71.彩国の日常
季昭の屋敷に来てから、守華が落ち着くまでは、誰にも会わせないように配慮してくれていた。
しばらくして、もう大丈夫だろうと判断したのか、季昭は屋敷に戻るとそのまま屋敷の者たちと側室二人に向かって、私を“すずらん”として紹介した。
そして、正妻として――。
そう、季昭にはすでに二人の側室がいた。
玲奈と香織。どちらも高貴な家柄の美しい女性だ。
私は最初、侍女で構わないと告げたのだが、季昭は「それはできない」と言い切り、正妻としてここに住まわせてくれた。
上っ面の体裁ではあるが、こうでもしなければ、側室たちや屋敷の者たちに示しがつかないのだろう。
今思えば、蘭明の周りにも側室の一人や二人いてもおかしくはない。むしろ、いなかったほうが不自然なくらいだ。
屋敷では、まだこのことを外に漏らすなと季昭から強烈な圧がかけられ、まるで脅しのようだった。
もちろん、玲奈や香織は、突然現れた私を快く思っていないのは一目で分かった。
だが、それでも気にしないのが、すずらんの流儀だ。
運がいいのか、それとも天の采配か。
季昭は遠征で家を空けることが多かった。
そのおかげで、正式な婚礼の儀は「将軍が落ち着いてから」という名目になり、屋敷の者たちも誰一人として疑いを抱かない。
きっとこれも、季昭が先を読んでうまく立ち回ってくれているのだろう。
陽月国の装いは中国の漢服に似ていた。
けれど彩国はどちらかと言えば、日本寄り。
男たちの服装は陽月国と大差ないが、女の衣はまるで違う。
ここ彩国では、女性は皆、着物を纏っていた。
――昔の日本に迷い込んだよう。
そう思えば、守華にとっては意外と馴染みやすかった。
日本人としての血が、自然と風景に溶け込ませてくれたのかもしれない。
ただ一つ、慣れないのは着物そのもの。
布を重ね、帯で締めるその姿は美しいが、動きにくいことこの上ない。
「動きづらい服ほど嫌なものはない」――それが守華の本音だった。
それでも、季昭が用意してくれた着物を素直に身に纏い、鏡の前に立つ。
多少の不自由さも、彼の思いに報いるためなら我慢できる。
こうして少しずつ、守華は“すずらん”として彩国の暮らしに馴染んでいった。
初めて彩国で迎える朝。
襖を開けると、香ばしい香りが漂ってきた。
食卓には、白い湯気を立てるご飯と、澄んだ汁物、焼かれた魚に香の物。
陽月国の濃い味付けとは違い、彩国の料理は淡く優しく、体の奥にじんわりと染みていく。
「すずらん様、こちらへ」
侍女たちが恭しく席へと案内する。
すずらんが腰を下ろすと、左右に座る二つの影。
第一将軍・季昭の側室――玲奈と香織。
どちらも高貴な家の出で、立ち居振る舞いまでが気品にあふれていた。
すずらんが軽く会釈すると、二人はわずかに視線を投げただけで、何事もなかったかのように箸を取った。
笑みすら見せない冷たい態度。
――まぁ、当然よね。
昨日まで存在もしなかった女が、いきなり「正妻」として座っているのだから。
好意的に受け止められるはずがない。
それでも、すずらんは微笑みを崩さなかった。
戦場で敵軍の視線にさらされたことを思えば、この程度の敵意など何でもない。
むしろ、この張り詰めた空気すら新鮮に思えた。
箸を取り、静かに食事を口に運ぶ。
彩国の味はどこか懐かしく、そして新しかった。
こうして、すずらんの「新しい日常」が始まっていく。
普段は、今でいう浴衣のような軽やかな着物を身にまとっていたが、踊りの稽古のときは違った。
重みのある本格的な着物に袖を通し、一歩踏み出すごとにその重さを肌で感じる。
歩き方、手の運び、視線の向け方――。
一つひとつの所作を丁寧に身につけていく。
季昭は彼女のために、一流の踊りの師を付けてくれた。
「すずらんなら、きっとやれる」
そう言われた言葉が、心の奥で支えになっていた。
もともと、すずらんは「これ」と決めたら徹底的に打ち込む性格だ。
かつて武芸も、最初は全く出来なかったのに一気に習得した過去がある。
その集中力は今も健在で、日本にいた頃に身につけていた踊りの基礎もあり、武芸よりははるかに早く上達していった。
だが、決して順風満帆ではない。
何度もつまずき、何度も悔しさに唇を噛んだ。
それでも朝から晩まで、師がいない時でさえ練習を続けた。
――止まってしまえば、蘭明のことを考えてしまう。
だからこそ、踊りに身も心も投げ込んだ。
その姿は、必死さを隠そうともせず、ただひたむきだった。
日が沈んでも、稽古場の灯りは消えることがなかった。
汗に濡れた着物を何度も取り替えながら、すずらんはひたすら舞い続ける。
廊下を通る侍女たちは、ふと足を止め、その姿に目を奪われた。
「…あの方、ただの舞姫ではないわね」
「正妻として来られたのも、理由があるのかもしれない」
小声で囁き合いながらも、どこか敬意を滲ませていた。
屋敷の男衆もまた、重たい薪を運びながら横目で彼女を見やり、
「毎日、あれだけやるのか…」と感嘆の息を漏らす。
そんな空気を誰よりも敏感に感じ取っていたのが季昭だった。
廊下の陰から稽古場を見つめると、すずらんの指先から視線の動きまで、全身が必死に生きようとしていることが伝わってくる。
守華として戦場を駆け抜けたあの強さと、今、すずらんとして新しい居場所を掴もうとする健気さ――その両方が入り混じっていた。
「……やっぱり、おまえは強いな」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
季昭の胸の奥に、不思議な安堵と誇りが芽生えていた。
すずらんが選んだ道は、決して間違っていない――そう信じられたからだ。




