70.私の名は、すずらん
半年前のこと。
陽月国に滞在していた季昭に、守華は言った。
「私を奪うなら、今奪って」
その言葉と共に、彩国へ連れてきてもらったのだ。
季昭は、蘭明のことや守華が抱える事情を一切問いただすことはなかった。
ただ、守華は蘭明という存在が心の中にあることだけは、伝えてあった。
季昭は決して愚かではない。きっと、守華の心にある何かを察してくれているのだろう。
彩国に来て間もない頃、元気を失っていた守華を気にかけてくれた季昭は、町へと連れ出してくれた。
陽月国とは異なる街並み。
陽月国は祭りの出店のように賑やかに屋台が並んでいたが、彩国の街は一軒一軒がしっかりとした店構えで、まるで洗練された商店街のようだった。
その道を歩いていると、前方から煌びやかな着物を着崩した女性が歩いてきた。
一目で、私の視線はその女性に釘付けになった。
「ねぇ、季昭。あの女性は?」
思わず指をさすと、季昭も守華の視線の先に目を向けた。
「あぁ、あれは踊り手の神無月だ」
「踊り手?」
「そう。神無月は彩国の踊り手ナンバー1だ。ナンバー1ともなれば、道を歩けばみんな自然と道を譲り、まるで花道ができるようなものさ」
「そんなに?」
「そうだ。踊り手ナンバー1の地位は、女性にとって誰もが憧れる存在だ。皇后、公主に次ぐ、事実上の三番目と言ってもいい」
「へぇ…そんなにすごいんだ.....」
その女性の立ち振る舞い、歩くたびに揺れる着物の裾、指先のしなやかな動き──
すべてが優雅で、力強く、美しかった。
守華は無意識に息を呑み、心の奥が熱くなるのを感じた。
季昭が横で微笑む。
「興味を持ったか?」
「……えぇ。すごく惹かれるわ」
その時だった。
「あら、これは季昭将軍ではありませんか」
前方から歩いてきた神無月が、季昭の姿に気づき、優雅に近寄ってくる。
近づいてきてもその煌びやかさ、立ち振る舞いのすべてに、思わず守華の目は釘付けになった。
さすが、彩国第一将軍――その名を知らぬ者はいないだろうと、季昭の背中を見つめながら私は思った。
「よぉ、神無月。これからお仕事か?」
「はい、陛下にお呼びがかかっております」
一つ一つの仕草、一言一言に、なぜか心が惹かれてしまう。
その気品は、公主や姫君たちとは比べものにならない。
守華でさえ、その品格と美しさに自然と心を奪われていた。
(あ、夏翠、ごめん……)
守華は無意識に心の中で、夏翠と比べてしまったことに気づく。
気がつけば、守華は季昭との会話そっちのけで、神無月から目が離せなくなっていた。
「季昭将軍、そちらのかたは?」
突然の問いかけに、守華に目を向ける神無月。
その視線の鋭さ、しかし柔らかい微笑に、守華の胸は高鳴り、思わずドキドキしてしまう。
「あぁ、彼女は俺の妻になる者だ。よろしくな」
守華は深く一礼した。
神無月は微笑みを返し、軽やかに頭を下げる。その笑顔には、威圧も嫉妬もなく、ただ優雅さと品格だけが宿っていた。
守華は、その瞬間、彩国の踊り手ナンバー1である神無月の存在の大きさを、身をもって知るのだった。
神無月の去っていく背中を、守華はしばらく見つめ続けた。その憧れと刺激が、守華の中の何かを目覚めさせる。
その余韻に浸りながら、思わず口を開く。
「ねぇ、季昭」
「ん?」
季昭が振り返り、守華を見た。
「私も、踊り手になりたい」
「え?」
守華は真剣な眼差しで季昭を見つめる。
「私には、無理かしら…」
歩き出す季昭の後ろを、守華は必死で追いかけた。
「やりたいなら、やってみればいい。総指揮官まで務めたんだ。おまえには、まだ見ぬ可能性がある。彩国で、それを思う存分試してみろ。」
「季昭……」
守華の唇が、ほんの少し笑みを描く。
陽月国を出てから、こんなに自然に笑ったことはなかった。
その微かな笑顔も、季昭は見逃さない。
「まぁ、ナンバー1になった頃には、シワシワのお婆ちゃんになってるかもしれないな」
そう言って、少し嫌らしく笑いながら先に走り出す季昭。
「なによ、それー!!」
守華も笑いながら、必死にその背中を追いかけた。
踊り手として、そして彩国での女性として――新しい守華が芽吹き始めたのだ。
少し走ったあと、季昭はようやく立ち止まった。
「まぁ、真剣な話さ。この彩国では、守華とは名乗らないほうが無難だな」
「なんで?」
季昭は少し息を整えながら言った。
「一応、守華は陽月国の総指揮官も務めてたんだぜ?陽月国の女総指揮官、守華の名はこの彩国でもすでに知れ渡っている。しかも、彩国を破った張本人だ。ここには偉特も頭のキレる岳葉もな。和平共和を結んだとはいえ、敵国の総指揮官が彩国に、しかもこの俺の屋敷にいるなんて……何を突っ込まれるか分からない」
「……あっ、そうよね。全然考えてなかった。ごめんなさい」
そうだ。ここには私のことを知る将軍たちがいる。
偉特と岳葉は私の顔を知っている。
蘭明のことに心を奪われていて、そんなことはすっかり忘れていた。
季昭は軽く笑みを浮かべながら続ける。
「守華が落ち着いた頃に話そうと思っていたが、踊り手を目指すっていうし、ちょうどいいタイミングだと思ったんだ。踊り手には芸名を持つ者も多い。だから、守華も新しい名を……」
新しい名か……
19年間、守華として生きてきた。
でも、ここで生まれ変わるのも悪くない。
名前を変えれば、蘭明の耳にも届かないはずだ。
守華は周囲を見渡す。
目に留まったのは、一枚の絵だった。
「すずらん……」
小さく、自然に口をついて出た。
「え?」
季昭が聞き返す。
すずらん――花言葉は、【再び幸せが訪れるように】。
その意味を胸に、守華は季昭の目をまっすぐ見据え、堂々と告げた。
「私の名は、すずらん」




