50.貴愛奈の挑発と守華の決意
皇后の誕生日以来、貴愛奈はまるで日課のように蘭明を訪ねて屋敷に通ってきた。
きっと――守華と蘭明の間にただならぬものを感じ取ったのだろう。
日に日にその距離は近づき、蘭明への甘え方はあからさまになっていく。
もちろん蘭明は守華を傷つけぬようにやんわりとかわすけれど、それでも貴愛奈は諦めずに彼の腕に絡みつく。
まるで、守華に見せつけるかのように。
それでも守華は、あえて何も反応しなかった。
――表には、出さない。
「ねぇ、蘭明。一緒にお風呂入りませんか!?」
その言葉が放たれた瞬間、部屋の空気が張りつめた。
居合わせた者はみな目を丸くし、息を呑む。
貴愛奈は周囲の視線など意に介さず、にっこりと笑う。
「え?私、何か変なこと言いましたか? でも、もう結婚する仲ですし、それに子供の頃はよく一緒に入っていましたよ?」
蘭明の眉がかすかに動き、すぐに彼女から身を離した。
「……それは昔の話だ。しかもあのときは海皇も星曜も一緒だっただろう」
その声には珍しく焦りがにじんでいる。
守華の視線を意識しているのが痛いほど分かる。
「何照れてるのです? ねぇ、蘭明。私の体のどこにホクロがあるか、きっと覚えてらっしゃるのでしょう?」
ぐいっと迫る貴愛奈。
蘭明は一瞬言葉を失い、必死に否定する。
「覚えていない」
そのやり取りを見ていた守華は、小さく息を漏らした。
「……何よ、焦っちゃって」
ほんの囁き声。
だが、蘭明の耳には確かに届いた気がして、心なしか肩がぴくりと揺れた。
守華は、見ていられないとばかりに小さくため息をつき、部屋の外へ出た。
すぐに琉璃も続き、扉の前に立って見張りをする。
「守華さまって、本当にすごい方ですね」
琉璃がぽつりと呟く。
「そうかしら?」
首をかしげる守華。
「私だったら、あんなこと言われたら大暴れしてしまいます」
「暴れたら負けよ」
きっぱりと答える守華。
「え……負けなんですか?」
「貴愛奈さまは、私と蘭明のことを疑っているの。だから挑発して、私の反応を確かめているのよ。きっと隙を見つけたら、すぐに皇后さまに告げ口するでしょうね」
「まぁ……なんて性格の悪さ!」
琉璃が憤る。
守華はふっと微笑みながら首を振った。
「でも、普通ならそうなのかもしれないわ。好きな相手に他の人がいたら、奪い取りたいと思うのが人の心だから」
「……そういうものですか?」
「たとえば八軒に好きな人がいたら、どうする?」
「もちろん八軒をぶっ倒します!」
拳を握る琉璃に、守華は思わず吹き出した。
「ほら、それと一緒。誰だって、大切なものを失いたくないから必死になるの」
「なるほど……」
琉璃は目を丸くして納得した様子を見せる。
そして少し間を置き、真剣な表情で守華を見た。
「でも……それは守華さまも同じじゃないですか?」
「ええ、もちろんそうよ」
守華の瞳に一瞬、柔らかな光が宿る。
「蘭明がどれだけ私を好きだと言ってくれても、婚約者が目の前にいるのは事実。だから、奪われないように私も必死。でもね、大丈夫。蘭明は私が思っている以上に考えてくれているはず。だから私は……その時を信じて待つだけ」
守華はにこりと微笑んだ。
その笑顔に、琉璃は思わずうっとりと見惚れる。
「……守華さまと蘭皇の絆、憧れちゃいます」
「なに言ってるのよ。琉璃と八軒だってそうじゃない。小さい頃からの運命みたいな絆でしょ?」
「そ、そうですかね……でも、まだ好きって言われたことがないんですよ」
琉璃は肩を落とし、しゅんとする。
守華はくすっと笑って、琉璃の肩を軽く叩いた。
「大丈夫よ。八軒なら、ちゃんと伝えてくれる日が来るわ」
その日は朝から澄み切った青空が広がり、宮中もどこか穏やかな雰囲気に包まれていた。
守華が回廊を歩いていると、背後から声をかけられる。
「守華さま、蘭皇をご存じありませんか?」
振り返ると、白鋭が少し困った顔をして立っていた。
「あれ?白鋭と一緒じゃなかったの?」
「いえ、私はてっきり守華さまとご一緒かと思いまして」
ちょうどそこへ、八軒と琉璃が通りかかる。
「あれ?八軒と琉璃も蘭皇についていないの?」
昼間に蘭明が一人でいることなど滅多にない。
必ず誰かが側にいるはずなのに、今日はどうやら様子が違うらしい。
「今、貴愛奈さまがお見えになって……“大事な話があるから下がってよい”と」
と八軒が答える。
「白鋭、急用なの?」
守華が白鋭のほうに向いて尋ねる。、
白鋭が一歩前に出て
「実は、こちらに蘭皇の書名の印をいただきたくて」
「じゃあ、私が呼んでくるわ。琉璃、どこに行ったか心当たりある?」
「たぶん裏庭かと……でも、貴愛奈さまに“下がれ”と言われたのに、大丈夫でしょうか?」
「“急用です”といえば問題ないわ。任せて」
そう言いつつも、守華の胸の奥には小さなざわめきがあった。
――“大事な話”を二人きりでしているということが、どうしても気になって仕方なかったのだ。
裏庭に足を踏み入れると、蘭明と貴愛奈の姿が目に映った。
距離をとっていても、ただの世間話ではないことが空気の張りつめ具合から伝わってくる。
___ドクン、ドクン。
「気にしてない」と言い聞かせてきたはずなのに、二人の姿を目にした瞬間、胸の鼓動は意志に反して速さを増す。
蘭明の顔は守華に背を向けていて、その表情を読み取ることはできない。
一歩、また一歩と近づいたとき、先に気づいたのは貴愛奈だった。
「蘭……」
呼びかけようとした守華の声をかき消すように、貴愛奈は蘭明の胸元をぎゅっと掴み、自分の方へ強引に引き寄せる。
次の瞬間、蘭明の唇に自身の唇を重ねた。
――動けない。
目の前の光景に守華の体は固まり、思わず背を向け、一歩、二歩と後退する。
その間にも、蘭明は貴愛奈を一度は突き放したものの、彼女は再び彼の唇を奪う。
___待って。ここで逃げ出したら、ただの悲劇のヒロインじゃない?
妙に冷静に自分を客観視する心の声が響き、逆に笑みすらこぼれそうになる。
――負けるものですか。
決意を固め、くるりと向き直る。
目の前では、まだ貴愛奈が蘭明に迫っていた。
「蘭皇」
その呼び声は、空気を一変させた。
蘭明ははっとして、貴愛奈を思いきり突き飛ばす。
一歩後ろに身を崩した貴愛奈は、しかし怯むことなく守華を見つめ、にやりと挑発的な笑みを浮かべる。
その視線を正面から受け止める守華の目は、氷のように冷たく、けれど揺るぎなかった。
焦った顔で振り向いた蘭明は、その堂々たる気配にむしろ息を呑む。
――今の守華が、誰よりも怖い。
「蘭皇、お取り込み中失礼いたしますが、白鋭が至急、書名の印をと探しておられます」
張りつめた空気の中、守華の声は凛として響いた。
「あ……あぁ、分かった」
蘭明は守華の横をすり抜けて歩み去り、守華は貴愛奈に淡く一礼してから、その後を静かに追った。
足早に歩く蘭明。
守華も黙ってその背に続く。
言葉はなく、廊下に響くのは カツ、カツ、カツ… と靴音だけ。
その沈黙が、かえって胸をざわつかせる。
ふいに蘭明が立ち止まった。
彼の肩がわずかに強張り、振り返った瞳に一瞬の怯えが宿る。
守華は無表情のまま、じっとその視線を受け止める。
「……見てたのか?」
守華は静かに歩を進め、距離を縮めていく。
その足音ひとつひとつが蘭明を壁際へ追い込むように。
「ええ――すべてを」
蘭明の背が壁に触れた瞬間、逃げ場はなくなった。
ゴクリ、と唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
「あれは違――」
言い訳を口にしようとしたその唇に、守華の細い指が触れた。
人差し指をそっと添えて、静かに囁く。
「シーッ……分かってる」
「じゃあ……怒ってるのか?」
守華は目を逸らさずに、首を横に振る。
「まさか……また、ちょん切るって言うんじゃ……」
再び、ゆるやかに首を振る守華。
その顔がゆっくりと近づき、蘭明の鼓動は速くなる。
「――その汚れた唇、私が浄化してあげる」
言葉とともに、守華の唇が蘭明に重なる。
柔らかに、しかし吸い付くように深く。
次の瞬間、蘭明が守華を反転させ、今度は彼女を壁へと押し付ける。
互いの唇はさらに熱を帯び、絡み合い、むさぼるように激しく重なる。
呼吸さえ奪い合う、炎のような口づけ――。
そして、その情熱的な光景を奥の影から悔しげに見つめていたのは、
他ならぬ 貴愛奈 だった。
別の日――宮廷での出来事
「蘭明!」
宮 宮廷
別の日――宮廷での出来事
「蘭明!」
宮廷から出てきた蘭明に手を振る守華。
呼ばれて宮廷に足を運ぶ蘭明。
この日は八軒だけが中に連れて行かれ、守華と琉璃は外で待たされる形になった。
「星曜も一緒だったのね」
「私がいたら邪魔みたいな言い方、やめろよ」
「そうは思ってないわよ」
「会いたかったー!とか、今日も素敵ね!とか言えないの?」
「言うわけないでしょ!?その辺の女と一緒にするな、ねぇ、蘭明」
守華はにっこりと微笑みながら蘭明に近づき、見上げる。
蘭明は自然に守華の肩に手を置き、抱き寄せるようにして微笑んだ。
「悪いな、星曜。守華が素敵だと思うのはこの私だけだ」
二人の視線が交わり、笑みが弾ける。
「あー、そうですかー。お熱いことでいいですねー!私にもそんな女がほしいーーー」
思わず周りも笑い声を上げる。
守華は肩に乗せられた蘭明の手をそっとどけ、真剣な顔で尋ねた。
「今日は陛下、何の話だったの?もしかして……結婚の日にち?」
心配そうに見上げる守華に、蘭明は少し困ったように答える。
「最近、ずっと大人しかった山賊が、また悪さを始めたらしい」
「え?前に行った村も危ないかもしれないの?」
「うん」
「だから、私と星曜で山賊狩りに行く」
「そうよね、あの村が心配だし……私も行く」
「もちろんだ」
そのとき振り向くと、貴愛奈が侍女たちを連れて現れた。
蘭明以外は皆、咄嗟に一礼する。
「山賊の話は聞きましたわ。でも、蘭明も八軒もいなくて、私のことは誰が守ってくれるのかしら?」
「別に侍衛をつけるから心配するな」
「そんなの、信用なりません」
貴愛奈は人差し指をぴんと立て、守華を指さす。
「守華、蘭明が留守の間、あなたが私を護衛しなさい」
一同が一斉に驚きの声を上げる。
貴愛奈は高貴な顔を崩さず、続けた。
「守華は私の侍衛。連れて行くわ」
「陛下にも許可をいただいたのよ。守華、それでも蘭明について行くつもり?」
守華は一歩前に出て頭を下げる。
「承知いたしました。この守華、蘭皇が留守の間、命に代えて貴愛奈さまをお守りいたします」
満足げに微笑む貴愛奈は、守華の隣を通り過ぎて去っていった。
「守華、なんで承諾なんてするんだ!?」
「そうですよ!私が代わりに貴愛奈さまの護衛をしますから、守華さまは蘭皇についていってください」
「ありがとう。でも、琉璃、あなたの腕は私より優れている。何かと蘭明を助け、八軒との連携も完璧にできるのはあなたよ。だから、私の代わりに蘭明を守って、山賊をおさえつけてきて」
「守華さまーーー!」
「蘭明、大丈夫よ。私の強さはわかってるでしょ」
蘭明が守華に近づき、真剣な瞳で応える。
「そうだな。守華の強さは誰もかなわない。なるべく早く帰ってくるから」
「わかったわ」




