68.さらば、陽月国
桜音亭に戻ると、小心はすでにそこに立っていた。
守華の荷物はすでに昨日のうちにまとめられている。小心はその前で、守華を待っていたように見えた。
「小心…」
守華はかすれた声で、小心の背中に向かって名前を呼ぶ。
「守華さま…これは…」
小心の声は涙で震えていた。
守華はゆっくりと歩み寄る。胸の奥で、離れる決意と胸の痛みが絡み合う。
「小心、私、ここにはもういられない。行かなきゃいけない場所があるの」
その声には迷いも弱さもない。ただ、覚悟が滲んでいた。
(ごめんね、小心。嘘をつくことになるけれど…許してほしい)
「行かなきゃいけない場所…?」
守華の瞳は真っ直ぐ前を見据える。
「そう。妖石のことはまだ終わっていない。だから、私が確実に消さないと…」
小心は必死に言葉を探す。
「でも…守華さま…」
守華は小心の肩に手を置く。
「蘭明には絶対に内緒よ。蘭明はこの国の皇子。長く陽月国から離れることは許されない。分かるわね?小心」
小心は泣きながらもうなずく。その瞳には、忠誠と守りたい想いが溢れていた。
「では、私も守華さまと一緒に行きます」
小心の決意が響く。
守華はそっと首を振った。
「ありがとう…でも、これは私一人で行くしかない。あなたまで危険に巻き込みたくないの」
守華は小心の手を握り、真っ直ぐ小心の目を見つめて言った。
「それに小心…元々は蘭明に仕えていた侍女よね。だから、私がここを離れたあとも、蘭明に仕えて支えてあげてほしいの」
小心は少し迷いながらも答える。
「でも、私は今はもう守華さまに仕える侍女です。私…邪魔になりますか?」
守華はすぐに首を振った。
「そんなことない!小心がそばにいてくれたから、私は今ここに立てている。小心は私が最初に心を許せた友達でもあるのよ」
小心は涙をこらえきれず、こくんと頷く。
「でもね…私が蘭明の近くにいられない分、どうか小心が私の代わりに蘭明を見守ってあげて。お願い…私からの頼みよ。聞いてくれる?」
「は…はい」
小心の声は小さく震えていたが、決意がこもっている。
守華はそっと小心を抱きしめた。
「本当に、今までずっと私のそばにいてくれてありがとう。心から…感謝してる」
小心も守華を強く抱き返す。二人の間には、言葉以上の信頼と絆が静かに流れた。
蘭明には会わずに去るつもりだ。
会ってしまったら、この決断が揺らいでしまいそうで…。
今日は運良く、一日中蘭明は屋敷にいない。
守華はゆっくりと屋敷を歩きながら、これまでの思い出を胸に刻む。
今回こそ、もうここには戻らない。
一度は日本に戻るために別れを告げたけれど、今回の別れは前とは違う。
本当は、この陽月国を離れたくない。
みんなと離れたくない。
蘭明のそばにいたい…。
ドラマでは、好きな人と離れるシーンを見て「本当のことを言って、二人で解決しなさいよ!」って思っていた。
でも今、この立場になってよく分かる。
自分のせいで蘭明が死ぬかもしれない。
私がいなければ、生き延びられるかもしれない。
そんなこと、蘭明に言えるはずがない。
思い出が詰まった場所――桜音亭の屋根の上。
夕日が、まるで悲しんでいるかのように空を染める。
いや、私が悲しいからそう見えるのかもしれない。
ここは、私の弱さをさらけ出せる特等席。
蘭明と二人で見た月は、いつもよりずっと美しかった。
涙を何度も流した場所。
私が蘭明に「好き」と告げた場所。
蘭明が私を受け入れてくれた場所。
―――――――――――――――――――――
20歳の誕生日も、この桜の木の下で迎えると思っていた。
19歳の誕生日は、蘭明からこの木の下で蘭の簪をもらった。
私の宝物。これは、私が持っていくわね。
少しくらいは、いいよね?
桜音亭の桜の木に触れ、守華は心の中でつぶやく。
「この桜も、もう見れないのね」
おでこを木に押し当て、目を閉じる。
少しして離し、深呼吸する。
「よし、行こう」
守華は覚悟を決め、振り返り歩き出そうとした――その時、目の前に息を切らした蘭明の姿があった。
「どうして、いるの…?」
かすかに震える声で、守華はそうつぶやいた。
「どうして…?それは俺の“どうして”だ」
蘭明は怒りと困惑が入り混じった表情で、守華にどんどん近づく。
「どういうことだよ。父上には別れを告げたのに、俺には何も言わないつもりか?」
守華は黙ったまま、目をそらす。
「守華の帰る場所は、ここじゃないのか?」
「……はぁ」
守華は大きく息をつき、肩の力を抜く。
その目は冷たく光り、蘭明を真っ直ぐに見据える。
「私はずっと妖石のことだけを考えてきた。
その使命を終えた今、もう演じるのは疲れたの。
私の目的は妖石を見つけて消し去ること。もうやり遂げたから、ここには用がないの」
「え、え……?」
蘭明の声は震える。信じられない、という表情。
「そう、妖石のためにあなたに近づいたのよ。
でも、妖石が消えた今、蘭明も用済みってこと」
守華は涙を必死に堪えて、強気に見せていた。
「じゃあ…『私を好きだ』って言ったのは?」
「本気にしないでよ、笑えるわ」
守華は鼻で軽く笑う。
「まぁ、全くなかったわけじゃないけど、あれは一緒にいたから情が移っただけ。
妖石が消えた今、あなたへの気持ちなんて、もう消えたの。
最初から、本気で好きなんて思ったことはない」
「そんな…本気じゃない?結婚すると言ったじゃないか」
「そんなの居場所が欲しかっただけ。だけど、もう違う居場所を見つけたから用無しよ。」
守華は目をそらし、冷たい沈黙が蘭明を包む。
「私は…最初から騙されてたのか…?」
「騙された?冗談でしょう。
首に刀を当てられ、毒を飲まされそうになったのは私よ。
試しただけと言われても、自分を殺そうとした人を本気で好きになれると思う?
それに、そのとき言ったでしょう?『騙されるほうが悪い』って」
「……」
蘭明は言葉を失い、胸が締めつけられる。
「勘違いしないで。私は何もしていないわ。
好意を抱いたのは、あなた自身よ。
騙されたと思うなら、自分を恨むことね」
「ハハハ…それが…お前の本性か…」
蘭明は震える手で、近くの桜の木に拳を叩きつけた。
その拳からは、血がにじんでいた。
痛みよりも、心の奥底がえぐられるような絶望が、彼の全身を支配していた。
「大切なお母さんの指輪…これも返すわ。荷が重すぎる」
守華はそっと薬指から指輪を外し、蘭明の手をとって、その手のひらに指輪をのせた。
指輪を見つめる蘭明の目に、一瞬の希望が揺れたそのとき——
______パッリーーーーン
大切な大切な、蘭明のお母さんの指輪が、地面に投げつけられ、粉々に砕け散った。
守華の体は思わず反応したが、必死に堪えてその場に立ち尽くす。
「見抜けなかったよ、守華。まんまとやられたな」
蘭明の声には、怒りと悲しみが入り混じり、いつもの優しさは微塵もない。
守華は目をそらし、視線を逸らしたまま背を向ける。
だが、蘭明は手を伸ばし、守華を振り向かせる。
その目の奥には、いつもの優しい笑顔はなく、虎のように鋭く、今にも襲いかかってきそうな烈火のような眼差しがあった。
守華は震える心を押さえつけ、目を逸らすことなく、蘭明を真っ直ぐ睨み返す。
「二度と、私の目の前に現れるな」
その言葉を最後に、蘭明は静かに、しかし重く背を向けて去っていった。
守華はその背中を見つめながら、胸の奥で必死に声を絞り出す。
ごめんね…ごめんね…でも、これしかなかったの…
私は蘭明を守るためにここに来たんだから…
生きて、幸せになって。
私も、蘭明の知らないところでちゃんと生きる…琉璃の分まで…
涙を必死に堪え、心の奥で蘭明の背中に向かって、静かに語りかける守華。
胸は張り裂けそうだけど、それでも、守るための決断だった。
フリーダムに跨り、少し高くなった山の上から、守華は陽月国を静かに見下ろしていた。
遠くに蘭明の屋敷が小さく見える。
ここから眺める景色が、もう二度と蘭明と共に過ごす場所ではないことを告げている。
「これで、本当にお別れね…」
空から白く冷たいものが、静かに降り始めた。
陽月国では降らない雪。
守華の涙の代わりなのか、蘭明の心の声なのか、それともこの決断に悲しむ琉璃の魂の嘆きなのか——。
屋敷に残る小心も、初めての雪に驚きながら手のひらを広げ、ふわりと舞い落ちる雪を受け止める。
空を見上げるその顔には、守華への想いと静かな祈りが宿っていた。
八軒も、白鋭も、星曜も、夏翠も、それぞれの場所で手をかざし、雪を受け止めながら空を見上げる。
そして、桜音亭の屋根に立つ蘭明も、手のひらに雪を受け、空を見上げる。
胸の奥で、守華がもうここにはいないことを噛みしめながら——。
「守華……しゅかーーー!!」
もう陽月国にはいないはずの守華の名を、必死に、震える声で叫ぶ。
その声は雪に吸い込まれ、静かに降り注ぐ白の世界に溶けていった。
陽月国の街に灯る提灯の明かりが、雪の白さに反射してゆらめき、幻想的な景色を描き出していた。
あまりにも綺麗で、目の前の光景は夢のようなのに、守華の視界は涙で滲んでいく。
——今日で泣くのは最後にする。
——また、強い自分に戻るから。
——だから今日だけは、どうか許して……。
その想いを胸に抱きながら、守華は堪えきれず、その場にしゃがみ込み、嗚咽を漏らした。
息が詰まるほどに苦しくて、
胸が裂けそうで、
「助けて」と叫びたいほど孤独で、
弱い自分を抱きしめてほしくて、
今すぐにでも蘭明の腕に飛び込みたくて——。
堰を切ったように涙があふれ、守華は震える拳で自分の胸を叩いた。
ひらひらと、雪が舞う。
冷たく降り続く雪は、守華の涙と同じように止まらない。
やがて雪は髪や肩を覆い、頭の上にも静かに積もっていった。
そのとき——。
「バサッ……」
音とともに、頭上から雪が消えた。
大きな影が守華を包み込む。
見上げれば、季昭が自分のマントを広げ、しゃがみ込む守華を覆ってくれていた。
「……気が済むまで泣け。俺がつきあってやる」
短い言葉が、胸の奥に深く響いた。
守華は震える手で涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。
「……ありがとう、季昭。もう大丈夫。行こう」
フリーダムに跨り、前を進む季昭の背を追う。
ただ、その歩みは重く、振り切れぬ想いが胸に絡みついていた。
——そのとき。
「しゅかーーー!!」
確かに、蘭明の声が聞こえた気がした。
守華は思わずフリーダムを止め、振り返る。
けれど、雪舞う闇の中には誰もいない。
ただ白い景色が広がり、すべてを飲み込んでいく。
「……さよなら、陽月国。さよなら、蘭明……」
かすれた声で呟き、守華はもう一度前を向いた。
やがて二頭の馬は闇に溶け、残された足跡も、しんしんと降り続く雪に覆われ、静かに消えていった。
——【第二章へ続く】




