66.流れる涙、灯る想い
妖石については、伝説に過ぎないと噂を流し、実際には存在しないものとして世間に広めた。
そのおかげで、妖石の話は自然と人々の記憶から薄れていった。
そして、守華の腰にあったアザも、日を追うごとに徐々に目立たなくなっていった。
妖石が消えたからなのか――
それとも、陽月国に残ると決めたからなのか――
理由は定かではない。
だが、もうそれがどうであれ、守華にとっては関係のないことだった。
唯一、確かに残ったのは、守華と蘭明の足首にあるアンクレットだけ。
妖石はそこから抜け去ったものの、アンクレットは切れることなく、今も二人の足首をつなぎ続けていた。
二人のペアルックとして、無理に外すこともせず、そのままにしておいたのだった。
久しぶりに町に出る蘭明と守華。
それについていくのは八軒と琉璃。
町は相変わらず賑やかで、人々の活気にあふれていた。
両脇には提灯がずらりと並び、日本でいう祭りのように出店が立ち並ぶ。
その雰囲気に、守華の心も自然と弾んでいた。
今では、守華も「勝利の女神さま」や「蘭皇の正妃」として認められているため、安易に町へ出ることはできない。
だからこそ、久々に訪れた町の景色が、特別に感じられたのだ。
蘭明と八軒は少し先を歩き、守華と琉璃はその後ろに並んで歩いていた。
「守華さま、この簪、綺麗ですね」
琉璃が、簪を売るお店の前で珍しく立ち止まった。
「本当ね、綺麗」
琉璃は普段、侍衛として守華に仕えているため、着飾ることはほとんどない。
以前、八軒に恋心を抱いているとわかった守華は、琉璃に手持ちの鏡をプレゼントした。
「自分のこともちゃんと見なさい」という意味で。
しかし琉璃は、帯の中に鏡を忍ばせながらも、自らを飾ろうとはしなかった。
「守華さまに似合うのではないですか?」
「私は蘭明からもらったこの簪だけでいいの」
守華は、手にしている蘭の簪をそっと触れながら答えた。
「それより琉璃、あなたが似合うと思うわ。鼻筋が通ってスーッと目、すごく綺麗な顔なのにいつも着飾らないで勿体無い。」
「そんな、私が着飾るなんて…」
琉璃が照れながら小さく言う。
「琉璃が着飾ったら、他の男が見逃すはずないわねー。モテまくりよ!」
守華はわざと八軒に聞こえるように大声で言った。
八軒の足が一瞬止まるのが、守華には手に取るようにわかった。
すかさず守華は、にやりと笑いながら琉璃に言った。
「琉璃、この簪が気に入ったのね!すごくいいと思うわ」
そう言いながら簪を手に取り、わざと八軒に見せつけるように琉璃の頭に軽く当ててみせた。
「いいんです、守華さま。私は守華さまにお似合いだと思って言っただけなので」
琉璃は顔を少し赤らめながら答える。
「あら、そう。絶対、琉璃に似合うと思ったのになー」
守華は簪を置き、にやにやしながら歩き出した。
「八軒、どうした?」
足を止めたままの八軒に、蘭明が声をかける。
「いえ、あっ、すぐに追いつきますので、蘭皇、先に行っててください」
蘭明と追いついた守華と琉璃は、先に進む。
八軒が簪を買いにいったと分かった守華は一人でニヤニヤしていた。
守華は大好物のさんざし飴を手に、蘭明に買ってもらいながら歩いていた。
「なんだか、まるでダブルデートみたいね」
「ダブルデート?」
蘭明が首をかしげる。
「そうよ!好き同士のカップルが、一緒に町を歩いたり、遊んだりすることのこと」
後ろを歩く八軒と琉璃の楽しげな様子を、二人は微笑みながら見つめた。
「あ〜、なるほどな」
「八軒も男なんだから、ちゃんと気持ち伝えればいいのに。見てるこっちがモヤモヤするわ」
「まぁ、八軒は女の子相手だと意外と度胸がないからな」
「そんなんじゃ、琉璃が誰かに取られちゃって後悔することになるわよ」
「心配するな。二人のことは八軒に任せておけ。何かしら考えてるだろう」
「ならいいんだけど…」
周りから見れば、まるで恋人同士の二組のペアに見えるのに、守華の胸はどこかもどかしさでいっぱいだった。
でも、琉璃が幸せそうに笑っているなら、それでいい――守華はそう思った。
日が傾き始め、蘭明が後ろの守華と琉璃を振り返る。
「日も落ちてきたな。そろそろ帰ろうか」
「うん、そうだね」
守華も頷き、蘭明の屋敷へ向かって歩き出す。
来た時と同じように、蘭明と八軒が先を歩き、守華と琉璃は少し距離を置いて後ろを歩く。
人混みが多く、二組の差は少しずつ広がっていった。
そんな中、守華は背後から突き刺すような冷たい殺気を感じ、咄嗟に振り向く。
目に飛び込んできたのは、琉璃の背中だった。
「無観様の仇……!」
琉璃の前に立つのは――仁。
「守華さま、逃げ……て!」
琉璃がその場に崩れ落ちる。
お腹から血が流れ出す。守華は両手で必死に押さえ、手がみるみる赤く染まっていった。
「琉璃!琉璃ーーーー!」
守華の叫び声に、蘭明と八軒が駆け寄る。
そして、仁の存在に気づいた。
「仁、生きていたのか……!」
八軒が一閃、仁を仕留める。
仁は倒れ込み、
「守華を狙うつもりが……その女はもう助からぬ。確実に仕留めるため、刃には猛毒を塗った……守華を恨むのだな……」
そのまま息絶える仁。
八軒はすぐさま琉璃を抱き寄せ、蘭明も膝をつき毒の回りを遅らせようと指圧する。
「蘭皇、ありがとうございます。ただ……毒は既に回っており、間に合わないでしょう」
意識が薄れていく琉璃。
「琉璃!しっかりしろ!こんなので死ぬな!」
必死に呼びかける八軒。
琉璃は微笑み、守華を見つめる。
「泣かない守華さまが、私のために……泣いてくださるのですか?」
「何言ってるの!泣くわよ!いくらでも泣いてあげるから、死なないで!」
守華は涙を止められず、琉璃の手を強く握る。
「守華さま、私は守華さまに助けられたときから、この命を守華さまのために……と思っておりました。こうして守華さまを守れたこと、誇りに思います。守華さまに出会い、閉ざされていた私の人生が一気に明るくなりました」
「ダメよ、琉璃。まだ私を守らなきゃ。それに、小心と三人でネモフィラのところにピクニックに行くって約束したじゃない!」
「守華さまはもう強いです。私がいなくても大丈夫です……ネモフィラ、綺麗でしたね。そして、守華さまに教わったクッキーも忘れません」
琉璃の瞳がゆっくり閉じられる。
「琉璃!琉璃!!」
守華は泣き喚き、周囲に野次馬が集まる。
その瞬間、琉璃が力を振り絞り目を開ける。
「八軒……」
手を伸ばし、頬に触れる。八軒の涙が琉璃の顔に落ちる。
「琉璃……」
八軒は先ほど買った簪を取り出し、琉璃の髪にそっと差し込む。
「綺麗だ。琉璃にとても似合っている」
「八軒……」
「琉璃、死ぬな!まだ伝えたいことが……」
琉璃は微笑む。
八軒は涙を浮かべながらも、琉璃に向かって真っ直ぐ笑みを向けた。
「琉璃……私は、出会ったときからずっと愛していた。今まで愛した女性は、琉璃だけだ」
琉璃は微笑み、涙を流しながら答える。
「やっと言ってくれたのね。八軒……私も、この人生で愛したのはあなただけよ」
「琉璃……」
八軒は言葉を待たず、そっと琉璃の唇に自分の唇を重ねた。
その隣で、守華はただ涙を流し続けていた。
そして、八軒が唇を離した瞬間――
琉璃は静かに笑みを浮かべ、そのまま息を引き取った。
その美しい顔を、涙を止められず見つめる八軒。
「綺麗だ……琉璃。私は、いつまでも琉璃を愛している」
「琉璃ーーーーーーーーー!」
守華は取り乱し、声を張り上げた。
八軒はそっと琉璃を抱き上げ、ゆっくりと屋敷へと歩き出す。
蘭明も取り乱す守華を優しく抱き寄せ、二人で屋敷へと向かった。
琉璃の葬儀が静かに終わり、墓前には守華、蘭明、八軒、小心、白鋭が並んでいた。
守華と小心はそっとお花を手向ける。
小心は涙で顔を濡らしていたが、守華は悲しみが深く通り過ぎ、もはや涙すら出ないようだった。
八軒は、琉璃がいつも身につけていた、守華が作った香り袋を塔婆に結びつける。
「守華さま」
八軒は守華の方に向き、そっと手を差し出した。
泣きすぎて目が腫れ上がった守華は、差し出された手の上に置かれたものをじっと見つめる。
「これは……琉璃がいつも離さず持っていた、守華さまからの手鏡です。琉璃は守華さまからもらったとき、とても嬉しそうに私に自慢していました。自分の顔なんてじっくり見ないから恥ずかしいと言いながらも、何度もその鏡で自分を見ていました。この鏡を、琉璃の形見として持っていてくれませんか?」
「いいの?」
「はい。私には琉璃からもらった香り袋と、小さい頃から持っていた琉璃の短剣があります。ですので、どうぞ守華さまに」
守華は静かにうなずき、八軒の手から鏡を受け取った。
その手の温もりと、鏡に込められた琉璃の想いを感じながら、守華はそっと目を閉じた。
そして、守華は鏡を胸に抱きしめる。
かすかな涙が頬を伝い落ちる。
それは悲しみだけではなく、琉璃と過ごした日々の温もり、そして愛の記憶が胸に溢れた涙だった。
「琉璃……ありがとう……」
守華の声はかすかに震え、深く息を吐くと同時に、心の奥底に光が差し込むような感覚があった。
悲しみの中に、琉璃との絆と想いが、確かに守華の心に残っていることを感じながら......
一番悲しいのは、私じゃない……。
一番苦しいのも、私じゃない……。
きっと、八軒が一番、悲しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうなのに。
愛する人を失う怖さは、私も知っている。
耐えられないほど胸が痛くて、どうしようもなくて、誰にもぶつけられなくて……。
もし、私がもっと早く後ろの殺気に気づいていたら……
琉璃は刀を抜く間もなく、私を守るために体を張らなくてもよかったのに。
みんなを守るために鍛えてきたはずなのに、
結果として、私が琉璃を危険に晒してしまった。
そう、私が……。
琉璃の笑った顔が浮かぶ。
ちょっと照れくさそうに、お茶目に笑うあの顔。
普段は強そうに見えるのに、実はかわいくて、愛らしくて。
八軒のことが大好きで、母や弟、妹の面倒もよく見る家族思い。
曲がったことが大嫌いで、正義感が強くて……
そんな琉璃を……私が……。
琉璃が亡くなってから、守華は毎日のように桜音亭の屋根に登っていた。
母が亡くなったときは、病気だったからか、少し心の準備ができていた。
でも、いつも隣にいた大切な人が突然いなくなる――その喪失感は、想像を絶するものだった。
心の中にぽっかり穴が空いたようで、何をしても、どこにいても、その空虚がつきまとう。
「私だけ、蘭明と結婚して幸せになってもいいのだろうか……」
「琉璃と八軒を離してしまった私に、そんな権利があるのだろうか……」
後ろから、守華の肩にそっと暖かい羽織がかけられた。
振り返ると、そこには蘭明が立っていた。
この数日間、蘭明は守華のそばには寄らず、遠くから見守るだけだった。
でも今日は違った。蘭明は静かに膝を下ろし、守華の隣に腰を下ろした。
「さすがに陽月国も、寒くなってきたな」
静かな夜の空気に、蘭明の声だけが響く。
「……」
守華は言葉を返せず、ただ俯く。
「守華、自分を責めるな。琉璃を思うなら、自分を見失うな」
「……自分を責めないと、息をすることすらできない!」
守華は振り向き、涙で濡れた顔を歪めて大声を上げた。
「私がもっと早く後ろに気付いていれば、蘭明たちと離れずに、もっと近くにいれば……私が琉璃を殺したんだ……!」
蘭明は何も言わず、ただ守華を強く抱き寄せる。
もう出ないと思っていた涙が、止めどなく溢れ出す。
ずっと心の中で繰り返してきた後悔の言葉を、初めて声に出して叫んだ守華。
「自分を責めないと息ができないというなら……守華、私を責めろ。私が守華と琉璃をあの日、町に連れて行かなければ……私が後ろを歩いていれば……だから、私を責めろ!気が済むまで、私に当たれ!」
守華は泣きながら、蘭明の胸を叩き続ける。
それでも蘭明は、守華の怒りも悲しみも、すべて受け止めたまま、叩かせた。
ずっと眠れていなかった守華は、泣きつかれたのか少し気が楽になったように、ふっと蘭明の胸に倒れ込む。
蘭明はそんな守華を、優しく抱きかかえ、そのまま自分の布団へと連れて行った。
琉璃が亡くなってから、ひと月が過ぎようとしていた。
年末の空気が、どこかせわしなくも、静かに町を包む。
去年は蘭明と一緒に、光のランタンを夜空へと飛ばした――あの温かい思い出が、胸に残る。
今年もまた、年の最後を飾る祭りの灯が町を彩り始めていた。
八軒は、琉璃が亡くなって以来、一日も休むことなく、蘭明の傍らで侍衛を務めている。
きっと、何かに打ち込んでいなければ、自分を保てないのかもしれない。
小心と白鋭も、変わらず蘭明に仕え、日々を送っている。
みんな、それぞれ、琉璃の死を胸に抱きながらも、日常を取り戻そうとしていた――守華を除いては。
守華だけは、心ここにあらず。
桜音亭の一室に閉じこもり、外の空気に触れることさえ拒んでいる。
守華自身も分かっている。
このままでは、心も体も蝕まれてしまうと。
それでも、足は桜音亭の扉を越えようとしない。
「守華さま」
外から、八軒の柔らかな声が響いた。
「八軒……?」
守華は、かすかに顔を上げる。
「はい」
「小心、開けて」
「はい」
小心は静かに扉へ歩み寄り、鍵を外す。
扉が開くと、八軒が一歩、守華のいる部屋へと入ってきた。
「守華さま、少しだけ、私に付き合っていただけませんか?」
「私が?」
「はい。ちゃんと蘭皇にも許可はいただいておりますので」
守華は小さくコクンと頷く。
小心がそっと羽織を守華にかけ、八軒と守華は屋敷の扉を静かにくぐり抜けた。
「八軒、どこに行くの?」
「琉璃を一緒に見送りましょう」
「え……?」
少し先を歩いていた八軒が振り返り、守華に微笑みかける。
その笑顔は、悲しみの中でも少しだけ心を和ませる光のようだった。
町はお祭りの喧騒で活気に溢れ、提灯の灯りが揺れている。
お祭り好きな守華でも、今日は一切楽しむ気分にはなれなかった。
周りの音は、まるで遠くで鳴っているようにしか聞こえない。
それでも、守華は八軒の後ろ姿を追いながら、ただ歩を進める。
八軒が足を止めた先――そこは、灯籠流しの場所だった。
水面に映る光が静かに揺れ、夜風がそっと冬の息を運ぶ。
八軒と守華は、そっと灯籠に火を灯し、川に流すと、静かな水面に小さな光がゆらゆら揺れた。
二人は静かに手を合わせ、琉璃を見送る。
「守華さま、私は一度も琉璃が亡くなったのは守華さまのせいだなんて思ったことはありませんよ」
守華は立ち上がった八軒を、下から見上げる。
「きっと、私も琉璃と同じ立場なら同じことをしていたと思います。それに、もし今後、蘭皇が同じような状況になったら、私も琉璃と同じように蘭皇を守ります。死を軽んじているわけではありません。ただ、守りたい相手を守って命を終えるなら、それは私や琉璃にとっての願いでもあるのです。死を恐れて侍衛なんてやってられません。守華さまも同じ経験がありますよね?」
「八軒……」
守華はきっと、貴愛奈を守ったときのことを八軒が言っているのだろうと思った。
「守華さま、自分を責めないでください。守華さまが琉璃のことで苦しむ姿を見るのは、私や琉璃にとってすごくつらいことです。琉璃を、楽にしてあげましょう、守華さま」
「ごめんなさい……八軒が一番苦しいって分かっているのに……」
「では、守華さま。そう思うのであれば、もう私のことまで苦しめないでください」
下を向いていた守華が、ゆっくりと顔を上げる。
「守華さまが自分を責めるほど、私は苦しみます」
八軒は、先ほど流した灯籠を見つめながら続けた。
「今流した灯籠と一緒に、悲しみも苦しみも流しました。けれど、琉璃を忘れるわけではありません。この人生で愛するのは琉璃だけです。だからこそ、琉璃にバカにされないように、前を向きます。ねぇ、守華さま」
守華は少し笑みを浮かべ、そっと頷いた。
「そうね……こんな私を見たら、琉璃に笑われちゃうわね。八軒、ありがとう。私も今日でちゃんと、琉璃を天国に見送るわ」
「守華さまが前を向く限り、琉璃も安心して天国で笑っていますよ」
水の上を漂う灯籠たちは、悲しみも苦しみも一緒に運んでいく。
そして、琉璃が守ろうとした想い、八軒が抱えてきた痛みも、すべて優しい光に変わって流れていくように見えた。
守華はそっと息を吐く。
涙はまだ頬を伝うけれど、心の奥では少しずつ整理されていく感覚があった。
琉璃はもうここにはいない。でも、その想いは確かに残っている。八軒の言葉のように、守るべきものとして、守華の胸の中で生き続けている。
川面に揺れる光を見つめながら、守華の心にほんの少しだけ風が吹いた。
悲しみは消えないけれど、痛みは少しずつ、希望の光に変わっていく――そんな気がした。
守華は深く息を吸い込み、八軒と並んで川辺に立つ。
流れていく灯籠は、彼女たちの祈りであり、決意の象徴でもあった。
「琉璃、私たちは、あなたの分まで生きていくから……」
小さな声でつぶやき、守華は川面に向かって手を合わせた。
夜空に光る灯籠の光は、星と混ざり合い、静かに川を彩っていた。




