72.女の敵は女
この姿を見て、面白く思わない者がいた。
――側室の玲奈と香織だ。
正妻として季昭に迎え入れられているうえに、今度は踊り手としても頭角を現そうとしている。しかも季昭からは、誰の目にも分かるほど特別に扱われている。
踊り手に「既婚者は不可」という決まりはない。だが、ほとんどの踊り手は未婚であり、結婚を機に舞台を去るのが通例だった。
にもかかわらず、正妻という立場でなお舞台を目指すすずらんの存在は、女たちにとって憧れそのもの――だからこそ、余計に憎らしかった。
季昭が屋敷を留守にしているときを狙って、二人の嫌がらせが始まった。
慣れない着物で歩くすずらんの裾を踏み、わざと転ばせたり、
「できない」と知っていながら刺繍を命じたり。
さらには、耳を刺すような嫌味を日々投げかける。
嫉妬と敵意が、すずらんを取り囲む日常となっていった。
けれど、すずらんにとってはそんな嫌がらせなど苦にもならなかった。
陽月国で過ごした日々に比べれば、取るに足らない。
あちらでは、命を落としかけたことも何度もある。
それに比べれば、こんな幼稚な意地悪など鼻くそ同然だ。
――もっとも、国がどこであれ“女の敵は女”というのは変わらないようだ。
なぜ女は、女にばかり牙を剥くのだろう。
原因は男にあるかもしれないのに。
時には男にぶつければいいのに、といつも思う。
「いただきます」
小さく呟き、膳に箸を伸ばす。
季昭がいるときは一緒に食事をしてくれるが、いないときは決まって一人きり。
一人で食べることにも、すずらんはすっかり慣れてしまっていた。
――ガリッ。
「いたっ……!」
奥歯に硬いものが当たり、嫌な音がした。
慌てて口から出してみれば、それは――小さな石だった。
「……またあの二人ね。食べ物に石を入れるなんて。まあ、毒じゃなかっただけマシか」
口元に皮肉な笑みを浮かべながら、すずらんの脳裏に蘭明と出会った頃の“毒茶”の記憶がよぎった。
一人でくすりと笑い、気にも留めずに膳の残りを平らげてしまう。
「ごちそうさま。……足をかけられるにしろ、石に気づけないなんて、腕が鈍ったものね。最近、踊りの稽古ばかりだったせいかしら」
着物を脱ぎ、動きやすい衣へと着替えると、庭へ出る。
刀を手にし、静かに構える。
振り下ろす、振り払う、突き、斬り返し――。
感覚を確かめるように、武芸の稽古が始まった。
――カシャァン!
鋭い金属音。すずらんの刀に、別の刀が重なる。
息をのんで顔を上げると、そこにいたのは。
「……季昭」
「一度、お前と手合わせしてみたかったんだ」
彼の口元に浮かぶ挑戦の笑み。
すずらんも鼻で笑い、力強く構え直す。
次の瞬間、庭には二人の剣がぶつかり合う、激しい音が響き渡った。
庭に響く刀と刀の金属音。
風を切る音と、踏み込む足の振動。
「…手ごたえあるな」
季昭の低い声に、すずらんは眉をひそめる。
互いに間合いを測りながら、一瞬の隙を探る。
斬り、かわし、突き、受け――
剣を交わすたびに、力と反応の違いを感じ取る。
季昭の動きは正確で無駄がない。
攻めも守りも均整が取れていて、常に次の一手を読まれているようだ。
しかし、すずらんも負けてはいない。
陽月国で鍛えた武芸の勘と、体幹の強さ。
瞬間的な判断と、踊りで培った体の柔軟さが武器になる。
「…やるな、すずらん」
季昭が笑みをこぼす。
息を弾ませながらも、すずらんは目を輝かせる。
「貴方に負けるつもりはありません」
刀を振るたび、互いの力量が徐々に分かり、
攻めも受けも、タイミングと間合いで少しずつ駆け引きが生まれる。
庭に漂う緊張と集中の空気。
二人の呼吸が重なり、剣と剣の衝撃が、一瞬の静寂を挟んで繰り返される。
いい勝負だったが、最後にすずらんの刀が手から離れ、勢いよく飛んでいった。
「さすがに、季昭将軍には勝てないわね」
季昭は地面に刺さった刀を手に取り、すずらんのもとへと歩み寄る。
「第一将軍だからな」
得意げに、少しドヤ顔で答える季昭。
「そうですね〜、将軍さま」
すずらんは笑顔で刀を受け取り、軽く頭を下げる。
「今日は踊りではなく、武芸の稽古か?」
「ええ、ずっと触っていなかったから鈍っているかと思って。それより、今帰ったの?」
「あ〜」
「おかえりなさい」
満面の笑みで迎えるすずらんの声に、季昭は少し戸惑う。
本当の妻ではないと分かっていても、思わず錯覚してしまうほど自然な、あたたかいおかえりなさいだった。
少し固まる季昭をよそに、すずらんは手を振りながら大きく「おーい!」と声をかける。
「あっ、ただいま」
少し照れたように答える季昭。
その様子にも気にせず、すずらんは元気よく言った。
「じゃ、踊りの稽古に行ってくるね!」
手を振り、すずらんは着物に着替え、稽古場へと向かった。
稽古を終え、自分の部屋に戻ると、いつものようにベッドに倒れ込む。
――しかし、今日の布団は……
「冷たっ!!」
水浸しだった。
また、あの二人に違いない。
幼稚な嫌がらせ。しかも、こっちは疲れ果てているというのに。
だが、そろそろ我慢の限界だ。
すずらんの目が鋭く光る。
「大人しくしていた私も、さすがにキレますよ?」
バケツに水を汲み、すぐさま二人のもとへ向かう。
――これから、すずらんの反撃が始まるのだ。
予想通り中庭にいた。
すずらんは座っている二人に向かって、バケツの水を一気にぶっかけた。
その瞬間、通りかかった季昭と部下の駿が目を見開く。
「えっ!止めますか?」
慌てて駿が問いかける。
「いや、いい。どうなるか、見物だ」
季昭は腕を組み、冷静にその光景を見つめる。
「ちょっと、何するのよ!」「冷たいじゃない!」
叫ぶ二人。
フン、と顔を横に向け、手を組むすずらん。
「正妻だからって調子に乗ってるんじゃないわよ」
玲奈が怒りにまかせてビンタをしようと手を振り上げるが、その手はあっけなくすずらんに掴まれる。
「調子に乗ってるのは、私じゃなくてあなたたちでしょ?」
二人が睨み返す。
「私が何も言わないからって……はぁ、幼稚な嫌がらせをしているのは分かってるのよ」
すずらんは手を離すと、玲奈を突き飛ばした。
「いったーい!」
「誰かー!誰かー!?」
香織が慌てて護衛を呼ぶ。
「いい?私はあなたたち二人に何をされても平気よ。あなたたちお嬢様に構ってる暇なんてないの。忙しいの。ただ、今回のは度が過ぎてるんじゃない?何をしたか分かるでしょ?」
二人は目を逸らす。
すずらんはその周りをゆっくり歩きながら、声を低く響かせる。
「何も答えないつもり?まぁ、いいわ。あなたたちが濡らした布団に、季昭が横になったら?責任取れるの?」
言葉に詰まる二人。
そこへ屋敷の護衛がやってきた。
「あなたが悪いのよ!痛めつけなさい」
倒れている玲奈が指示を出すが、正妻となったすずらんには手が出せず、護衛も困惑する。
「まだ、正式に妻になったわけではないのよ。長年いる私の言うことも聞けないの?」
玲奈は低く、鋭く護衛たちに問いかける。
護衛二人が手を出そうとした瞬間、すずらんは一瞬で応戦し、あっという間に二人を制してしまった。
その光景に側室の二人は凍りつく。
立っていた香織がこっそり立ち去ろうとした瞬間、すずらんは一人の護衛から刀を抜き、香織の首元に突きつけた。
「命をかける覚悟もないくせに、幼稚な嫌がらせをするんじゃない」
すずらんの低く響く声には、それだけで圧力があった。
「は、はい……」
香織は今にも泣きそうな声で答える。
次にすずらんは刀を倒れている玲奈の首元に向ける。
「何か言うことは?」
「……ご、ごめんなさい。もう二度とこんなことはしません」
「はい。そこまで―――!」
ずっとその様子を見守っていた季昭と駿が、すずらんの手を止めに入った。
すずらんは鋭い目で季昭を見た。
「すずらん、気が済んだら刀を――」
そう言われ、すずらんはゆっくりと刀を地面に投げ捨てた。
「ったく……お前たち二人はこれでも屋敷の護衛か?女にやられるとはな……」
「「申し訳ございません」」
護衛二人は頭を下げる。
「まぁ、仕方ないか。言っておくがな、すずらんはかつてある国の総指揮官も務めた女だ。甘く見るんじゃないぞ」
その言葉に、その場にいた全員が驚きの表情を浮かべる。
「玲奈、香織、分かったならもうすずらんへの嫌がらせはやめろ。私が気づかないと思ったのか?もしまだ続けるつもりなら、すずらんに倍返しされるぞ」
「「は、はい……」」
季昭に言われ、二人はうなだれて大人しくなる。
「みな、下がれ」
その声で屋敷の者たちは一斉にその場を離れる。
すずらんも去ろうとした瞬間、季昭がそっと腕を掴んだ。
「……何?」
すずらんはまだ少し不機嫌そうに睨む。
「なかなか本性を出さないと思っていたが……ようやく見せたな」
季昭はケラケラと楽しそうに笑った。
その笑顔とは対照的に、すずらんは面白くなさそうに眉をひそめる。
「でもな、嬉しかったぞ。俺のために怒ってくれたんだろ?」
「ち、違うわよ!ただ……みんなが私を“妻”だと信じてるから、そう言っておかないと筋が通らないでしょ」
季昭はふっと笑みを深めると、掴んでいたすずらんの腕を引き寄せ、耳元で低く囁いた。
「……いいんだぞ。今夜は俺の布団で一緒に眠っても」
一瞬、すずらんの身体が固まる。
だが次の瞬間、顔を真っ赤にして叫んだ。
「ば、馬鹿言わないで!」
勢いよく季昭から身を引き離す。
「それより!びしょ濡れの私の布団をどうにかしなさいよ。分かった!?」
「あ、ああ……」
その強い言葉に押され、さすがの季昭も逆らえず、素直にうなずくしかなかった。
それからというもの、すずらんの名は屋敷中に広まり、彼女に逆らう者は誰一人いなくなった。
あれほど執拗に絡んできた玲奈と香織でさえ、ぴたりと手を引いたのだ。
おかげで、すずらんは心置きなく踊りの稽古に打ち込むことができた。
足の裏や指先には硬いマメがいくつもでき、扇子を握る手には無意識に力が入りすぎて、皮が裂けることもあった。
それでも泣き言ひとつ言わず、自分で薬を塗り、着替えも髪の手入れもすべて自分でこなした。
季昭が「侍女をつけてやる」と言ってくれたが、すずらんはきっぱりと断った。
――小心のことが頭をよぎったからかもしれない。
けれどそれ以上に、誰かに頼ることはもうしたくなかった。
私は一人で立ち、一人で強くなる。
そう決めたから。
三月一日。
「蘭明、二十二歳のお誕生日おめでとう。守華、二十歳のお誕生日おめでとう。そして――すずらん、誕生おめでとう」
屋敷近くの土手に腰を下ろし、夜空を仰ぐ。
彩国に来て三か月。ここへ来てから、月を見上げることなど一度もなかった。
けれど今宵、ようやく目を向ける。
「蘭明、同じ月を見てる?私はここで生きてる。あなたも元気でいてくれてる?」
静かに語りかける声に、胸の奥が熱を帯びる。
会いたい――その一言が喉まで込み上げた。
けれど、あの日、陽月国を去るとき誓ったはずだ。
もう二度と涙は流さない、と。
だから、熱いものが瞳に滲んでも、こぼさない。
手の中には、蘭明から贈られた蘭の簪。
月光を浴び、花の細工がほの白く輝く。
・・・・・会いたい・・・・・・。
その想いに心が揺らぎそうになる。
だから深く息を吸い、吐いた。
簪を帯に挿し直すと、懐から小さな箱を取り出す。
箱を開け、蘭の簪をそっと納める。
続けて帯から琉璃の形見――あの手鏡を取り出し、同じ箱に収めた。
「この国で踊り手の一番になるまでは、封印する」
どちらも、すずらんにとって何より大切で、心を支える宝物。
けれど甘えれば弱さが顔を出す。だから、今は封印する。
しばらく箱の中を見つめ、名残惜しげに蓋を閉じた。




