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守る華・守られる花  作者: ミシル
第一章 蘭

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46.ライバル現る

去年より早く咲いた桜は、もう散ってしまった。

けれど今、桜音亭の庭にはさまざまな花が咲き誇り、

色鮮やかな景色が広がっている。


暖かな風にのって、花々の香りが庭いっぱいに満ちる。


誕生日に贈られた蘭の簪を、守華は毎日髪に挿していた。

鏡に映るその姿を見るたびに、胸の奥が温かくなる。


これまで数えきれないほどの出来事を乗り越えてきた。

けれど今は、ただ穏やかで、平凡な日々。

その「当たり前」が何よりの幸せだった。


隣には、いつも蘭明がいてくれる。

そして、支えてくれる小心と琉璃。

いざというときに心強い八軒。

少し抜けているけれど場を和ませてくれる白鋭。


海尭とは、あの戦へとついていくと文を渡してから、

顔を合わせていない。

それでも、いつも支えてくれたことは忘れていない。


――ただ、みんなが傍にいてくれるだけでいい。


石の存在も、日本に帰るという思いも、

守華の心から少しずつ薄れていこうとしていた。


もちろん今も、守華は蘭明の侍衛として傍に控えていた。


蘭明は庭の池に身を屈め、悠々と泳ぐ鯉に餌を投げている。

ぱくぱくと口を開けて群がる鯉の姿が可笑しくて、守華も隣で笑いながら餌を放った。


その少し後ろには、八軒と白鋭が静かに立っている。


_____たっ、たっ、たっ、たっ、たっ。


小走りで近づく足音に気づき、守華は餌を投げる手を止めてすぐに立ち上がった。

視線を音の方へ向けた、その瞬間――


「らんめーーーーーい!」


澄んだ、けれどやけに甲高い女性の声が響いた。

勢いよく抱きつかれた蘭明は、思わずよろめく。


守華の目の前で、薄桃色の漢服をひらめかせた女性が蘭明の胸元に飛び込んでいた。

艶やかな黒髪には、煌めく簪が何本も差し込まれてゆらゆらと揺れ、頬は淡く色づき、唇には鮮やかな紅。

小さな顔に、しなやかな肢体。しかも目を引くほど豊かな胸元――まさに「美しい」と呼ぶにふさわしい女。

日本にいれば、間違いなくトップモデルとして脚光を浴びていただろう。


――蘭明!?ですって!?


呼んだのは“蘭皇”ではなく、私だけが知るはずの名。

どうして、この女が…?


守華は信じられない思いで目を見開き、蘭明にしなだれかかる女性を凝視する。

後ろでは、白鋭が手を口に当て、息を呑んでいた。


蘭明は慌てて、抱きついてきた女性の両肩を掴み、ぐっと身体を引き離した。


「……貴愛奈きあな?」


名を呼ばれた女性は、ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべる。

「やっと……やっとお会いできました」


そう言うや否や、再び蘭明の首へ腕を回し、甘えるように身を寄せた。


その光景を、守華はただ呆然と見つめるしかなかった。

誰の目にも分かる。

気品ある装い、整った顔立ち――この女性がどこか高貴な身分の娘であることは明らかだ。


だからこそ、侍衛の立場である守華には、言葉を挟むことなどできない。

唇を噛みしめるしかなかった。


やがて、貴愛奈の視線が守華を捉えた。

「蘭明、この方は……?」


腕を離しながらも、探るような目を守華に向ける。


「あっ、しゅ――」


「守華と申します!」


蘭明が言いかけたその声を遮り、守華はわざと大きくはっきりと名乗った。


思わず目を見開く蘭明。


「蘭皇の侍衛を務めております」


「……女性のあなたが?」


侮るように、上から下まで視線で値踏みする貴愛奈。


そのとき、静かに一歩前に出た八軒が深く一礼し、低い声で告げた。

「貴愛奈さま。守華は男よりも剣の腕が立つ者にございます」


守華の胸の鼓動は高鳴り続けていた。


「そうなのね」


興味があるのか、全くないのか――

守華に関しては、それだけで終わった。


――そのあと、貴愛奈の目がキラリと光る。

「この日を、ずっと待ち望んでおりましたのよ、蘭明」


輝く瞳で蘭明を見つめるその姿に、思わず息を呑む。


「何がだ?」

「えっ……聞いていらっしゃらないのですか?」


不思議そうな顔をする蘭明を見て、貴愛奈は少し得意げに告げる。

「私たち、結婚するんですよ!」


「結婚!???」


驚きの声をあげる蘭明――その隣で、守華の驚きはさらに大きかった。

思わず口が開き、身体が固まる。

その場の空気も、時間まで止まったかのように感じられた。


――必死に平静を装う守華。

「外の見回りに行ってきます」


一礼して、足早に蘭明と貴愛奈の横を通り抜ける。

不安げに守華を見つめる蘭明は、すぐに白鋭に合図を送り、白鋭も一礼して守華の後を追った。


――思わず逃げ出してしまった自分に気づく。


屋敷の外、一歩踏み出すと、晴れ渡る空が守華を迎える。

こんなに空は青いのに、私の心は厚い雲に覆われている。


頭の中で、色んな妄想が渦巻く。


「守華さまー、守華さまーーー!」


白鋭の息切れした声が背後から迫ってきた。


「あら、白鋭。そんなに息切らしてどうしたの?」


____はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――


両膝に手をつき、息を整える白鋭。

「ちょっと待ってください……」という顔で、必死に呼吸を整えている。


「白鋭もたまには運動したほうがいいんじゃない?」


守華はハハハーと笑い、白鋭を置き去りにして、軽やかに外へ歩き出す。


息がまだ整わない白鋭は、はぁ、はぁ、と言いながら必死に守華の後を追う。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよーー!」


「守華さま、落ち込んでる様子じゃなくてよかったです」


「え? なんで落ち込むのよ?」


白鋭は「え?」という表情で拍子抜けしている。


「だって、蘭皇と貴愛奈さまが……」


「ふ〜ん、蘭明だって皇子なのよ。1人や2人、そんな話が出るのは当たり前よ」


守華は白鋭に平然と見せていたが、内心では焦りと落ち込みが入り混じる。


「まぁ、一応聞くけど、誰?」


「貴愛奈さまのことですか?」


「他に誰がいるのよ!」


守華は白鋭の尻を軽く叩く。

少し八つ当たり気味だった。


お尻を押さえて白鋭は飛び上がるが、守華は気にせず屋敷の塀沿いをスタスタと歩く。


「待ってくださいってーー!」


痛いお尻を押さえながら小走りで追いかける白鋭。


「そんなに痛くないでしょ? 大げさね」


横目で白鋭を見て、冷たくあしらう守華。


「いや、いや、守華さま、鍛えていたので……意外と強くて」


白鋭がチラッと守華を見て、つぶやく。

「しかも……やっぱり怒ってる……」


「何か言った?」


「い、いえ……」


小声で答えたつもりだったが、守華には聞こえていた。

低く、怒りに満ちたその声に、白鋭の背筋はピンと張る。


「貴愛奈さまは皇后のご友人の娘、楽士国の公主でございます。」


守華は歩きながら、白鋭の話に耳を傾ける。


「貴愛奈さまのお母様は、よく貴愛奈さまを連れてこの陽月国に遊びにいらしていました。私が蘭皇の元に参ったときには、すでに海皇、蘭皇、星皇とも親しくされており、特に年の近い海皇と蘭皇とは常に一緒に過ごしていました。帰る際には抱きついて離れず、しばしば困らせていたほどです。」


「幼馴染みってことか……」


「ただし、貴愛奈さまのお母様が亡くなられてからは、陽月国に訪れることもなくなりました。ですので、貴愛奈さまがここに来るのは十数年ぶりでしょう。きっと蘭皇だけでなく、海皇とも再会はあったはずですが、なぜ結婚話が蘭皇とだけ出たのか、私にも分かりません」


「そうなんだ……」


知らなかった蘭明の幼い頃のこと。

なんだか、少し遠い存在に感じてしまう。


公主という立場を持つ女性との婚姻話。

比べれば、自分には身分も出自も分からない。

そう、立場ある女性との結婚のほうが、蘭明にとっても、この陽月国にとっても自然な選択だろう。


そして、私との未来は、約束できない――守華は小さく心で呟いた。





-----


「守華は?」


普段なら、守華はこの時間には蘭明の部屋にいるはずだが、今日は来ていない。


「今日は少し用があると申しておりました。休むそうです」


白鋭が蘭明の帯を整える前で、八軒が答える。


「そうか……」


「ところで、蘭皇、貴愛奈さまとの結婚の話はどうなっているのですか?しかも、嫁ぐのは楽士国だとか……」


帯を締め終えた白鋭が、少し戸惑いながらも蘭明に問う。


「楽士国には皇子がいないからな。でも、私は結婚しない」


「でも、陛下の意向に逆らえば……」


「分かっている。だから、何か策を考えているところだ」


「それにしても、海皇のほうが先のはずなのに、なぜ蘭皇なのでしょう?」


蘭明は険しい顔になり、しばし沈黙して考え込む。


「……何か事情がありそうだが、当分は貴愛奈を陽月国に滞在させることになるだろう。守華のことも、頼む」


「「はい」」



どんな顔で蘭明と会えばいいのか分からず、守華は初めて侍衛の任務を休んだ。


ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋める。


「守華さま、きっと蘭皇がなんとかしてくれますよ」

「そうですよ。蘭皇の心の中にいるのは守華さまだけですから」


元気のない守華を、小心と琉璃が慰める声が部屋に響く。


「でも、陛下の命よね……命に背いたらどうなるの?」


二人はしばらく気まずそうに目を合わせ、口ごもる。


その様子に守華は小さくため息をついた。


「じゃあ、気分転換に町に行きましょう!もう蘭皇も出ているはずですし、町に出ても見つかりませんよ」


琉璃がベッドに腰を下ろし、守華を優しく揺すって起こす。


「……わかったわ。行きましょう!」


普段なら大好きな町歩きも、今日はどこか気が重い。

侍衛ではない今日は、動きやすい短めのスカートの服に着替え、小心と琉璃を伴って町へと向かった。


いつもと変わらない町並みなのに、


店主と客のやり取りの声、

子供たちの遊ぶ声や泣き声、

若い娘たちのキャッキャッと騒ぐ声——


賑やかなはずの町が、今日は守華の耳には届かない。


「……さま!守華さま!」


小心に何度か呼ばれて、ようやく我に返る。


「あ、ごめん。ぼーっとしてた」


「もう、守華さまったら!守華さまの大好きなさんざし飴、買ってきましたよ」


笑顔で差し出す小心に、守華も微かに笑顔を返す。


「ありがとう……」


そう言いかけた瞬間、守華の視線は自然と一点に吸い寄せられた——


そこには、笑い合う蘭明と貴愛奈の姿があった。


守華の周りは、まるで世界が白黒に変わったかのようだった。


蘭明と貴愛奈だけが、鮮やかに色づいて見える——。


受け取ろうとしていたさんざし飴は、手から滑り落ち、地面に転がった。


小心と琉璃も、守華の視線の先に目を向ける。


そこには、笑い合う蘭明と貴愛奈がいた。


貴愛奈はそっと蘭明の帯に香り袋を結んでいる。


女性から男性への香り袋——それは、

“愛の告白”。


受け取るか、受け取らないかで答えは明白だ。


蘭明はためらうことなく、その香り袋を受け取った。


その瞬間、香り袋に目を落としていた蘭明が顔を上げ、守華と真っ直ぐ目が合う。


「守華……」


かすかに、聞こえるか聞こえないかくらいの声。


蘭明も、守華の存在に気づき、そこで一瞬固まった。


守華はそのまま振り返り、思わず駆け出す。


蘭明は貴愛奈をその場に残し、守華を追いかけた。


「蘭明!?」


貴愛奈の声は、周囲のざわめきにかき消されていった。


苦しい……。


蘭明の隣は、私だけだと勝手に思っていた。


分かっている。私が隣にいるべきじゃないことは分かっている。

いや、貴愛奈さまが来て、痛いほど思い知らされたのだ。


そう、私はずっと蘭明と一緒にいられない——。


胸が締めつけられ、息ができない。

苦しくて、苦しくて……誰か、助けて……。


無我夢中で走る守華。


「守華」


叫ぶ声とともに、守華の手が掴まれた。


振り向くと——そこには、海尭がいた。


久しぶりに会う海尭の優しい顔に、守華は思わず安堵を覚える。


その悲しげな表情に気づいた海尭は、守華の腕を引き寄せ、そっと抱き寄せた。


守華は、何も拒まなかった。


今は、誰かにすがりたい——ただその思いだけだった。


その光景を追いかけてきた蘭明も、目にしていた。


蘭明の表情は、守華の苦しみと同じく、悲しげだった。


いつもなら——抱き寄せられている守華を見れば、すぐに引き離しに走るだろう。

だが、今の蘭明には、その一歩を踏み出す勇気がなかった。


抱き合う守華と海尭を、ただ見守るしかできない自分。


目は笑っていなかったが、かすかに唇が弧を描くように笑う。

そして、守華と海尭を背に、蘭明は静かに貴愛奈のもとへ戻っていった。


守華は海尭の屋敷にいた。


「ここ、久しぶりね!海尭も元気にしてた?全然顔を見せないんだもん」


海尭はにっこり微笑むだけで答える。


「あのときはごめんね。文だけ残して」


「構わないさ。少しは落ち着いたか?」


海尭に軽く抱き寄せられて、守華はしばらくすると落ち着きを取り戻した。


「うん、ありがとう、海尭」


「聞いたよ。貴愛奈と蘭明が結婚するって」


「そうみたいね。おめでたいことだから、ちゃんと祝ってあげないと」


「本当にいいのか?」


守華が首をかしげる。


「蘭明のこと、好きなんだろ?」


「・・・・・」


「私に隠すつもりか?」


守華は小さく首を横に振る。


少し笑みを浮かべる海尭。


「今さらだけど…確かに、私も守華に惹かれていたよ」


それを聞いた守華は、お茶を思わずブハッと噴き出した。


「あっ、ごめんなさい!」


「知っていると思ってたんだが…まさかこんな状況で愛の告白することになるとはな」


少し気まずさがふわりと漂った。


「でも、守華は私のことを見ていないと分かった。あきらめようと思ったんだ。でも、守華を預かると聞いたとき、まだチャンスはあるかもしれないと、心のどこかで期待していた…でも、そんな私の気持ちをよそに、守華は蘭明についていってしまった」


「・・・・・」


「だから決心したんだ。諦めようって。気持ちの整理がつくまでは、守華に会わないようにしていた」


「ご、ごめんなさい…」


声が震え、かすかになる守華。


「蘭明のこと、好きなんだろ?」


コクンと頷く守華。


「今日、たまたま会ってしまったのは誤算だったけど…好きじゃないと言えば嘘になるかもしれない。でも、守華は可愛い、私の妹だ」


下を向いていた守華は、そっと海尭に顔を向ける。


こんな優しいお兄ちゃん、どこにもいない。


自分の気持ちを押し込めて、相手を思いやることができるなんて。


私もここに来たとき、海尭のことを少し気にしていた。


見知らぬ私に最初から優しくしてくれたのは海尭だった。


あのとき、怖がらないように優しい声をかけ、豚まんをくれたから、私は元気になれた。


いつも私を優しく見守り、助けてくれる。


私のヒーロー。


でも、それはただ“愛おしい”と思う気持ちであって、恋する“好き”ではないとわかった。

私が心から愛しいと思うのは、蘭明なんだ。


「どんなに辛いことを経験しても強気だった守華が、蘭明のことになると弱気になるのか?…そんなの、私が好きになった守華じゃないな」


海尭はニコッと微笑む。

その言葉で、ハッと自覚する。

蘭明と一緒にいるうちに、知らず知らず弱気になっていた自分に。


未来がどうなるかなんて、ここにいようが日本にいようが同じこと。

分からないんだから、考えても仕方がない。

でも、今、この瞬間、蘭明を幸せにできるのは私だけ。


そうよ、私よ!

強気で前向きなのが、私の取り柄!

きっと、なるようになる!!


_____バン!!


勢いよく立ち上がる守華。

胸の奥からメキメキと熱い想いが湧き上がる。


「海尭、ありがとう!さすが私のヒーロー!」


そう叫び、守華は駆け出していった。

その背中を見送りながら、海尭は微笑む。


「ヒーロー…とはなんだ?」

首をかしげ、ボソリと呟いた。

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