57.痣の秘密
その後、皇后に「貴愛奈との結婚破棄は許されぬぞ」と言われても、蘭明は落ち着いた声で「後で貴愛奈と話します」とだけ答え、歩けない守華をそっと抱き上げ、屋敷へ戻った。
屋敷の門前では、小心と白鋭が落ち着かない様子で待っていた。
蘭明に抱かれた守華に気づき、慌てて近寄る二人。
守華は、安心したのか、あるいは精神も体力も限界を超えていたのか、蘭明の腕の中でまるで気絶するかのように静かに眠りに落ちていた。
「小心、お粥と薬湯を用意してくれ」
「はい、すぐに!」
小心は駆け出していった。
「白鋭、傷に効く薬を桜音亭に準備しておけ」
「承知しました!」
白鋭も急ぎ薬場へと向かった。
蘭明は眠る守華をそっと桜音亭へ運び、ベッドに横たえた。
手当の準備をしようと立ち上がろうとした瞬間、守華が蘭明の衣をぎゅっと掴む。
振り返り見下ろすと、まだ寝ているかと思われた守華が、かすかな声でつぶやいた。
「蘭明、蘭明、行かないで…」
その一言と一粒の涙で、守華は目を覚ました。
蘭明は優しく彼女の頬に手を伸ばし、涙をそっと拭いながら微笑む。
「大丈夫、私はここにいる」
その温かな笑顔に、守華の緊張と疲れが少しずつほどけていった。
「蘭皇、お粥と薬湯の準備が整いました」
ちょうどそのとき、小心がお粥を持って部屋に入ってきた。
蘭明はお粥を受け取り、守華の口元にそっと運ぶ。
守華は疲れ切った体で少しずつ、慎重に口に運ばれたお粥を口にした。
食べ終わると、蘭明は静かに言う。
「傷が少し染みるかもしれないが、汚れを落とそう」
守華は弱々しくも頷いた。
蘭明は守華を抱き上げ、薬湯の場所まで慎重に運ぶ。
「小心、ここから先は頼む。優しく汚れを落としてやってくれ」
「かしこまりました」
守華は蘭明の腕から小心に抱えられるようにして、ゆっくり歩き出す。
体力が限界に近く、足取りはふらつきがちだ。
小心に支えられながら、守華は服を脱ぎ、薬湯にそっと体を沈めた。
薬湯は傷の回復に効果があるらしいが、熱さと傷に染みる痛みに守華は必死に耐える。
小心は何も言わず、ただ守華の体を支え、優しく汚れを落としてくれた。
守華は痛みに顔をしかめながらも、その温かい手に少しずつ安心を覚えていった。
汚れはすっかり落ち、鏡で自分の姿を見た守華は、その傷の酷さに思わず息を飲んだ。
自分でも驚くほどの痛々しい姿だった。
蘭明は薬湯から上がると、守華を外でじっと待っていてくれた。
歩くのもままならない守華を、そっと抱き上げ、桜音亭まで運んでくれる。
守華は蘭明の胸に寄りかかるようにして、ただ体を委ねるしかなかった。
部屋に戻ると、ベッドの隣には白鋭が整えてくれた薬がずらりと並んでいる。
「下がってよい」
「「はい」」
小心と白鋭に告げ、部屋の中には蘭明と守華の二人きりになる。
「薬を塗るから、服を…」
守華は、かつて似たような状況があったことを思い出しながらも、素直に服を脱ぎ始めた。
蘭明はその素直さに一瞬驚き、動きが止まる。
「塗ってくれるんでしょ?」
守華の声にハッと我に返る蘭明。
深く息をつき、ようやく手を伸ばした。
守華は前を隠し、背中を蘭明に向けたまま、震える体を少しだけ預ける。
蘭明はそっと手を伸ばし、背中に薬を優しく塗っていく。
「蘭明」
「ん?」
「ありがとう」
「何がだ?」
「私を信じて、助けてくれて…」
「当たり前だ。守華、私はいつだってお前を信じると言っただろう。ただ、遅くなって悪かった。もっと早く助けるつもりだったんだ。八軒に頼んで、星曜に残りの山賊を探させていたけど、なかなか現れなくて…」
「ううん、来てくれただけで十分よ。それに、宝石をあげたなんて嘘までついて…」
「守華を娶るという言葉は本当だ」
「え…」
守華は、その場しのぎの言葉だと思っていたので、少し目を見開く。
「でも、蘭明は私が裏切ったと、利用されたと思っていたはずなのに…」
「歌だ。牢の中でお前が歌っていた歌、どうして分かるんだ?」
「歌?」
守華は少し考え込む。
「♪目を閉じればはるか遠い国の花の匂いがしてくる、匂いに囲まれて眠りなさい──の歌?」
「そう、それだ」
「この歌は、私が眠れないときに母がよく歌ってくれた歌よ。これがどうかしたの?」
「その歌、私の母も歌ってたんだ。小さかったから全部は覚えてないけど、あの部分だけは鮮明に覚えてる。私と母だけの歌だったはずなんだ」
「蘭明と蘭明のお母さんだけ?…どうして、私の母が知っているんだろう…」
「実はな、守華が歌っているのを聞いてたんだ。最初に聴こえてきたときは驚いたよ。でも、母と守華には何か深い縁があるんじゃないかと思ったんだ」
「何か…?」
蘭明は薬を塗りながら腰あたりに手を差し伸べた。
守華は、自分と蘭明の母とのつながりのことを考えすぎて、いつの間にかアザを隠すのを忘れていた。
「守華…このアザ」
――!?
思わず手を腰に回して隠す守華。
だが、蘭明はその手をそっとどける。
「陽月国の印とよく似ている。綺麗だ」
「綺麗…?」
守華は驚きのあまり言葉を失った。アザに「綺麗」という言葉がかけられるなんて、思ってもみなかったからだ。
蘭明は、私を救ってくれた。
だから、私も今度は、蘭明にちゃんと話さなきゃ――。
「蘭明、覚えてる?太陽から月が生まれた日、アザのある者が現れるって話」
「ああ…あれは伝説の話だろ」
「きっと伝説じゃないわ。私が蘭明の腕の中に落ちたあの日、太陽と月が重なって、一瞬世界が暗くなったでしょ?そして明るくなったら、そこに私がいた。きっと、このアザのある者っていうのは私のことよ」
蘭明はハッとなり守華のアザに触れ、撫でるように手を動かした。
「私が探している光る石――たぶん妖石だと思うの。誰かが私がアザある者だと知って、妖石も私が持っていると思い込んで、刺客を何度も送ったんだと思う。それで今回の山賊狩りの罠も、私を奪うためのものだったんだ。矢文が届いて、地図通りに行ったら、ちょうど蘭明のお母さんのお墓に着いたの」
「文が届いた?なんで一人で行ったんだ?」
「ごめんなさい…アザのことは誰にも言えなかったから…」
「今度から絶対に一人で行くな」
「はい」
守華は素直に頷いた。
「それで、守華を狙っているのは一体誰なんだ?」
守華は首を横に振った。
「全然分からない…」
陛下や皇后、もしかしたら海尭かもしれない――そのことを蘭明に言うわけにはいかない。もし蘭明が知れば、きっと心を痛める。特に海尭なら、そのショックは計り知れない。
傷口が痛む守華は、少し体を丸めてうずくまった。
「痛むのか?アザと妖石のことは分かった。今日はゆっくり休め。明日の朝一で医者に診てもらって、薬をもらおう」
蘭明は守華に服を着せ、そっと横たえさせた。すると、蘭明も守華の隣に身を寄せる。
「蘭明…?」
「安心しろ。怪我人に手は出さない」
守華は怪しむように目を向けた。
「その目は何だ?」
守華は恥ずかしさから背を向ける。しかし蘭明は後ろから優しく抱きしめた。守華はその温もりに包まれ、少しずつ心が安らいでいく。
――そうか、ずっと牢屋で一人だった私を安心させるために、蘭明は…
守華は自然に体を回し、蘭明の顔を見上げた。二人の距離はぐっと縮まる。
目と目が重なる瞬間、心臓の鼓動が互いに聞こえてきそうだ。
「そんなに見つめられたら襲うぞ」
少し照れた声の蘭明が微笑む。
守華はその笑顔が愛おしくて、ぎゅっと蘭明を抱きしめ、顔を胸に埋めたまま、静かに眠りに落ちていった。
「なぜだ!あと一歩のところだったのに…蘭皇の野郎!」
薄暗い部屋に怒りと苛立ちが渦巻く声が響き渡る。
10人ほどの黒服の者たちは、声を荒げる男の前で片膝をつき、頭を深く下げている。だが、その目には恐怖と焦燥が交錯していた。
「蘭皇が現れた以上、あの頭脳明晰な男なら、我々の存在に気づくのも時間の問題だ…」
言葉を濁した瞬間、部屋には一瞬の沈黙が落ちる。
だが、それも束の間。男は歯を食いしばり、握り締めた拳をぶるぶると震わせた。
「次だ!次で必ず、あの女を仕留めろ!次が失敗したら、全てが水の泡だ!20年…20年も耐えて、ようやくこの日のために積み上げてきたのに、こんなところで終われるか!」
怒りと悔しさが混じり合い、薄暗い部屋の空気を重く締め付けた。
黒服たちは、その激情に押され、なおも必死に頭を下げるしかなかった。
長い階段の両端には、何段かおきに兵たちが緊張した面持ちで立っていた。
その広い階段の中央を、侍衛の制服に身を包んだ守華が一歩一歩登っていく。
隣には蘭明、その後ろには八軒と琉璃が控えていた。
処刑されそうになったあの日から、ちょうど一週間。
今日の呼び出しは、彩国との戦に関するものだろう。
陛下に呼ばれた瞬間、心臓が強く鼓動を打つ。いよいよだ――。
「守華、大丈夫か?この階段、辛いだろう。俺が抱き上げて登ってもいいぞ」
蘭明は優しく守華の顔を覗き込みながら言う。その瞳には深い心配が映っていた。
「ううん、大丈夫よ。総指揮官として、今から気を引き締めないと!助けを求めていたら、総指揮官なんて務まらないわ」
体の傷は、蘭明が用意してくれた最高級の薬のおかげで、思ったより早く回復してきている。
まだ完治してはいないが、特に右腕の傷と左胸の傷は、一度治りかけていたところに強い刺激が加わり、痛みが完全には引かない。
精神面では、この一週間、寝るときには常に蘭明が横にいて、ギュッと抱きしめてくれることで、少しずつ心の落ち着きを取り戻していた。
八軒と琉璃は外で待たせ、守華と蘭明だけが奥へと進んでいく。
蘭明の侍衛として何度も屋敷には来ていたが、ここまで奥に入るのは初めてだった。
長い廊下の両脇には、煌びやかな装飾が施された壁が並び、光を反射してまばゆいほどだ。
守華は思わずキョロキョロと見回す。
「これが、陽月国トップの居場所……」
蘭明の屋敷も、海尭の屋敷も豪華ではあるが、比べ物にならないほどの壮麗さに、守華は圧倒されて口が塞がらなかった。
その様子を横目で見て、蘭明は微かに笑みを浮かべる。
しばらく進むと、廊下の途中で立ち止められる。
「蘭皇、守華さまがお見えになりました」
扉の前にいた者が大声で向こう側にいる陛下に告げる。
「通せ、ゴホンゴホン……」
扉がゆっくりと開き、蘭明と守華は中へ踏み入った。
中では、陛下が咳をし、背後で無観がその背をさすっていた。
蘭明はすぐに歩み寄る。
「父上、大丈夫でしょうか?」
「ゴホン、ゴホン……ああ、大丈夫だ。ここ二、三日、咳が出てきてな」
「どうか無理はなさらぬように」
守華も一歩前に進み、丁寧に頭を下げる。
「陛下にご挨拶申し上げます」
「頭を上げよ」
「感謝いたします」
陛下は守華と蘭明を交互に見つめ、静かに問う。
「今日、呼ばれた理由は分かっておるな?」
「はい」
蘭明と守華は声を揃えて返事をした。
「まだ、彩国は動き出してはいない。しかし、いつでも動けるよう準備には入っていると伝達があった。守華よ、傷の具合はどうだ?」
「はい、もう動けますゆえ、こちらもいつでも出陣できるように整えておきます。」
「よい。心得ておるな?彩国はこれまで何度も押し寄せてきた。今回の戦で、二度と陽月国を脅かせぬようにせねばならぬ」
「はい」
「蘭皇、そなたは陽月国に残れ」
「父上、それでは──」
蘭明が言いかけるのを、陛下は手を上げて遮った。
「守華が真の勝利の女神として認められるかどうかが、今回の全てだ。蘭皇が力を貸して勝利したとしても、民は守華をただの者としてしか見ぬだろう。さらに蘭皇、そなたは守華を娶ると言ったな。皇子が妃とできるのは高貴な姫のみ。守華に身分はない。ただ、勝利の女神として民に認められたなら、相応の身分を与えよう。守華もそなたと共になりたいのなら、その力を示せ」
「はい。必ず、この戦を勝利に導き、陽月国に栄光をもたらします」
蘭明は守華を心配そうに見つめ、陛下に向き直った。
「下がってよい」
「「はい」」
守華と蘭明は慎重に後退し、距離をとった。
廊下の向こうで、陛下の咳がまだ止まらない。無観が薬を差し出し、陛下に飲ませる。
「この戦、守華さまに任せて本当に陽月国は勝てるのでしょうか」
「この案を出したのは無観だろう?」
「はい。勝利の女神として証明する絶好の機会かと。しかし、心配は心配です」
「五分五分だろうな。守華が負け、彩国が再び攻め込んできた場合は、蘭皇と星皇に食い止めてもらうしかあるまい。星皇にはその準備をしておくよう伝えよ。勝利の女神の吉凶は、ここにかかっておる」
陛下は真剣な眼差しで前を見据え、薬を一気に飲み干す。背後で無観が心配そうにその背中をさすった。




