53.涙と疑惑の狭間で
すぐに医者が呼ばれ、守華の手当が始まった。
医師の表情は険しく、震える声で告げる。
「あと数センチずれていたら……心臓を直撃していました。命はなかったでしょう」
部屋中に緊張が走る。
「守華!」
勢いよく扉を開けて入ってきたのは海尭だった。
守華はまだ深い眠りに落ちており、その傍らで貴愛奈がずっと見守っていた。
海尭は守華のそばに駆け寄り、必死に心配そうな目を向ける。
悔しそうに握りしめた拳を見て、誰もが胸を痛めた。
「貴愛奈、何があったんだ?」
その声は、普段の柔らかい海尭とは違い、低く、力強く響いた。
貴愛奈は守華をじっと見つめ、言葉を発せずに涙をこぼしていた。
その様子に気づいた海尭は、一瞬だけ深く息をつき、周囲を見渡す。
「皆、下がれ」
「はい」
部屋にいた侍女たちは、指示に従い一歩ずつ下がっていった。
海尭は貴愛奈の肩に手をかけ、真剣な眼差しで呼びかける。
「貴愛奈!」
その声にハッとした貴愛奈は、涙で濡れた瞳を海尭に向けた。
震える唇から小さな息が漏れる。
その瞳には、恐怖と安堵が入り混じり、胸を打つ光景となった。
「海、尭……」
さっきまでの鋭く険しい表情は消え、いつもの優しく穏やかな目つきに戻った海尭が、貴愛奈を見下ろす。
「貴愛奈、何があったんだ?どうして守華がこんなことに?」
貴愛奈は涙をあふれさせながら、言葉にならない思いを吐き出した。
「私がいけないんです……私のせいで……でも、こんな私を守華が命がけで守ってくれたんです。今まで、私を守ってくれる人なんて誰もいなかったのに……それなのに、守華は……私がどれだけ酷いことをしても、守ってくれたんです……!」
悲しみと後悔で震える貴愛奈の声は、部屋中に響き渡った。
その姿を見た海尭は、迷わず両腕で貴愛奈を包み込み、強く抱きしめた。
「分かった、分かったよ……」
泣きじゃくる彼女を優しく抱きしめ続け、守華の眠る姿を心配そうに見つめる。
やがて少し落ち着いた貴愛奈は、昨日からの出来事を隠さず、ありのまま正直に話し始めた。
頭の回転の速い海尭は、話を聞くうちに、誰かが守華を陥れようとしたことをすぐに理解した。
「その話を持ちかけた人は、直接見てはいないんだな?」
貴愛奈は静かにコクンと頷く。
「扉越しに話していたから、声しか分からなかったんです……」
貴愛奈は眉をひそめ、思いを巡らせる。
「声…...今思えば、どこかで聞いたことがあるような……でも、どこで聞いたかは……」
海尭は貴愛奈を見つめ、静かに言った。
「話は分かった。もう、貴愛奈は詮索しなくていい。また、君が危ない目にあうかもしれない。この件は、すべて私に任せてくれ」
貴愛奈は力強くコクンと頷いた。
「ん……?貴愛奈も怪我をしているじゃないか」
海尭の視線が、手の甲にできた小さなかすり傷に止まる。優しく貴愛奈の手を包むように取った。
「このくらい平気です。守華に比べれば」
「いや、手当はしておこう。ほかには……」
そう言いながら、海尭はそっと貴愛奈の袖をまくり上げた。そこには、痛々しい古傷がいくつも刻まれていた。
咄嗟に貴愛奈は袖を下ろし、腕を隠す。
「なんでこんなに古傷が……いや、まだ新しい傷もあるじゃないか」
「私も……武芸の稽古をしていて……」
「貴愛奈が武芸なんてできるはずがない」
「できますわ!」
必死に抵抗する貴愛奈を、海尭は優しく、しかし力強く両腕で抑える。振り解こうとしても、その力に敵わない。貴愛奈は悔しそうに顔を横にそむけた。
海尭は静かに、しかし丁寧に彼女の両腕を確認する。
「まさか……香寧妃に……?」
香寧妃――貴愛奈の母。しかし、血のつながりはない。今でいうところの継母だ。
貴愛奈は俯いたまま、海尭と目を合わせようとしなかった。
「……なんで、こんなになるまで誰にも言わなかったんだ」
海尭の低く震える声に、貴愛奈の肩が小さく揺れる。
「誰に言えって言うのですか!?香寧妃は今では父の隣に並ぶお方。誰も逆らえません。唯一、侍女の朝日だけが……傷を手当てしてくれました。でも、他の者は皆、見て見ぬふりでした」
必死に涙をこらえようとするが、頬を伝って次々と流れ落ちる。
「母が亡くなってからも父は母を愛し続け……香寧妃はいつも二番目。父を独り占めできず、子も授からず……だから私が憎くて仕方がないのでしょう。八つ当たりなのです。父に話そうと思っても、いつも香寧妃が隣にいて口を開けなかった……。陽月国へ遊びに行きたいと願っても許されなかったのです」
「……だから、ずっと来られなかったのか」
「そうです。ようやく許されたと思ったら、今度は蘭明との婚姻。陽月国の皇后と香寧妃にとって、私は都合のよい駒なのです。……でも、それでいい。夫ができて、その夫が私を守ってくれるのなら、それだけでいい。愛なんていらない。たとえ蘭明が守華を想っても……私を愛さなくても……香寧妃から、楽士国から私を守ってくれるだけでいい。それ以外は何も望まない」
海尭は驚愕の色を隠せず、ただ静かに耳を傾けるしかなかった。
「……そう、思っていました。昨日までは。私は守華に、香寧妃と同じように八つ当たりをしていたのです。私も結局、香寧妃と同じ。笑ってしまいますわね。でも……それでも守華は私を“戯れ”だと受けとめ、私に傷がないと知って笑顔を見せ、命がけで守ってくれた……。今まで誰も私を守ってくれる人なんていなかったのに。……自分の想い人の妻になる私を、ここまでして……。そんな人の大切な想いを、私は奪えません」
涙で滲む視界の中、眠り続ける守華を見つめながら、貴愛奈は声を詰まらせて泣き崩れた。
その体に、温もりが添えられる。海尭がそっと、貴愛奈を抱きしめたのだ。
「……今まで、辛かったな。よく、耐えたな」
耳元に届く声は、深く優しく、胸に沁みわたる。
「守華はきっと分かってくれる。大丈夫だ……もう、大丈夫だから」
静まり返った部屋に、貴愛奈のすすり泣く声だけが細く響いていた。
暗がりの中、数本のろうそくが小さく揺れ、炎が壁に歪んだ影を映し出していた。
「……また仕留め損ねたのか。使えぬ者どもめ」
低く冷たい声が響く。
「申し訳ございません……」
黒装束の者たちが膝をつき、深く頭を垂れる。
「貴愛奈が、この件を口にする可能性はないでしょうか?」
「ない。自らが守華を陥れようとした身、言えるはずも……。それに、仮に口を割っても、私の姿は一度たりとも見られてない。尻尾を掴まれることはないだろう」
「承知いたしました。次こそは――」
「忘れるな。我らの手を直接汚すつもりはない。だが、奴らはもうすぐ目の前まで迫っている。次は……絶対に失敗するな」
「はっ!」
黒服の数人が一斉に頭を下げ、音もなく部屋を後にする。
残されたろうそくの炎が揺らめき、不気味な沈黙が暗闇を満たした。
目を開けた瞬間、右腕と左胸に鋭い痛みが走り、思わず息をのむ。
「……っ」
視線を巡らせると、そこは見慣れた天蓋のある部屋――貴愛奈の私室だった。
机に突っ伏したまま眠り込む貴愛奈の姿が目に入り、その横顔は涙の跡で濡れている。
部屋の奥では、海尭が静かに窓の外を見つめていた。
「……海、尭?」
弱々しい声に反応し、海尭が振り返る。
次の瞬間、その瞳が大きく見開かれた。
「守華!」
彼は駆け寄り、震える手で守華の肩を支える。
「大丈夫か?」
その声に気づき、貴愛奈もはっと目を覚ました。
涙に濡れた頬を上げ、かすれた声で叫ぶ。
「守華……!」
その必死な響きに、また涙が溢れそうになる。
守華は痛みを堪えながらも微笑んだ。
「私は大丈夫よ」
海尭にそう言って安心させると、次に貴愛奈へと視線を向ける。
「……貴愛奈さまも、泣かれるのですね。ずっと泣いておられたのでしょう? その綺麗な目が……こんなに腫れてしまって」
その優しい言葉に、貴愛奈は堰を切ったように嗚咽を漏らした。
「守華……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
守華はそれ以上は何も問わず、ただ「大丈夫、大丈夫」と繰り返す。
泣きじゃくる貴愛奈の背を静かに撫でながら、彼女の苦しみを受け止めていた。
右腕の傷は浅い。きっと痕も目立たずに消えていくだろう。
だが、左胸の上に刻まれた傷は――おそらく一生、消えない印として残るはずだ。
まったく、この時代に生きるには、命がいくつあっても足りない。
けれど、不思議と恐怖はなかった。刺客に狙われようと、死と隣り合わせになろうと。
それは、この国の空気に慣れてしまったせいか、それとも身につけた武芸のおかげなのか。
――私は、強くなったのだろう。
思わずそんな風に自分に感心してしまうほど、この一年半は過酷で、そして濃密だった。
まだ身体は本調子ではない。それでも、じっと寝ていることがどうしてもできず、守華は屋敷の奥へと歩みを進めていた。
人目を避けるように細い小道を抜け、裏手に差しかかる。
そのとき――角を曲がった視線の先に、見慣れた背中があった。
「……海尭?」
思わず声を張り上げかけたが、次の瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
海尭はきょろきょろと周囲を気にしている。落ち着かないその仕草は、彼には似つかわしくない。
どうして、こんな人通りもない裏道に、一人で?
まるで誰かを待っているように――。
守華は思わず足を止め、気配を消すように身を隠して、そっと彼の様子を覗き込んだ。
(……誰かと、待ち合わせ? こんな場所で……?)
守華が息を潜め、そっと覗き込むと、海尭のもとに一人の影が近づいてきた。
その瞬間、守華の瞳は大きく見開かれた。
――だって、目の前にいるのは、あの何度も私を狙った刺客と同じ黒服だったのだ。
距離があって、二人の会話までは聞こえない。
だが、心臓は早鐘のように打ち、頭の中は疑問でいっぱいになった。
「なぜ…海尭が、刺客と?」
「まさか…海尭が刺客に…?」
海尭は刺客の肩を軽くトントンと叩くと、刺客はそのまま闇の中へ消えた。
会話を終えた海尭がゆっくりこちらに歩いてくる。
――まずい!
守華は咄嗟に身を隠すようにして背後の陰へ身を潜めた。
幸い、海尭は守華に気づかず、そのまま通り過ぎていった。
守華は身を潜めたまま、心臓が破れそうなほど早く打つのを感じた。
あの海尭が、刺客と密談していた――目の前で、肩を軽く叩いて指示を与えたあの仕草。
「まさか…海尭が刺客に指示?」
「私を…狙ってたの…?」
頭の中で疑念が膨らむ。あの優しい声も、あの笑顔も、すべて作り物だったのか――。
でも、違うかもしれない。あの時の守華を助けるために刺客を制したのかもしれない。
――いや、でも、あの刺客に近づく仕草は、あまりにも自然だった。まるで指示を出す慣れた手つきのように…
守華は目をこらし、海尭の背中を追う。
柔らかく見える肩のライン、歩き方の落ち着き…けれど、何かが引っかかる。
あの冷たい影のような動き――、何か隠している、確実に。
「私、どうすればいいの…?」
疑念と恐怖、そして不安が一度に襲い、守華の心は混乱の渦に巻き込まれる。
味方なのか敵なのか――
海尭の本当の意図は、暗闇の向こうにしか見えない。
守華は小さく息を吐き、影の中でじっとその場に立ち尽くす。
その瞳は、信じたい気持ちと疑いたい気持ちの間で揺れ動いていた――。




