58.女総指揮官、出陣す
それからおよそ一月――彩国が動き出したとの連絡が入った。
ついに守華も出陣の時を迎える。
今回は、動きやすさを考え、蘭明の侍衛として着ていた服ではなく、短パン付きの短めの戦装束を選んだ。
白地に黒と赤の刺繍が施され、胸当ても身につけ、帯とマントは鮮やかな赤。
髪は一本にまとめ、剣を腰に携える。
見た目だけで総指揮官としての威圧感が漂う。
ここはかつて蘭明が山賊狩りに向かう際に立っていた場所。
あの時は守華が見送ったが、今回は蘭明が見送る番だ。
兵士の数は山賊狩りの比ではない。単純計算でも十倍、いやもっと多いだろう。
整然と並ぶ兵士たちを、少し高い位置から俯瞰する守華。
「この全員を私が指揮する――」
心の中で言い聞かせる。
一歩でも間違えれば、命が一気に失われる。
守りながら、全てを動かせるだろうか――。
「顔が怖くなっているぞ」
振り向くと、蘭明が立っていた。
「怖いか?」
横に首を振る守華。
「でも……ここにいる者たちが、私の命令で命を落とすかもしれないと思うと……」
「大丈夫だ。ここにいる兵たちは覚悟を持っている。決して死を軽んじているわけではない。むしろ、他よりも生を大事にし、生き抜こうとしている」
蘭明の言葉が、守華の胸の奥に静かに届いた。
蘭明は本当に、兵士たちのことまで考えているんだ。
そう思うと、胸の奥がじんわり温かくなる。
普段は近寄りがたい存在と思われていても、戦が終わるたび、蘭明は亡くなった者の家族に会いに行っていた。戦場よりも、戦が終わった後の方がずっと忙しそうだった。
だから、冷徹に見えても、みんなから愛される理由はこういうところにあるんだ。
私も蘭明のように、兵士たちに寄り添えるだろうか……。
守華は怖い顔で、整列した兵士たちを見渡す。
「守華」
蘭明が静かに呼びかけ、右手を差し伸べる。その手の上に、守華は自然と左手を重ねた。
蘭明はぐっと引き寄せ、守華を抱き寄せる。
「みなのものぉーーーー!」
突然の大声に、場が一瞬で静まる。兵士たちは一斉に、蘭明と守華の方を見た。
「今回の彩国との戦、この勝利の女神がついている。必ずや陽月国は勝利する!勝利の女神、守華を信じ、ついてきてくれるか!?」
「「おーーーーーーーーー!」」
地鳴りのような、圧倒的な声が響き渡る。
その迫力に、守華は思わず目を見開いた。
「ここにいるみんなが守華についてくる。守華もみんなを信じてやれ」
「うん!」
さっきまでの険しい顔は、自然と笑顔に変わった。
「よし!行こう!」
守華がくるりと回ると、マントが大きく舞い上がる。
まるで戦場に咲く一輪の花のように、その姿は周囲の誰よりも凛々しく、圧倒的な存在感を放つ。
蘭明と守華は階段を降りる。
下には八軒、琉璃、そして小心が待っている。
蘭明と星曜は同行できないが、八軒と琉璃は総指揮官の行動に付き従う。
そして、守華の世話役として小心も今回の遠征に加わることになった。
フリーダムの近くまでたどり着くと、蘭明が守華に声をかける。
「無理はするな。何かあったら八軒に言え」
「うん、分かってる。大丈夫、帰りを待っててね」
蘭明の瞳に、わずかに不安と寂しさが宿る。
「それと、無事に勝利して帰ったら、必ず全て話すから」
蘭明が優しい笑顔を守華に向けた。
「分かった」
守華がフリーダムに乗ろうとした瞬間、蘭明が静かに手を握り、体ごと振り向かせた。
マントを広げると、二人は世界から切り離され、外の視線を遮った。
その中で蘭明は守華を引き寄せ、唇を重ねる。
何度も、何度も。戦場の空気と鼓動が混ざり合う中、二人の間に緊張と愛情が渦巻く。
「これは勝利をもたらす口づけだ。心配せず、思い切ってやってこい。私はここで必ず帰りを待っている」
守華は小さく頷き、蘭明の手からマントが離れる。
「八軒!」
「はっ!」
「死んでも守華を守り抜け!」
「はっ!任せてください!」
守華、八軒、琉璃が馬に跨る。小心は琉璃と同じ馬に乗る。
「しゅっぱーーーーーーつ!」
守華の号令とともに、馬たちが一斉に駆け出す。
蹄の音が大地を震わせ、風がマントを翻す。
戦場に向かう総指揮官・守華の瞳には、揺るぎない決意が光っていた。
その背後には、彼女を信じ、見守る蘭明の心が確かにあった。
この戦に勝てば、蘭明との未来が認められる。
絶対に、勝たなければ――
守華は深く息を吸い込む。
背中には総指揮官としての責任がずっしりとのしかかる。
「八軒」
「はっ!」
少し後ろにいた八軒が、自然と守華の隣に並ぶ。
「まだ、彩国の指揮官は分かっていないのか?」
「はい。彩国も移動中のため、正確な情報はまだ入ってきていません」
「そうか……」
心の中で小さくつぶやく。
季昭じゃないといいけど……
たった一度だけ会ったことがあるけれど、直感で分かる。
もし季昭が指揮官なら、私は勝てない――。
蘭明でさえ、季昭の名を聞くと少し不安そうだった。
それほど、季昭は恐るべき将軍だ。
――でも、負けてはいけない。
たとえ相手が季昭でも、策を練り、勝利を掴むしかない。
前回は青岩だったが、今回はその先まで行こうとしていた。
少しでも良浪から彩国は離すために。
良浪は陽月国にとって欠かせない要衝。
彩国もそれを理解しているからこそ、奪おうとしているのだろう。
5日目にして、ついに目的地・周有に到着した。
少し高台になっている場所に守華は自ら天幕を張り、その下の草原には兵士たちのテントが整然と広がる。
守華の天幕には八軒、琉璃、小心、そして各部隊の隊長たちが集まっていた。
「彩国も反対側で野営の準備に入ったようです」
八軒が報告する。
「で、指揮官は分かったか?」
守華が問いかける。
「はい。偉特のようです」
「偉特……前回の龍井ではないのね?」
「はい。龍井は一度敗れているため、もう龍井はおしまいでしょう。前回、首を取らなかっただけでも感謝すべきなのに、すぐに責めてくるとは……さすが彩国ですね。」
「そうよね.....季昭は?季昭はきているの?」
「情報によれば、季昭は現在亜留国との戦を指揮中です」
「よし、ここには来ていないのね」
守華は大きく息をつき、胸を撫で下ろした。
「偉特の情報は?」
「ただいま調べています。明日には判明するかと」
「わかったら、すぐに報告しなさい」
「はい」
「それと、こちらの指揮官が私だと相手に分からないようにする。八軒を指揮官に据えましょう」
「私ですか?」
「ええ。ずっと蘭明の側にいた八軒が指揮をとるのは自然に見えるし、腕も確か。しかも、私が前に出ていないことで彩国に女がいることは秘密にできる」
「承知しました」
守華は心の中で冷静に計算する。
どんな男の将軍相手でも、女という存在は立派な武器になる。
そして、相手が気づかぬうちに恐怖を植え付ける──それが戦での最大の利点だ。
偉特に関する情報はほとんどないまま、戦は始まった。
押しも押されぬ緊迫した状況が続く。
守華は総指揮官であることを悟られぬよう男装し、その目で戦況を見守る。
二度目の戦だが、現代の感覚を持つ守華にとって、この光景はやはり辛い。
だが、戦う兵士たちのために、目をそむけることは決してしない。
流れる赤が増えるたび、心が締め付けられる。
違う国の者であっても、同じ人間だ。
ここには“平和”の文字は存在せず、思いが交錯する戦場の空気に支配されている。
だが、この状況を私は変えてみせる――守華は心を決めた。
「小心」
「はい」
少し後ろにいた小心を呼び寄せる。
「普段着る服、何着か持ってきてたよね?」
「はい、念のために用意しております」
「すぐに着替えられるように、何着か出しておいて」
「はい」
その時、八軒と琉璃が近づいてきた。
「守華さま、どうなさるおつもりですか?」
守華は視線を鋭く前に向ける。
「私が、偉特に直接会ってくる」
「えっ!?」二人の声が思わず大きくなる。
「守華さま、まだ偉特がどんな将軍か情報が入っておりません。一人では危険すぎます」
「一人? そんなこと言ってないわよ、八軒」
ポカンとする八軒の横で、守華は隣の琉璃に腕を絡める。
「八軒、悪いけど、琉璃は借りるわね」
二人は目を見開き、驚きで視線を交わす。
「もちろん、私も守華さまについていきますが…」
「うん、ありがとう」
「では、私も」
「八軒はダメよ。一応、ここでは総指揮官ということになってるし、今回は男が一緒じゃ負けるわ」
守華の意図が読めず、二人は戸惑う。
「偉特の情報が入ってこないのは、たぶん季昭や龍井のように名が知られていないから。確かに情報が少ないとこちらも動きにくい。でも、それを利用するなら、こちらが先に動く方が兵士たちを守れる。女という強みを持つ陽月国だからこそ、私が先手を打たせてもらう――それが今の私の判断よ。」
「止まれ! お前たちは何者だ!」
門番の兵士二人が鋭い目で立ちはだかる。
守華はゆっくりと被っていたフードを外し、天幕の光を受けて顔を上げる。微笑みを浮かべながらも、目の奥には鋭い意思が光っていた。
「私たちは旅の芸人です。彩国の戦があると聞き、近くにおりました。彩国出身でもあり、少しでもお役に立てればと……」
「女に戦は無縁だ。帰れ」
守華は一歩も退かず、声を落ち着かせて続ける。
「いえ、実は相手国に潜入し、情報を得てまいりました。どうか上へお通しいただけませんか?」
兵士二人は一瞬目を見合わせる。
一人が小さくうなずき、渋々奥の野営地へと歩を進める。
数分後、兵士が戻り、守華たちは天幕の奥へ案内された。
周囲よりもひときわ豪華な天幕の中央。そこに堂々とした体格の男が立ち、その周囲を精鋭の兵士たちが固めている。
守華は息を整え、視線を定める――間違いない、あの男こそ偉特だ。
微かに胸の鼓動が早まるが、守華は顔に一切の動揺を出さず、冷静に一歩を踏み出す。
――この瞬間から、勝負は始まる。
三人の女はひざまずき、礼を尽くす。
「お初にお目にかかれて光栄に存じます。私たちは各国を巡る芸者でございます。私は小雪と申します」
守華は顔を上げ、柔らかく微笑みながら名乗った。その後ろには琉璃と小心が控えている。
「ほう、こんな美人が男だらけの野営に現れるとは」
「私たちは元々、彩国出身でございます。戦の報を聞き、近くにおりましたので少しでもお力になれればと……。実は、李昭将軍にもお手伝いしたことがございます」
もちろん、全て嘘だ。しかし守華は計算済みだった。李昭の名を出せば、ここにいない人物でも彩国の者たちは疑わない。さらに、このあまり名を上げていない偉特なら、信じざるを得ないだろう――と。
「あっ、あ〜そういえば聞いたことがあるな。芸人が助言して助けられたとその者たちか!?」
予想通りの反応に、守華は内心でほそく笑う。
李昭は第一将軍と言っていた。彩国では李昭の名前を出せば誰だって疑わないだろう。
そして、そんなに名をあげてないこの偉特は“知ったか”をするだろうっと。
「偉特将軍、失礼します」
一人の男が入ってきた。
守華と目が合う。
その男は戦場には似合わない偉特とは正反対に少し華奢な体つきだった。
「ちょうど良い、岳葉が来たか」
「偉特将軍、この女たちは?」
「旅の芸者だ。彩国出身で、力を貸してくれるという。季昭とも顔見知りらしい」
「ほう、あの季昭将軍とも?」
岳葉は鋭く守華たちを見つめる。直感で分かった――この男が偉特を支えているのだ。見た目は華奢でも、その頭脳は侮れない。
「では――」
岳葉が守華たちに何か言おうとした瞬間、守華は大声を張り上げた。
「将軍さま、急ぎお知らせいたします!本日のお昼、相手国の陽月国にも潜入してまいりました。指揮官は八軒というものです」
「なるほど、蘭皇の右腕だな」
「はい、そう聞いております。しかし今回は蘭皇が不在と油断し、八軒は自由に動いておりました」
「なんだと! なめられておるのか!」
「そして、今夜、夜襲を仕掛けるつもりであることを確認いたしました」
「夜襲だと!?」
「平行線が続くのが面白くないから、と言っておりました」
怒りに顔を紅潮させる偉特。
「だが、なぜお前たちがいる前でそんな作戦を話す?」
岳葉が鋭く突っ込む。しかし守華は涼しい顔のまま、次の一手を見据えていた。
守華は平静を装い、岳葉の目をじっと見据えた。
「なぜ私たちの前で作戦を話したのかは存じません。ただ、八軒は私たち以外の女とも遊んでおりました。作戦が漏れるとは思っていないのではないでしょうか?」
岳葉の眉がぴくりと動く。
「あの蘭皇の右腕と呼ばれる者が、そんなこと……あり得るのか?」
やはり、一筋縄ではいきそうにない。岳葉は守華を鋭く見つめ、答えを待っている。
そのとき――
――――カーン、カーン、カーン
「夜襲だ!夜襲だ!陽月国の夜襲だ!!」
その声に、偉特も岳葉も慌てて天幕の外へ飛び出す。
守華は天幕の出口を見据え、冷静に微笑んだ。
「ナイスタイミングね。八軒の登場、さすがだわ」
小心が少し息を切らしながらつぶやく。
「危なかったですね……」
「私はこんなの初めてで、心臓が飛び出るかと思いましたよ」
守華は小心に向かって優しく言った。
「ごめんね、こんな危険なところに連れてきて」
「いえ、スリルがあって楽しいですよ」
小心は笑みを浮かべる。
「それにしても、あの岳葉は手強い相手ね。偉特は心配しなくて大丈夫。でも、この夜襲で岳葉も少しは私たちを信じてくれるはず……」
外に出る三人。
八軒の顔を知る者は誰もいない。まさかここに八軒が潜んでいるとは、誰も思っていない。
守華はそっと八軒に合図を送り、退却させる。
間もなく、偉特と岳葉が守華たちのもとに戻ってきた。
「小雪、そなたたちの話は本当だったのだな」
守華は微笑みながら答える。
「これで信じていただけましたでしょうか?」
偉特は軽くうなずいた。
「ああ、もちろんだ」
守華はさらに提案する。
「明日も相手国に入り込むことは可能ですが、いかがなさいますか?」
「おお、それはありがたい話だな、岳葉」
偉特が岳葉に確認する。
「まぁ……」
岳葉の返事はどこか慎重で、まだ完全には信用していない様子だ。
しかし、偉特を説得すれば指示を出すのは偉特自身。岳葉はあくまで助言役であり、指示権は持っていない。
岳葉は作戦の立案に長けているが、相手国の動きを事前に把握できる方が、どんな緻密な計画よりも的確だということは、本人も理解している。
だから今の守華の発言に対して、岳葉は反論せず、静かに考え込むだけだった。
ここです!ここから侵入し、横から崩していく――そう聞いております」
彩国、偉特の天幕の中。
守華は地図を指差し、昼間に得た陽月国の作戦を説明する。
「でも、ここから…どうやって?崖しか見えませんが」
岳葉が眉をひそめ、考え込む。
「まさか…」
「はい、岳葉さまのお考えの通り、そのまさかでございます。私も聞いたときは耳を疑いました」
「――あの崖を…」
「遠目には厳しい崖に見えますが、近くで見れば馬でも降りられる斜面です。それに陽月国の馬は鍛えられていますから、あの傾斜も容易いようでございます」
岳葉が息を飲む。
「それが本当なら…こことここに兵を展開し、待機させましょう、偉特将軍」
「ああ、それでよいだろう」
偉特がうなずく。
「では、話がまとまったところで、酒でもおつぎいたしましょうか」
「おお、それはありがたい。酒を持ってこい!」
守華、琉璃、小心が酒を注ぎ回る。
その中で、意外な才能を発揮したのが小心だった。
小心は酔った兵士たちを相手に、自然な笑顔と軽い仕草で話を引き出していた。
日頃から上の者の動向に気を配り、柔軟に動く小心にとっては、こういう役回りはお手のものだった。
しかし守華も琉璃も驚いた。
男たちに甘えながら、巧みに情報を引き出すその姿はまるで女優のようだ。
昨日まで、心臓が飛び出るかと思うほど緊張していた小心が――今や堂々と、舞台の中心に立つかのように振る舞っている。
小心の話によると、偉特は近頃急速に名を上げてきたが、その力は自らのものではなく、若手の成果を横取りしたり、岳葉の助力に依存しているという。
本来ならこの陽月国の指揮は別の者が務めるはずだったが、岳葉を伴うことで譲り受けたらしい。
さらに衝撃の事実――あの岳葉は偉特の実の息子だった。
外見も性格も似ていないため、守華たちは一様に驚きを隠せなかった。
季昭についても、小心は語る。
10代の頃から指揮を執り、20歳で第一将軍にまで昇りつめた天才将軍。
その才能は圧倒的で、誰も彼の横に立てない。
現在は亜留国との戦に赴いているが、終わり次第こちらに合流するという。
守華は心の中で決意を固める。
「季昭が来る前に、勝利を収めなければ――気づかれる前に終わらせる」
小心の巧みな演技によって得られた情報は、勝利への大きな武器となるのだった。
翌日、陽月国は守華の予想どおり、崖の上から降りて横から攻めてきた。
しかし、彩国はすでに構えており、守華の作戦を待ち受けていた。
陽月国の兵に犠牲が出るのは承知の上だったが、それでも兵たちは誰一人として不満を漏らさず、自ら先頭に立つ者も多かった。
守華は、崖を降りたらすぐに退却するよう最小限の被害で済むよう命じていた。
結果、その日の戦いは彩国の優位で終わった。
「小雪よ、本日もそなたのおかげで彩国が有利となった」
「力になれて光栄です」
だが、岳葉は疑問を口にした。
「崖から降りてすぐに退散したのは、なぜだ?」
「相手国だって、無駄に兵を失いたくはありません。崖を下りて彩国の兵が待ち構えていたら、どの国だって退くはずです」
岳葉は何を考えているのか、守華には読み切れなかった。
そこで守華は話題を偉特に振った。
「将軍さま、本日痛手を受けた陽月国は、明日総攻撃に出ると申しておりました。ですが、指揮官の八軒は先頭でやられるのを恐れて、天幕に残るつもりだそうです」
偉特の顔がほころぶ。
「となると、天幕を狙えば陽月国の頭が取れるということか?」
「はい。おそらく八軒さまは酔い潰れて寝ておられるのでは。昨日も今日も、私どもが伺ったときには寝ておられました」
「兵たちは命を削って戦っているというのに、寝ているとは……本当に蘭皇の右腕なのか」
「蘭皇も冷血で人使いが荒いと聞き及んでおります。日々の疲れが八軒に出ているのでしょう。明日、その姿を将軍さまが確認なさるのがよろしいかと」
「わしがか?」
「はい。兵はほとんどおらず、いたとしても数名の見張り兵だけのはずです。陽月国の指揮官の首を取れば、将軍さまも誇らしいでしょう」
偉特は力強く頷いた。
「それは面白い。よし、わしが八軒の首を取ろうではないか」
「偉特将軍、そんなうまい話、本当にあるのでしょうか?」
岳葉が口を挟む。
守華は冷静にその目を見据えた。
「今までこの小雪が教えてくれた通り、陽月国は動いてきた。疑う余地はない。心配なら、岳葉も私について来ればいい」
納得しきれない表情の岳葉を守華はじっと見つめる。
「これで彩国の勝利も、見えてきましたね」
守華はにこりと偉特に微笑みかける。
「小雪のおかげだな。明日の今頃は祝賀の酒で乾杯だ」
偉特の目も笑っていた。
――朝方、守華たちは陽月国の陣営に戻っていた。
今日、全てを決める。
そうしなければ、季昭が到着してしまう。
大丈夫。岳葉はまだ少し疑っているが、父である偉特には逆らえない。必ず、この天幕にやって来る。
守華は兵士たちに指示を出す。
「なるべく遠くまで彩国の兵を誘導して、無駄な犠牲を減らすのよ」
気合を込めて前を向く。
「よし、今日で決めるわよ!」
「「はい!」」
「小心は危ないから、少し離れた森に避難していて」
「いいえ、私も最後までここにいます」
「上手くいくかどうか分からないわよ?」
「大丈夫です!お任せください」
この2、3日で、泣き虫だった小心は別人のようにたくましくなっていた。
「分かったわ。でも、一人では動かないで。琉璃の後ろにいて」
「はい、分かりました」
それぞれの部隊隊長たちが巧みに動き、彩国の兵を遠くへ誘導していく。
守華は布団の中に身を潜め、
八軒、琉璃、小心、そして他の兵5人ほどが天幕内で息を潜める。
外にも見えない位置に、待機する兵たちを配置してある。
天幕内は張り詰めた静寂に包まれ、唾を飲む音さえ響きそうなほどだ。
――そのとき、静かに、音もなく現れた。
そう、予想通り、偉特が数十人の兵を従え天幕に近づいてきたのだ。
忍び足で進むつもりでも、静まり返った天幕ではその足音さえ筒抜けになる。
きっと、酔って寝ていると聞いている布団を目掛けてくるはずだ。
タイミングが一瞬でも狂えば、ひと突きで終わってしまう。
――――――――カラン、カラン
その鈴の音に偉特たちは思わず足を止める。
守華たちは布団の前、足元に鈴をつけた糸を張っていたのだ。
「今だ!!」
守華が一気に布団を蹴り上げる。
その瞬間、布団に目を奪われる偉特。
だが、その隙を見逃さず、守華の刀先が鋭く偉特の首元へと迫る。
同時に八軒の刃が岳葉の首元に向けられ、
琉璃も入ってきた兵たちに刀を構え、天幕内は一気に戦場の空気に変わった。
「お、お前は小雪…!?」
偉特が驚きの声を上げる。
守華は冷たい笑みを浮かべ、ニヤリと答える。
「ごめんなさいね、私、小雪なんかじゃないの」
「やはりそうか」
岳葉が鋭い眼差しで睨みつける。
「岳葉に見破られるんじゃないかって、ちょっとハラハラしてたわ」
守華の声には余裕と挑発が混ざっていた。
「何者だ」
偉特が低く、重い声で問う。
「私がこの陽月国、総指揮官の守華よ。お見知り置きを」
守華は嫌らしくも冷ややかに笑う。
「総指揮官だと!?八軒ではないのか?」
偉特の声が震える。
「それもデマよ。八軒が自由奔放だとか、昼は酒で寝てるなんて話、全部真っ赤な嘘。そんなことしたら蘭明に叱られるもの、ね、八軒」
守華は八軒を見て軽く笑い、八軒は苦笑で応える。
「お前が八軒か。指揮官じゃないのか…本当にあの女が?」
「左様に」
「女が指揮官だと…陽月国も堕ちたものだな」
その侮蔑の言葉に、守華の眼光が鋭くなる。
刀を少し強く押し、鋭い刃先からわずかに血が滲む。
「女を侮るんじゃないわよ。まぎれもなく敗れたのは偉特、そしてあなたたちよ」
偉特も岳葉も、悔しさに歯を食いしばるしかなかった。
「あなたたち、自ら罠に飛び込んできてくれて嬉しいわ。
もう、あなたの兵たちは私の兵を追って遠くへ引き離された。
この天幕の外はすでに私の兵が取り囲んでいる。
誰も助けには来ないわ――観念なさい」
「くっ……こんな女に、敗れるとは!」
偉特が悔しげに唸る。だが、守華はその叫びを冷ややかに無視し、容赦なく縄で縛り上げさせる。
「守華さま、ここにいた彩国の兵はすべて捕らえました」
「よし、分かったわ」
大地を真紅に染めていた夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
――陽月国が勝ったのだ。
蘭明……私、勝ったわ。胸を張って、あなたのもとへ帰れる。
「守華さま」
名前を呼ぶ声に振り向くと、八軒がいた。
「八軒」
「勝利の報せは、早馬に託しました」
守華は小さく頷く。
「ありがとう、八軒。あなたの本当の主は蘭明なのに、それでも私に従ってくれて」
「いいえ。私にとって、蘭明さまも、そして守華さまも、かけがえのない主人です」
その言葉に、守華はふっと柔らかく微笑み、再び沈みゆく夕日に目を向ける。
「……蘭明も、この夕日を見ているかしら」
「きっと、守華さまの無事を祈りながら、同じ空を見ておられます」
守華は夕日の残光を見つめながら、静かに拳を握った。
「あと一踏ん張りね」
「はい!」
彩国には、偉特・岳葉・そして兵士たちを捕虜として捕らえたことを伝えた。
捕虜を返す代わりに「二度と良浪に近寄らぬこと」、そして「陽月国との戦を避ける」という和平の条件で合意が結ばれる。
国同士の細かな取り決めは八軒に任せ、守華はひとり戦場の近くで花を摘んでいた。
それは、国の垣根を越え、命を落とした兵たちへの手向けのために。
陽月国、彩国──敵味方の区別なく、静かに花を供える。
「あなたたちのおかげで、“平和”という言葉を両国に刻むことができた。本当にありがとう。そして、どうか安らかに眠って」
守華は深々と一礼し、彩国との交渉も終わっただろうと自分の天幕へ戻ろうと歩き出す。
その刹那──。
不意に手首を掴まれ、背中が木に押し付けられる。
反射で腰の短剣を抜き、相手の喉元に突きつけた。
目の前に現れたのは、見覚えのある顔。
「あなたは……」
男は静かに微笑み、低く言った。
「覚えていてくれて嬉しいよ」
短剣の切っ先を見下ろし、そして守華の瞳を射抜くように見つめる。
「さすがは総司令官だな、守華」
「……季昭」
そこに立っていたのは、彩国の第一将軍・季昭。
かつて出会ったときの柔らかな眼差しは消え、鋭く冷たい光が宿っている。
無理もない。あの時、彼にとって私はただの令嬢に見えた。
だが今目の前に立つのは、敵国の総司令官──しかも、自らの国を打ち破った張本人。
髪を高く結い上げ、鋭いまなざしを向けるその姿。
整った顔立ちは蘭明に劣らず、むしろその美しさが冷酷さを際立たせていた。
「前回はまんまとやられたよ。どこかの令嬢だと思い込んで油断していたら、あっさり乗せられてな」
季昭は肩をすくめ、にがい笑みを漏らした。
守華は小さく苦笑いを返す。
「そうだったかしら……」
季昭は軽く首をかしげてから、じっと守華を見据える。
「それが今回は総指揮官を張っているとはな」
守華の目に鋭さが戻る。
「私を――殺すつもりか?」
季昭は鼻先で笑い、短剣を弄びながら首を振った。
「まさか。逆だろ?今、首元に短剣を突きつけているのはお前だ。俺の方が――お前を殺させる側になる」
守華は思わず短剣を下ろした。声が少し震える。
「――な、何を調べたっていうの?」
季昭は淡々と言葉を継いだ。
「少しばかり、な。守華。蘭皇の側近――あの者の侍衛を務めているらしいな。侍衛ごときではなさそうだが。恋人、か?」
その一言に、守華の背筋が走る。季昭の観察眼は鋭く、若くして第一将軍にのし上がっただけのものがある。
「恋人じゃないわ……今は、ね」
守華の声はだんだん小さくなる。
季昭は鼻で笑い、軽く片手を振るように言った。
「ふーん。」
「何が――」守華が言いかけたそのとき、遠くから琉璃の声がはじけるように聞こえてきた。
「守華さま〜!守華さま〜!」
季昭はその声を聞いて、ふと笑みを深める。
「今回、こっちの指揮には一つ不手際があったが、俺個人としては負けていない。いずれ――お前を奪いに行く。待っていろ」
そう残して、季昭は静かに去っていった。
「奪いに来る――だと?」
守華はその言葉の意味が飲み込めず、足がすくんだまま立ち尽くす。
「守華さま――!守華さま!」
琉璃の必死な声が耳に届く。
その声に導かれるように、守華は短剣を納め、呼ぶ方へと振り向いた。
「琉璃!」
笑顔で手を振る守華に、琉璃も満面の笑みで応える。
守華が駆け寄る。二人の距離が縮まっていく。
――その瞬間。
琉璃の顔から、笑みがすっと消えた。
空気が重く、世界がスローモーションになる。
「守華さま――――っ!!」
鋭い叫び声が響くと同時に、守華の身体が崩れ落ちる。
左胸、心臓のあたりに深々と矢が突き刺さり、真紅の血が溢れ出していた。
「守華さま!守華さまっ!」
琉璃が泣きながら抱き起こし、必死に揺さぶる。
「いやです…いやです!目を開けてください!」
その声に駆けつけた八軒や小心、兵たちが天幕に集まる。
小心は守華の傍に膝をつき、涙で顔を濡らしながら叫ぶ。
「嘘…守華さま?ねぇ、起きてください…!蘭皇さまがお待ちなんですよ、一緒に帰るって言ったじゃないですか!守華さま…!」
八軒は無言で守華の鼻先に指を寄せ、そしてゆっくりと首を横に振った。
その瞳には涙が溜まっていたが、必死にこらえながら声を絞り出す。
「……守華さまは、もう――」
「嘘……嘘よ! さっきまで笑顔で手を振って、私のところへ駆け寄ってきていたのよ。誰なの!? 誰が守華さまを……!」
琉璃の叫びは夜空に響き、震える手で守華の体を抱きかかえる。
周囲を探しに走った兵が戻ってきて、首を振る。
「……誰もいませんでした」
「そんなはずない……いやよ! いやあぁぁぁっ、守華さま――!」
琉璃と小心はその場に崩れ落ち、声を上げて泣き続ける。
周囲に立つ兵たちも、次々と涙を流し、嗚咽を堪えきれなかった。
勝利の歓声に包まれるはずだった戦場は、
一人の指揮官を失った悲嘆の場へと変わり果てる。
――彩国を勝利へ導いた守華は、
正体の知れぬ矢に倒れ、その命の炎を静かに閉じたのだった。




