75.彩国一の舞姫
瞼の尻側を赤の影で染め、目尻には鋭く伸びる紅の線。
艶やかな紅が唇にのせられると、鏡の中の自分が別人のように映る。
黒髪は高く結い上げられ、煌めく簪がいくつも揺れるたび、胸の鼓動まで高鳴っていく。
身に纏うのは、すずらんの花を縫い込んだ赤い着物。
普段より重ねを多くしながらも、帯は前で大きく結び、胸元を少しはだけさせる。
強さと艶やかさを両立させるその装いは、まるで「舞の戦装束」だった。
「すずらん様……すごく綺麗」
ウタが瞳を輝かせ、憧れと尊敬を混ぜた声をもらす。
その言葉に守華の胸がきゅっと熱くなった。
緊張、不安、そして高揚。
舞台へ向かう前の空気が、こんなにも重く、甘く張り詰めるものなのかと。
___トントン。
静けさを破る扉の音が響いた。
「準備はできたか?」
季昭の声に、守華は深く息を吸い込み、鏡に映る自分と心を重ね合わせる。
「ええ、もう出来たわ」
季昭は、振り返ったすずらんの姿に心を完全に奪われた。
まるで世界の音が消え、時間が凍りついたかのように――。
普段、季昭の中ですずらんは「総指揮官」であり、武芸に秀でた強き女。
化粧などせず、戦場を駆け抜ける姿こそが彼女の象徴だった。
だが今、目の前にいるのは、艶やかに装い、全てを圧倒するひとりの女。
その瞬間、胸の奥がざわめき、知らぬうちに恋心が芽生えている自分に気づいた。
「……季昭様、すずらん様を見て固まっておりますよ」
クスクスと笑うウタの声に、はっと我に返るが、心臓の高鳴りは止まらない。
「何を言ってるの」
すずらんは軽く笑い、ウタをちらりと見る。
その仕草さえ、季昭の胸を熱くさせる。
「将軍、すずらん様。そろそろ時間です」
「将軍、すずらん様。そろそろ時間です」
慌ただしく駿が駆け込んでくる。
しかし駿もまた、すずらんの姿を見た瞬間、言葉を失った。
口を半開きにしたまま、目が離せない。
「ふふっ……すずらん様、男性をみんな虜にしてしまいそうですね」
ウタは堪えきれず、楽しげにケラケラと笑った。
「わぁー、すずらん様、素敵ですね。まるで妖精みたいです」
季昭より少し遅れて入ってきた駿が、真剣な瞳で話しかけてきた。
その一言で、季昭はようやく自分がすずらんの前でまた固まってる方に気づいた。
「ですよね……こんな美しいすずらん様を、男が放っておけるわけないですもんね」
「もう、ウタったら。今日は舞で勝負なのよ、外見じゃないの!」
すずらんは笑いながらウタに言う。
「そうなんですが、まずは見た目からでしょ、ねぇ、季昭様」
周囲の視線が一斉に季昭に向けられる。
「あっ、あー……」
言葉が詰まり、顔を赤らめながらもそっけなく返す季昭。
心の中では、すずらんの美しさに動揺して、どこを見ればいいのかもわからなかった。
「ったく、季昭はどうしたの?いつもみたいに、私を馬鹿にしてくれたらいいのに」
すずらんが挑発めいた声で言うと、季昭は少し俯きながらも、小さな声で答える。
「……まぁ、頑張れよ」
そう言うと、季昭は慌てて外へと歩き出す。
ついに、この日が来た。
今日を逃したら、また一年待たなければならない。胸の奥で、緊張が熱く脈打つ。
「大丈夫…私ならできる」
けれど、心の奥底では不安もくすぶる。
この道を志すきっかけとなった、彩国の神無月さん――
ここ数年、頂点の座を守り続けるその存在を、私は本当に追い越せるのだろうか。
たった半年で、頂点に立つなんて――自分の未熟さを思わず痛感する。
後ろから、低く力強い声が響いた。
「大丈夫だ。すずらんなら、奇跡を起こせる。お前の努力は俺が分かってる」
振り向くと、そこに季昭。
胸がぎゅっと熱くなる。
「季昭…」
「まぁ、ダメだったら慰めてやっから!」
「ダメだったら美味いもので慰めてよね」
「はいはい」
そう言って季昭は手を振りながら去っていった。
背中を見送り、すずらんは深呼吸をひとつ――。
目の前の舞台では、前の出演者が優雅に舞っている。
会場全体は静まり返り、観客の視線が舞台に釘付けになっていた。
審査員の鋭い目が光を放ち、緊張感が一層会場を満たす。
身体の奥が熱くなる。鼓動が耳元で響くようだ。
指先はほんのわずかに震え、扇を握る手に力が入る。
だが、恐怖に押し潰されるわけにはいかない。
観客の視線、審査員の視線、前の舞台の余韻――
すべてを受け止め、私の舞で返してやる。
陽月国でも、私は舞い、観る者の心を奪った。
ここ彩国でも――
この会場、この空気、この視線すべてを味方にして、私は私の舞で、みんなを魅了してみせる。
胸が高鳴り、身体が緊張で張りつめる。
でも、その緊張こそが、私の力になる。
今、すずらんとしてのすべてを、この舞台にぶつける――。
ついに、すずらんの番が回ってきた。
大勢の観客が見つめる舞台の中央に立つ。
太陽の光が、すずらんをまるでスポットライトのように照らし出す。
その光は、陽月国のあの扉をくぐるたびに浴びたあの太陽の光を思い出させた――胸の奥に熱い感覚が蘇る。
すでに魅力的な容姿がさらに輝きを増し、観客の視線を一瞬たりとも離させない。
男も女も、老人も子供も――その場にいるすべての人が、息を飲み、口を開けて見入っていた。
踊る前から、すでにすずらんに吸い込まれたように、誰もが釘付けになっていたのだ。
遠くから低く響く太鼓の音、笛の旋律が会場に広がる。
音が体に響くたびに、すずらんは軽やかに体を動かす。
重い着物に縛られているはずなのに、動きはまるで風のように軽やかで、扇子は自由自在に空を舞う。
宙に投げた扇子を、まるで魔法のように見事に受け取る姿に、観客の目が釘付けになる。
すずらんと目が合った者の中には、思わず息をのんでその場に立ち尽くす者もいた。
その存在感、舞いのひとつひとつが、まるで人々を別世界に誘うかのようだった。
舞が終わり、静寂が訪れる。
観客たちは、すずらんの世界から現実に戻れず、固まったままだった。
そのとき、遠くから力強い声が響く。
「よっ、すずらん!」
季昭の声だった。
その声に呼応するように、観客たちは一斉に歓声をあげ、会場全体が揺れるような拍手に包まれた。
これまでにない熱気と興奮――すずらんの舞は、人々の心を一瞬で奪ったのだ。
すずらんは深くお辞儀をし、その場を去る。
「すずらん様、さすがです!完璧でした!」
駆け寄ったウタが、輝く瞳で声をかける。
「ありがとう。でも、神無月さんの舞がこれからだわ」
そう、最後に待つのはトップ、神無月の舞。
すずらんの胸は前よりも高鳴っていた。
目の前の舞台で、神無月の存在を感じるたび、心臓がバクバクと音を立てる。
いや、正確にはこれまで意図的に見ないようにしていたのだ――
見てしまえば、自分の舞が消えてしまうような気がしていたから。
神無月さんの番がやってきた。
会場はざわめき、トップの踊り手が出てくる前から大歓声が巻き起こる。
その圧倒的な存在感だけで、すずらんは息を呑む。
黒地に鶴の刺繍が施された美しい着物に身を包んだ神無月。
背筋をピンと伸ばし、一歩一歩舞台に踏み出す姿は、光をまとった女神のようだった。
観客の視線が一斉に吸い寄せられ、ざわめきが一瞬、静寂に変わる。
「わぁ……すごく綺麗……」
ウタも思わず息を止め、目を輝かせたまま見入る。
「この方が神無月さんよ」
「え……?」
「私が踊り手になろうと思ったきっかけの人」
すずらんの胸は高鳴る。
どんな舞を見せてくれるのだろう――心臓の鼓動が速くなる。
音楽が静かに流れ始め、神無月の舞が幕を開ける。
手先はまるで風に溶けるかのように柔らかく、ひとつひとつの指の動きにまで心が奪われる。
足先が踏むたび、床を流れるように滑り、まるで重力を無視しているかのような軽やかさ。
扇を宙に舞わせ、空中でひらりと返す技は、観客の視線を逃さず、目の前に魔法をかけたようだった。
視線を送るたび、神無月の目と手の動きに引き込まれ、すずらんも息を忘れる。
一瞬の静止も、次の瞬間の伸びやかな動きも、すべてが計算され尽くし、観客の心に刻まれていく。
舞台中央でのくるりと回る旋回、扇を投げて受け取る優雅な動作、衣の裾が揺れるたびに光が反射して舞台全体を輝かせる。
まるで黒地の鶴が羽ばたくように、神無月の存在が空間を支配していた。
すずらんも、目の前の舞に心を奪われる。
自分の舞とは違う、圧倒的な美の極致。
しかし、だからこそ刺激になる――負けてはいられないという熱が胸の奥で燃え上がる。
舞が終わると、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。
すずらんか、神無月か……。
あとは結果を待つしかない。
深く息を吸う。
やることはやった。
私は私の舞を全力で踊った。
この舞台で、できる限りのすべてを出し切った。
1時間後――。
舞台で踊ったすべての者たちが、息を整えながら広間に集まる。
会場には緊張と期待が渦巻き、観客の視線が舞台中央へと集中している。
すずらんの心臓は今にも破れそうなほど高鳴り、手のひらは汗で少し湿っていた。
これまでの努力、苦しい稽古、悔しい日々――すべてが今、この瞬間に集約される。
審査員、観客たちの投票で、今年のトップ踊り手が決まる。
「今年の踊り手1位は……」
声が会場に響き渡る。すずらんは思わず目を閉じ、深く息を吸った。
鼓動が耳の奥で跳ね回る。
「すずらん」
――呼ばれた。
その瞬間、時間が一瞬止まったように感じた。
今、すずらんの名前が、あの神無月の前で――呼ばれたのだ。
「「わぁーーーーー!」」
会場が歓声で揺れる。空気が震え、熱気が舞台を包む。
すずらんは驚きと信じられなさで一瞬立ち尽くす。
たった半年で。
異例のことだった。
でも、それだけみんなを魅了したのは、紛れもなくすずらんだった。
あの神無月を――超えたのだ。
ウタは飛び跳ねるように笑顔を弾けさせた。
「すずらん様……すごい!すごすぎます!」
目をキラキラ輝かせ、両手で握った拳を高く掲げるウタの姿に、すずらんの胸も熱くなる。
季昭も駿も、目を丸くして立ち尽くしていた。
特に季昭――その目は、誇らしさと恋慕が入り混じり、少し潤んでいた。
「……すずらん、やっぱり……」
息を詰め、言葉にできない思いを抱えたまま、ただ熱い視線を送る。
すずらんの胸の奥が熱くなり、喉の奥がぎゅっと詰まる。
瞳がかすかに潤んでも、涙は決してこぼさなかった。
そのかわり、彼女の唇にはゆっくりと誇らしい笑みが浮かんでいた。
歓声と拍手、仲間たちの喜び、そして自分を信じてくれた人々の気持ちが一気に胸に押し寄せた。
「やっと……やっと、ここまで来れた……!」
心の底から湧き上がる達成感と幸福感。
ウタが駆け寄り、すずらんの手を握る。
「守華様、ほんとうにおめでとうございます!」
「ありがとう、ウタ……あなたも、一緒にここまで来てくれたのよ」
すずらんはウタの頭をそっと撫で、二人で喜びを分かち合う。
そして季昭――
私を支えてくれる人がいる。
私の努力を信じてくれる人がいる。
そして、この舞を愛してくれる人たちがいる――。
すべてが一つになった瞬間、すずらんは深く深呼吸し、心からの笑みを会場に向けた。
「私の舞は、ここに生きている――!」
すずらんの心臓はまだ速く打ち続けていた。観客たちが帰路につき、静けさを取り戻した会場で、すずらんは真っ先に季昭のもとへ駆け寄った。
「季昭、やったわ!彩国トップになったわ!」
喜びに任せ、思わず季昭の首に腕を回して飛びつく。
その勢いで、季昭はすずらんを軽々と抱き上げ、くるくると回った。
回転が止まると、季昭は真っ直ぐにすずらんを見つめ、静かに言った。
「やっぱり、お前は言ったことをやりきるんだな」
「えへへ」
無邪気に笑うすずらん。
だがその時、すずらんはふと、自分の腕がまだ季昭の首に回ったままであること、そして季昭の手が自然に自分の腰を支えていることに気づいた。
「あっ、ごめんなさい、つい嬉しくて……」
慌てて身を引くすずらん。
その頬がわずかに赤らんで照れていた。
一方、すずらんの温もりが離れた瞬間、季昭の手には名残惜しさが残っていた。けれど、季昭はそれを悟られないよう、ただ穏やかな笑みを浮かべる。
そんな二人のもとに、柔らかな声が響いた。
「すずらんさん、おめでとう」
柔らかな声が響いた。振り返ると、そこには神無月が静かに佇んでいた。
舞台の上で見せた華やかさとは違い、今はただ一人の女性としての穏やかな笑顔を浮かべていた。
「神無月さん…」
「半年前、季昭将軍の妻と紹介された子よね?」
「はい」
「半年で踊り手の頂点に立ってしまうなんて…でも納得だわ。あなたの舞は私でさえ心を奪われた。負けを認めざるを得ない」
「そんな…私も神無月さんの舞に吸い込まれていました。それに――私が踊り手を志したきっかけをくださったのは、他でもない神無月さんなんです」
「えっ…私が?」
「はい。初めてお会いした日のこと、今でも鮮明に覚えています。あの日から、ずっと神無月さんを目標に稽古を続けてきました」
神無月は一瞬、驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと微笑んだ。
「負けたのは悔しい。でも、不思議ね…嬉しいの。私の舞が誰かの夢につながっていたなんて。これでようやく――あの人と一緒になれるわ」
「神無月さん…まさか…」
問いかけるすずらんに、神無月は頷き、晴れやかな笑顔で答えた。
「おめでとうございます」
神無月さんは舞だけでなく、人としても尊敬に値する存在だと、心から思った。
初めて出会ったときに目を奪われたのは、ただ美しいからではなかった――その内に秘めた気高さに触れていたからなのだ、と。
これからは好きな人と幸せに暮らしてほしいとそう願うすずらんだった。




