73.傷を抱えた少女ウタ
4月も終わりに差しかかった頃、季昭は一人の少女を連れて帰ってきた。
「おかえりなさい、季昭。今日は早かったのね」
「ただいま」
その自然なやりとりは、まるで本当の夫婦のようで、季昭ももう照れることなく受け答えしていた。
だが、その背後に立つ小さな影に気づいたすずらん。
8歳ほどの女の子が、怯えるように視線を落としていた。
「その子は……?」
少女の衣服は破れ、体も小刻みに震えている。
まさか、と胸騒ぎがしたすずらんは、季昭の耳をつまみ上げる。
「ちょっと!まさか、こんな小さな子に手をあげたんじゃないでしょうね!?」
「い、いててて!違うってば!離せって!」
「じゃあ何よ、その怪我とボロボロの服は!?しかもこんなに怯えて……無理やり連れてきたんじゃないの!?」
「だから違うって!説明するから、まず耳を離してくれ!」
パッと手を放したすずらん。赤くなった耳を押さえながら、季昭がため息をつく。
「……そんな怖い目すんなよ。俺が子どもに手をあげるわけないだろ」
「……まあ、それは確かに」
季昭は少し真剣な顔になり、口を開いた。
「帰り道でひとつの村を通ったんだ。戦に巻き込まれて、村人は皆……亡くなってた。ただ、この子だけ、瓦礫の下で生きてたんだ」
「……!」
信じがたい現実に、すずらんは言葉を失う。
「じゃあ、この子の両親も……」
「ああ……きっと、この子の目の前で……」
すずらんの胸が痛んだ。
大切な人を失う苦しみがどれほど深いものか、自分自身が誰より知っているから。
震える体。
感情を閉ざしたかのような顔。
すずらんは、ためらわず少女に歩み寄り、そっと抱きしめた。
少女はただ、力なく立ち尽くしていた――。
「泣いていいのよ。我慢しなくていい。私が受け止めてあげるから」
すずらんがそう囁いた瞬間、少女の瞳から堰を切ったように涙があふれた。
――きっと、声を出すことを禁じられていたのだろう。
声を出したら殺される。
だから、泣きたくても泣けなかったのだ。
「うぁぁぁん……うぁぁぁん……」
やがて、小さな体から押し殺していた嗚咽があふれ出し、堰を切ったように泣きじゃくった。
「おかん……おとん……おかん……おとん……!」
震える声で、何度も何度も両親を呼び続ける。
「辛かったね……よく耐えたね。本当に、よく頑張ったわ」
すずらんは少女をしっかりと抱きしめ、その小さな頭を優しく撫で続けた。
どれほどの時間、泣き続けていただろうか。
やがて泣き疲れた少女は、すずらんの肩に寄りかかるようにして眠りに落ちていた。
すずらんはそっと駿に目配せし、少女を自分の部屋に運ぶよう頼んだ。
そして振り返り、季昭に微笑む。
「……季昭、あの子を救おうと思って連れてきたのよね」
「ああ……」
「あなたが良い将軍でよかった。あの子の面倒は、私が見るわ」
それから、すずらんは女の子の面倒をみることにした。
毎日欠かさず続けてきた踊りの稽古も、このときばかりは休み、片時も離れず寄り添った。
――大人の私ですら、大切な人を亡くしたときには立ち上がることができなかった。
この小さな子が負った傷は、計り知れないほど深いに違いない。
そう思うと、人ごととは到底思えず、ただそばにいてあげた。
最初の日、女の子は一日中眠り続けた。
きっと、心も体も限界まで疲れ果てていたのだろう。
二日目には、少しずつ口に食べ物を運び、傷の手当をした。
そして三日目。すずらんは女の子をお風呂に入れてあげた。
「ちょっと沁みるかもしれないけど、我慢してね」
薬湯に浸けると、傷口に沁みる痛みを知っているすずらんは、タオルでやさしく体を包み込みながら、少しずつ湯に慣らしていった。
やがてタオルを外すと、お湯の温もりが少女の体をやわらかく包み込み、痛みが和らいでいくのが分かる。
長い黒髪を優しく洗い流すと、腰まである髪は天使の輪を描くほど艶やかに輝き、白い肌に映えて、お人形のように大きな瞳を持つ美しい顔立ちがあらわになった。
「あなた、本当に綺麗ね。羨ましいくらいよ」
湯上がりに髪をタオルで拭いてやりながら、すずらんは微笑んだ。
その声に、ずっと下を向いていた少女が、初めて顔を上げる。鏡に映る自分を見つめる瞳が、かすかに揺れた。
「ねぇ、あなたのお名前は?」
すずらんが優しく問いかける。
「……ウタ」
「ウタ。とても素敵な名前ね。私はすずらん。お花の名前なの」
「……お花?」
「そう。ウタはお花が好き?」
小さくコクンと頷いた。
「私も好きよ。同じね。今度、一緒に庭にたくさん花を植えましょうか」
「……いいの?」
驚いたように目を見開くウタに、すずらんは力強く頷いた。
「もちろん。ウタが望むなら、いつまでも私のそばにいていいのよ」
「……本当に?」
「私は嘘をつかないわ」
その言葉に、ウタの瞳から再び涙があふれた。
「ありがとう……」
「もう大丈夫。これからは、私や季昭を家族だと思って」
泣きながら「うん、うん」と何度も頷くウタ。
「ウタは、今いくつ?」
「……九つ」
「九歳か」
子どもから大人へと移ろい始める、もっとも心が不安定な年頃。
親を目の前で失った記憶は、きっと一生消えることはないだろう。
――だからこそ、少しでもその痛みを和らげてあげたい。
すずらんは、胸の奥で強くそう願った。
次の日、すずらんはウタを庭に連れ出した。
季昭と駿も休みで、半ば強引に手を借りて、さっそくたくさんの花を植えていく。
殺風景だった庭は、次第に鮮やかに彩られていった。
赤、黄、白、紫――まるで色鉛筆を走らせたように色とりどりの花が混ざり合い、すずらんの部屋の前を鮮やかに染め上げる。
その中で、ウタの表情にも少しずつ変化が訪れた。
ほんの小さな笑顔――けれど、それはすずらんにとって何よりも嬉しいものだった。
真っ白になってしまったウタの心に、花の色が少しずつ戻っていく。
それはきっと、ウタだけではない。
空っぽになっていたすずらん自身の心にも、同じように色が差し込み始めていた。
ひと休みしてから、すずらんは懐から小さな道具を取り出した。
「ふぅ」と息を吹きかけると、淡い虹色を帯びたシャボン玉が空に舞い上がる。
光を浴びながらふわりふわりと漂うシャボン玉。
それは、かつて蘭明の屋敷で、使用人たちと心を通わせるきっかけになった懐かしい光景を思い出させた。
――あのあと、蘭明を怒らせて、罰として書を書かされたのよね。
小さく笑みを浮かべながら、すずらんは遠い空を見上げた。
___パチンッ。
目の前で大きく膨らんだシャボン玉が弾け、すずらんは思わず瞬きをした。
「上の空だぞ」
からかうような声。季昭が、わざと彼女の目の前でシャボン玉を割ったのだ。
「ちょっと!びっくりしたじゃない!」
すずらんはすぐに仕返しとばかりに、季昭めがけて息を吹きかけ、無数のシャボン玉を放つ。
「や、やめろって!」
慌てて逃げる季昭。
それを追いかけるすずらん。
その光景に、ウタが腹を抱えて大きな声で笑った。
無邪気な笑い声は、庭いっぱいに広がり、聞いていた駿までもが思わず頬を緩める。
すずらんも、季昭も、駿も――その笑顔を見て自然と微笑んだ。
そして次の瞬間には、皆でシャボン玉を吹き合い、虹色に光る玉が庭中を舞い踊っていた。




