浴衣のような軽やかな生地で、下がスカート風になった服に着替える。
まるで現代でいうスカート付きの浴衣のようなイメージだ。
重い着物から解放され、体の動きはさらに滑らかになった。
もしかすると、あの重い着物で踊ること自体が、武芸の稽古にもなっていたのかもしれない、とすずらんは思った。
化粧もきれいに落とし、顔も心もすっきりと整う。
夕ご飯を一緒に食べる約束をしていた季昭の部屋へ、すずらんは足を向けた。
「お待たせー!」
身軽になったすずらんは、ルンルンとスキップするように季昭の部屋に入った。
「女って怖ぇな。数分前のあのすずらんが、こんなに軽やかになるなんて。このまま外に出たら花道なんてできやしねーぞ」
「また皮肉ばっかり言うんだから。こっちの私も素敵でしょ?」
「バーカ」
「何よ、バーカって!でも、踊らない日は花道なんてできないほうがいいのよ。だから、この格好で堂々と歩くわ。それにしても、今日のご飯も美味しそうね。この家の主だけあるわ」
季昭がいる日は、いつもよりご飯が豪華に感じる。日本料理の味付けもすずらんの口にぴったりだ。
(本当は、私が落ち着く場所は彩国のほうだったんじゃないかって思っちゃうくらい)
「ねー、今日の舞台に龍井、偉特、岳葉も来てたわよね?」
「あー、いたな」
「バレてないかしら?」
「大丈夫だ。踊り手のすずらんと総指揮官の守華は別人。誰も気づいていないさ」
「……褒められてるのか、貶されてるのか、よくわからないわね。」
「でも、その格好で出歩くときは気をつけろよ。龍井は戦のとき顔を見てないから大丈夫だが、偉特と岳葉にははっきり覚えられてるからな」
「うん、分かったわ。やっぱり岳葉って頭が切れるのね?」
「あー、あいつはすごい。まぁ、俺の方が上だけどな」
「はいはい、自画自賛ね」
「事実だし」
そのとき、ウタが静かにお盆を手に入ってきた。
「失礼いたします」
「ウタ、それは何?」
「果実酒でございます。いい具合にできたと聞きまして、お持ちいたしました」
「ありがとう」
ウタに渡され、すずらんは果実酒を手に取る。甘くて口当たりが良く、普段あまり飲めないお酒でも楽しめる一品だ。
「かんぱーい」
季昭とは友達のようにくだらない話で笑いながら、ご飯を食べ、お酒を味わう。
そんな時間は、今日の舞台の緊張感を忘れさせてくれる、心地よいひとときだった。
顔が少し赤くなったすずらんは、ご飯を食べ終えると自分の部屋に戻ろうとした。
「あら、すずらん様、もうお戻りですか?今日は季昭様のお部屋でお休みかと…」
「えっ!寝ないわよ」
「なんでです?夫婦なのに」
ウタはすずらんと季昭が夫婦だと思い込んでいる。
「子どもがそんなこと考えなくていいの!」
「私だってもう大人ですよ」
「はいはい」
「では、季昭様のお体だけでも洗って差し上げたらどうです?いつも私がやっておりますが、普通は妻がやるものですよ」
「えっ?そうなの?」
すずらんは少し考え込む。確かに、自分は一応季昭の妻だし、友達感覚の距離感もある。季昭の裸を見てもなんとも思わないし、いつも味方でいてくれる彼の体を洗うくらいなら…と心の中で整理する。
「うん、分かったわ。じゃあ、行ってくる」
ほんのり酔った気分も手伝って、すずらんは考えすぎずに、季昭が入っているお風呂へと向かった。
湯気が立ち上る露天風呂。
何人も入れそうなくらい広く、大きなお風呂だった。
「将軍ともなると、こんな贅沢なお風呂に入れるのね…」
すずらんは勝手にそう思い込みながら、湯気の向こうに季昭が浸かっているのを見つけた。
そっと近づくすずらん。
季昭は一瞬ウタだと思い込み、
「すずらん、結構酔っていたけど、大丈夫だったか?」
と声をかける。
「私なら大丈夫よ」
その返事に季昭は驚き、振り向くと目の前にいるのはウタではなくすずらんだった。
「えっ、なんで…すずらんが?」
胸を片腕で必死に隠す季昭に、すずらんは思わず笑う。
「なんで、あなたが恥ずかしがるのよ。男のくせに」
そう言いながら、すずらんは交差させていた季昭の腕をそっと掴み、タオルで洗い始めた。
「こういうのは、妻がやるものでしょう? 一応ね。まあ、季昭の体を見ても、なんとも思わないから安心して」
すずらんの言葉は自然で、どこか冗談めいていた。
「少しはドキドキしろよな…」
ボソッと呟いた季昭の声は、すずらんには届かない。
「季昭も傷だらけね。あなたの今までの道のりが、この傷に刻まれているのね」
すずらんはそう言うと、丁寧に腕や背中に残る複数の傷を指でなぞり始めた。
その仕草に、季昭の胸は少しずつ高鳴っていく。
(ドキドキするの、俺だけかよ…)
心の中で呟く季昭。
すずらんの手が季昭の指先まで触れた瞬間、思わず季昭はすずらんの手を握り、温泉の中へそっと引き寄せた。
次の瞬間、すずらんは温泉に顔まで潜ってしまい、水面が小さく波打った。
季昭がそっとすずらんの腰に手を回し、体を引き上げる。温泉の壁にすずらんの背が押し付けられた瞬間、すずらんの心臓は跳ねた。
「季昭ったら…何するのよ! 死ぬかと思ったわ」
「ドキドキしてるのは俺だけか?」
見つめ合う二人。湯気に包まれた空間で、呼吸が少し重くなる。
すずらんの体を包んでいた服は、温泉の湯で濡れ、肌に沿って透き通っていた。気づいたすずらんは、両腕で胸元を必死に隠す。
その隙に季昭の手が、そっと左胸の上に伸びる。
「この傷…」
「陽月国にいるとき、刺客にやられた痕よ」
「すずらんも…いろいろあったんだな」
季昭はその傷をそっとなぞり、そっと唇を触れさせる。その瞬間、すずらんは驚きの声を上げた。
「季昭!」
声を出したものの、酔いもあってか、声は少し震え、体も思うように動かせない。温泉の湯気の向こう、二人の間に張り詰めた空気が漂う。
季昭の唇がすずらんの傷口に触れるたび、体が自然に反応してしまう自分に、すずらんは苛立ちを覚えた。
酔いも手伝って、心も体もままならない。
「季昭、や、やめてよ!」
力を込めて抗うすずらんの声も、熱気にかき消されそうになる。
季昭は手をすずらんの腰から太ももへとゆっくり滑らせ、そっと引き寄せる。
同時に唇が傷に触れ、甘くも危うい感覚が体を駆け抜ける。
「まだ動じないつもりか?体は正直だろう?」
低く響く声に、すずらんの心拍はさらに速まった。
反射的にすずらんは顔を背け、季昭の手を押しのけようとする。
しかし季昭はその手を優しく握り、体をそっと自分の方に引き寄せる。
「すずらん…動くな」
言葉は穏やかでも、眼差しには圧倒的な力が宿っている。
熱と酔いで頭がぼんやりする中、すずらんは全身に力を込めて季昭を突き放す。
「もう、やめて!」
震える声と同時に、湯気の向こうで二人は距離を取り、互いの呼吸だけが聞こえた。
温泉の湯気に包まれた空間には、まだ張り詰めた緊張と熱が漂っていた。
季昭はハァッと我に戻った。
「わりぃ…もしかして、すずらん、まだ蘭皇と…」
「そうよ!まだ一線も越えてないんだから、季昭の馬鹿!大馬鹿!!」
すずらんは怒りと動揺をぶつけ、季昭を必死に突き放す。
「悪かった…もう、こんなことは…」
季昭は短く頭を下げ、我に返った自分を反省している。
季昭はすずらんを温泉の縁に上げ、羽織を持ってきて、透けてしまった服の上にそっと羽織らせた。
「季昭なんて大嫌いよ!」
すずらんは怒りを残しつつ、走り去る。
季昭は頭を抱え、なぜあんなことをしてしまったのかを反芻した。
温泉の湯気とともに、二人の間に漂う微妙な距離感を感じながら。
「季昭の馬鹿…本当に馬鹿!」
すずらんは怒りと苛立ちを抱えながらも、心の奥では逆に蘭明に会いたい気持ちが強くなっていた。
――蘭明に優しいキスをしてほしい。
――蘭明に優しく包み込んでほしい。
――私の体は蘭明に捧げたい。
閉じていた想いが、季昭の軽率な行動によってふたたび呼び覚まされる。
「季昭のせいよ…絶対に許さないんだから!」
すずらんは部屋に戻る途中、大声をあげながら空に浮かぶ月を見上げた。
怒りと切なさが入り混じるその表情に、夜の光がやさしく反射していた。
一方、少し離れた場所でその背中を見つめる季昭。
「…すずらん」と、低く呟く。追いかけたい気持ちは山ほどあったが、今はその一歩を踏み出せない。
季昭の瞳には、月明かりに照らされるすずらんの後ろ姿が小さく揺れて映っていた。
その影に、これからも自分がそっと寄り添う未来を思い描き、ただ静かに見守ることしかできない自分を噛みしめた。
次の日から、すずらんは季昭と目を合わせようとしなかった。
会っても、そっけなく視線を逸らすだけ。
そんな二人を見て、
「昨日、喧嘩でもしたのですか?」
とウタがすずらんに尋ね、
「すずらん様と何かあったのですか?」
と駿が季昭に聞いた。
二人はそろって、ただ一言――
「別に」
――しか答えなかった。
今日も踊り手としての仕事が入っているすずらんは、支度を整え、ウタを連れて出かける。
その後ろ姿を、季昭は遠くからただ見送ることしかできなかった。
心の奥では、季昭も自覚していた。
すずらんに自分の心が寄せられていることを。
だからこそ、昨日の酔った勢いで本音が出てしまったことを悔やんでいた。
もちろん、すずらんの心は蘭皇にあることも理解している。
それでも、この彩国にいるすずらんは、俺が守る――と決めたのだ。
ただ、今はその気持ちを胸の奥にしまっておく。
すずらんを悲しませることだけは、絶対に避けたいから――
すずらんが仕事を終えて部屋に戻ると、テーブルの上にはサンザシ飴や甘餅、角煮にカニ味噌、鶏団子のスープ――すずらんの大好物ばかりが並んでいた。
「わぁ……どれも、すずらん様の大好物ばかりじゃないですか!」
ウタが目を輝かせながら料理を見渡す。
その隣には、1通の手紙も置かれていた。
気づいたウタはすずらんに手渡し、荷物を片付けるために部屋を出て行った。
すずらんが手紙を開くと、そこにはこう書かれていた。
――“昨日のことは俺が悪かった。今後、一切あんな真似はしないから許して。”
そして、その下には、下手くそに謝る似顔絵が添えられていた。
思わず吹き出してしまうすずらん。
「季昭……そこにいるんでしょ?」
影からすずらんの様子を覗いていた季昭に向かって声をかける。
「なんだ、気づいてたか?」
「舐めないでよ……まあ、今回はこの料理に免じて許してあげるわ。季昭には、本当に感謝してる。ただ、私はあんな関係にはなれない。信頼できる親友として。もし、季昭に正妻にしたい人が現れたら、私はいつでも出て行くから言って」
「他の女には興味はない」
「未来なんてどうなるか分からないじゃない。だって、人を好きになるって、気づいたらそうなってるものよ」
「それなら、俺とすずらんだってどうなるか分からないだろ」
「まぁ、そうね。でも今言えるのは、私と季昭は偽りの夫婦ってことよ」
「分かってるさ……そんなはっきり言うなよ」
何気なく落ち込む季昭だったが、その真っ直ぐなすずらんの言葉に、やはり心を奪われてしまう。
「はい!とりあえずこの話は終わり! さあ、みんなで食べましょう」
すずらんの声で場が和み、ウタと駿も交えて皆で食事を楽しんだ。
笑顔を見せるすずらんに、季昭は肩の力を少しだけ下ろした。
そして心の中で、そっとつぶやいた――
「やっぱり、すずらんには敵わないな……」




