69.彩国の舞姫
愛する人と共に生きたい──
その願いは、あなたの命を奪うことになる。
だから私は、別れを選んだ。
せめて願うのは、ただひとつ。
あなたに再び、幸せが訪れますように......
その祈りを胸に、私は“すずらん”として生きる。
午前中にぱらついていた雨はすっかり止み、紫陽花の大きな葉に残った雫が、真夏の陽射しを受けてきらきらと煌めいていた。滴はまるで宝石のように青空を映し返し、庭園全体を幻想的に彩っている。
紫陽花が咲き乱れるその庭園の中央には、広々とした大きな敷物が敷かれ、その周りを大臣や将軍たちが取り囲んでいた。正面、ひときわ高い机の上には、威厳に満ちた陛下が静かに腰を下ろしている。
敷物の上に姿を現したのは、一人の舞姫。
目尻には深紅のライナーが鋭く伸び、瞳を妖艶に縁どる。まぶたを彩る赤の影と、艶やかな紅を引いた唇が、彼女の存在をさらに際立たせていた。
着物はわずかに着崩され、上品さの奥に潜む艶やかさを匂わせる。その佇まいからは、気品と色香が絶妙に混ざり合い、ひと目で人々を惹きつけてやまない。
舞が始まると、どれほど賑わっていた場であっても、空気はたちまち静まり返る。
ひと振りの袖、一歩の足さばき、そのすべてが観る者の心を絡め取り、夢の世界へと誘い込むのだ。
舞い終わった瞬間、庭園には拍手と歓声が一斉に響き渡った。
人々は総立ちとなり、口々に賛辞を送る。
「何度見ても心奪われる…さすがは彩国随一の舞姫、すずらんよ!」
舞を終えたすずらんは、ゆるやかに歩みを進め、陛下の御前へと進み出た。
敷物の端に膝を折り、正座の姿勢をとると、すっと頭を床に垂れ、深い感謝の意を示す。
「有り難きお言葉。このすずらん、いついかなる時も、陛下のために舞い続けましょう」
その凛とした声に、陛下は満足げに目を細め、何度もゆっくりと頷いた。
「……うむ。――季昭」
「はっ!」
名を呼ばれた季昭が姿勢を正し、低く返事をする。
陛下は穏やかな笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「そなたが羨ましいぞ。このように見事で気高い女性を妻に迎えられるとは」
その言葉に、場の空気が和らぎ、笑いがこぼれる。
季昭は恭しく一礼し、ふとすずらんに視線を向けた。
すずらんも静かに口角を上げ、瞳に柔らかな光を宿して季昭を見つめ返す。
二人の間に交わされた一瞬の微笑は、誰の目にも確かな絆を感じさせた。
「すずらん様、今日も本当に素敵に舞っていらっしゃいましたね。私も、すずらん様のように舞えるよう、もっとお稽古に励まなくては」
そう言いながら、ウタはすずらんの後ろから荷物を抱えて付いてくる。
まだ9歳のウタは、すずらんの付き人兼侍女であり、同時に踊り手を志す弟子でもあった。
すずらんが歩を進めると、周囲の人々は自然と道をあけ、まるで花道のように彼女の周りが開かれていく。
言うなれば、庭園の中に咲く花のような存在──花魁の道中のような圧倒的な存在感を放っていた。
踊り手であり花魁ではないにもかかわらず、その気配が人々をそうさせずにはいられなかったのだ。
「あなたは、いつも道をあけないのね」
人々が道を譲る中、ただ一人、頑なにその場を譲らない者がいた。
「季昭」
道の真ん中に背を向けて立っていた季昭が、ふと振り返る。
「ハハハハ…どけるわけないだろ。今日も見事だったな」
二人は自然に並んで歩き、ウタはその後ろを小さな足でトコトコとついていく。
「私がやらかすわけないでしょうが」
「一度でいいから、やらかすところを見てみたいものだな」
「そうやって、私を笑い者にしたいだけでしょ?」
すずらんの言葉に、季昭はくすっと笑いながらも、思わずバレたか、といった表情ですずらんを見返す。
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
季昭の屋敷に足を踏み入れると、すれ違う使用人たちが必ず声を揃えて挨拶する。
そのたびに、すずらんは柔らかな笑みを浮かべて答えた。
「ただいま」
屋敷の中に、ふたりだけの穏やかな空気が流れる。
「今日、このあと予定はない。久しぶりに一緒にご飯でも食べるか?」
「いいわよ。でも、その前にちょっと着替えさせてね」
「ハハハハ…おまえが日々惑わすやつらに、屋敷の中のすずらんを見せてやりたいくらいだ」
「なによ、もう!」
頬を膨らませるすすらんだ。
すずらんは部屋に戻ると、そのままベッドに飛び込んだ。
「すずらん様、お着替えの準備などをしてまいりますね」
「わかったわ。お願いね」
ウタが静かに部屋を出ていくと、扉が閉まる音だけが残った。
「はぁ―――」
思わず大きくため息をつく。
肩に溜まった緊張と、舞い終えた後の昂ぶりが、一気に静まっていくのを感じた。
ここは彩国──。
20歳にしてこの国の第一将軍にまで登り詰め、四年間その座を揺るがず守る男、季昭の屋敷。
そして私は、彩国踊り手No.1、“すずらん”。
この国で踊り手No.1の称号を持つことは、誰もが羨む女としての絶対的地位を意味する。
伝説と呼ばれるその称号を、私はわずか半年で手に入れたのだ。
そして今、季昭の正妻──。
だが半年前までの私は……
守華だった。




