6.陽月国での邂逅
翌朝、まだ太陽が昇りきらぬうち、蘭明たちは兵を従え、陽月国へと戻る道を急いでいた。
先頭を進むのは蘭明、星曜、そして八軒。馬の蹄が乾いた土を打ち、遠くの森や丘陵を越えていく。
日が昇るにつれ、気温がじりじりと上がっていく。
蘭明の胸の中には、昨夜の女のことがちらついていた。
――あの女、大丈夫だろうか?
こんな灼けるような太陽の下で、倒れてはいないか。
血痕があったということは、怪我をしているはず。
誰かにさらわれたりは……していないだろうか。
頭を振り、蘭明は自らの思考を振り払った。
「よせ、あんな女のことを考えてどうする」
どこの誰かも分からぬ、怪しい女。私が気にかける必要はない――
それでも、思考の残滓は完全には消えず、再び頭をぶんぶんと振る蘭明。
その様子を見ていた八軒が、小さな声で問いかける。
「蘭皇、どうかされましたか?先程、頭を振って……」
「なんでもない」
蘭明は平静を装いながらも、少し恥ずかしさを覚えた。
彼は視線を前方に向け、指差す星曜の視線に気づく。
「ねえ、あそこに何か……」
星曜の声に促され、蘭明と八軒はその方向を見る。
その先には――守華が倒れていた。
「お前は……昨日の女だな!」
蘭明はすぐさま馬から下り、守華のもとへ駆け寄る。
「八軒、水を!」
「はっ!」
八軒は慌てて馬へ戻り、水を手にして蘭明へ駆け寄る。
星曜も心配そうに見守る中、蘭明は守華を抱き上げ、頬を軽く叩く。
だが、守華は微動だにせず、目を閉じたままだ。
「水だ、飲め」
蘭明は自らの口に水を含み、躊躇なく守華の唇へと運ぶ。
ゴクン――守華は水を飲む。
「よし……」
少し安堵の息をつく蘭明。
しかし、目はまだ開かない。
再び水を口に含み、同じように唇へ運ぶ。
ゴクン――再び守華は水を飲んだ。
それでも意識は戻らない。
蘭明は八軒、星曜の助けを借り、慎重に守華を抱え上げる。
馬に乗せると、急ぎ足で陽月国へと戻る。
馬上で守華の体重を感じながら、蘭明は心の中で呟いた。
――頼む、生きていてくれ。
土の匂い、馬の蹄の音、陽の光。
すべてが現実を告げていた。
守華は、確かに――この世界に存在しているのだ。
「んー……」
守華の意識がゆっくりと戻る。目を開けると、昨夜倒れていた場所とは明らかに違う空間が広がっていた。
「ここは……?」
薄暗く、冷たい空気が漂う部屋。視界の端に、木の格子が並んでいるのを確認し、思わず息を飲む。
――まさか、牢屋……?
がっかりと肩を落としながらも、守華は声を振り絞った。
「すいませーん!誰かいませんかー!?」
すると遠くから、知らない声が返ってきた。
「目覚めましたか!?おい、蘭皇に知らせてこい」
「はい!」
全く知らない人間が何人か、こちらを見ている。守華は少し戸惑いながらも、勇気を振り絞った。
「ここはどこですか?」
「蘭皇の地下牢です」
「蘭皇……?」
誰だろう。悪い人に捕まっちゃったのだろうか。心臓が高鳴る。
「え?私、殺されるんですか?」
「それは私には分かりません。話すと罰を与えられるので、今、蘭皇が来ます。しばらく待つように」
兵士たちは言うと、そそくさと離れていった。
守華は耳を澄ませると、兵士のぶつぶつ声が聞こえてくる。
「勝利の女神さまだから丁寧に接しないとだよな。牢に入っててもな……」
えっ、言葉が分かる……?
今まで理解できなかったはずの言葉が、自然に頭に入ってくる。守華は少し笑い、ラッキーと心の中でつぶやいた。
「ねー、ちょっとー!勝利の女神って何ー???教えてよー!」
守華は兵士に声をかけてみるが、反応はない。
「勝利の女神?私のこと……?」
「ねー、ねー、ちょっと教えてよー!」
一人で騒いで、照れる守華。
「蘭皇って誰ー?」
「私だ」
突然、木格子の向こうから低く落ち着いた声が響く。
守華はびくっとして、目を丸くした。
一歩下がっていたが、目の前の人物を見上げる。腕を組み、鋭くも整った顔立ちの男。身長は高く、180センチはありそうだ。
「……あなた……私を抱っこしてた……」
守華の声は小さくなる。恥ずかしさに、両手で自分の頬を叩きながら、心を落ち着ける。
「よし!」
守華は一歩近づき、柵に手をかけて、意を決して声を張った。
「ここから出して!」
蘭明は首を傾げ、腕組みのまま答える。
「ダメだ。お前のことを調べないとな。その変な服装も……もし刺客なら……」
親指で守華の首元を指し示す。
――やばい、殺されるの!?
「違うわ!刺客なんかじゃない!私は……あなたから逃げただけ」
「逃げた……」
蘭明はふーんとだけ返す。
守華は顔を下に向け、誤魔化すように小さな笑いをもらす。
「いや、ちょっと用を足しに外に出たら暗くて迷っちゃっただけで……あはははー」
「ほー、道に迷ってあんな遠くで倒れていたとはな」
守華は苦笑いを返す。
「私、ここで殺されるの!?まだ、若いのにそんなのイヤー!」
「よせ、泣いてないのはお見通しだ」
舌打ちしながら、蘭明を睨む守華。
後ろから八軒が前に出ようとするが、蘭明が制止する。
「元気があるようなら大丈夫だな。また逃げられたら困るからな」
そう言い残し、蘭明は足早に去った。
「ちょ、ちょーーーっとーーー!ここから出せーーーーーー!!」
守華は柵越しに叫ぶ。
後に残ったのは、冷たい柵と薄暗い牢の空間。
守華は深くため息をつき、座り込む。
――どうしよう。ここから出られるの……?
体育座りで頭を抱えると、怪我をしていた部分がすでに手当されていることに気づく。
「あ……」
兵士の足音が近づき、二人の男が姿を現す。
一人はベージュの漢服を着て、落ち着いた優しい眼差しを持つ青年。
もう一人は薄い水色の漢服を着て、やんちゃな笑みを浮かべている。
「海皇、あの子が噂の勝利の女神だよ」
「ここの鍵を……」
兵士が鍵を開けると、ベージュの青年は守華の前にしゃがみ、柔らかく笑いかける。
「君が勝利の女神さまだね。こんなところに閉じ込められて、怖かっただろう」
守華はただうなずくしかなかった。
「私は海尭、蘭明と星曜の兄だ」
「俺は星曜!よろしくな!」
やんちゃな青年は手を差し出す。
戸惑いながらも、守華はその手を握った。
二人の笑顔に、守華の胸は少しだけ落ち着く。
「何も食べてないだろう。少しでも食べて」
海尭はそう言い、温かい肉まんを差し出す。
守華は一瞬、警戒する。
――ドラマでは毒入りの食べ物で死んじゃうんだよね……?
だが、海尭は自分で一口食べ、香ばしい匂いを守華に向ける。
「ほら、大丈夫だ。安心して食べて」
守華は安心し、3つの肉まんを一気に食べる。
「美味しかったー、ご馳走様!」
本当に、優しい人たちがいる――。
二人の笑顔に、守華も笑い返す。
「もう大丈夫。危険はないから安心していい」
食べている間、少し離れていた海尭は柔らかく微笑みながら、守華の肩にそっと手を置く。
その手の温もりに、守華は思わず肩の力が抜ける。
「勝利の女神さまって、そんなにすごいの?」
星曜は好奇心いっぱいの目で守華を見上げ、ちょっとやんちゃな笑みを浮かべる。
「だって、あんな光を放って兵士たちを吹き飛ばしたんだろ?」
守華は少し顔を赤らめながらも、苦笑いする。
「いや……そんな大げさな……」
「すぐにでもここから出してあげたいけど……蘭明の屋敷だから無理なんだ。もう少し辛抱できる?」
優しい眼差しの海尭。
「食べ物ももらったし、大丈夫!」
守華は体力を温存しようと、心の中で自分に言い聞かせた。
だが、どこか遠くで、闇の中の黒マント二人組の影が密かに笑っていた。
「ついに、来たか……」
守華の知らぬところで、物語の歯車は静かに、しかし確実に動き始めていた。