46.ライバル現る
去年より早く咲いた桜は、もう散ってしまった。
けれど今、桜音亭の庭にはさまざまな花が咲き誇り、
色鮮やかな景色が広がっている。
暖かな風にのって、花々の香りが庭いっぱいに満ちる。
誕生日に贈られた蘭の簪を、守華は毎日髪に挿していた。
鏡に映るその姿を見るたびに、胸の奥が温かくなる。
これまで数えきれないほどの出来事を乗り越えてきた。
けれど今は、ただ穏やかで、平凡な日々。
その「当たり前」が何よりの幸せだった。
隣には、いつも蘭明がいてくれる。
そして、支えてくれる小心と琉璃。
いざというときに心強い八軒。
少し抜けているけれど場を和ませてくれる白鋭。
海尭とは、あの戦へとついていくと文を渡してから、
顔を合わせていない。
それでも、いつも支えてくれたことは忘れていない。
――ただ、みんなが傍にいてくれるだけでいい。
石の存在も、日本に帰るという思いも、
守華の心から少しずつ薄れていこうとしていた。
もちろん今も、守華は蘭明の侍衛として傍に控えていた。
蘭明は庭の池に身を屈め、悠々と泳ぐ鯉に餌を投げている。
ぱくぱくと口を開けて群がる鯉の姿が可笑しくて、守華も隣で笑いながら餌を放った。
その少し後ろには、八軒と白鋭が静かに立っている。
_____たっ、たっ、たっ、たっ、たっ。
小走りで近づく足音に気づき、守華は餌を投げる手を止めてすぐに立ち上がった。
視線を音の方へ向けた、その瞬間――
「らんめーーーーーい!」
澄んだ、けれどやけに甲高い女性の声が響いた。
勢いよく抱きつかれた蘭明は、思わずよろめく。
守華の目の前で、薄桃色の漢服をひらめかせた女性が蘭明の胸元に飛び込んでいた。
艶やかな黒髪には、煌めく簪が何本も差し込まれてゆらゆらと揺れ、頬は淡く色づき、唇には鮮やかな紅。
小さな顔に、しなやかな肢体。しかも目を引くほど豊かな胸元――まさに「美しい」と呼ぶにふさわしい女。
日本にいれば、間違いなくトップモデルとして脚光を浴びていただろう。
――蘭明!?ですって!?
呼んだのは“蘭皇”ではなく、私だけが知るはずの名。
どうして、この女が…?
守華は信じられない思いで目を見開き、蘭明にしなだれかかる女性を凝視する。
後ろでは、白鋭が手を口に当て、息を呑んでいた。
蘭明は慌てて、抱きついてきた女性の両肩を掴み、ぐっと身体を引き離した。
「……貴愛奈?」
名を呼ばれた女性は、ぱっと花が咲いたような笑みを浮かべる。
「やっと……やっとお会いできました」
そう言うや否や、再び蘭明の首へ腕を回し、甘えるように身を寄せた。
その光景を、守華はただ呆然と見つめるしかなかった。
誰の目にも分かる。
気品ある装い、整った顔立ち――この女性がどこか高貴な身分の娘であることは明らかだ。
だからこそ、侍衛の立場である守華には、言葉を挟むことなどできない。
唇を噛みしめるしかなかった。
やがて、貴愛奈の視線が守華を捉えた。
「蘭明、この方は……?」
腕を離しながらも、探るような目を守華に向ける。
「あっ、しゅ――」
「守華と申します!」
蘭明が言いかけたその声を遮り、守華はわざと大きくはっきりと名乗った。
思わず目を見開く蘭明。
「蘭皇の侍衛を務めております」
「……女性のあなたが?」
侮るように、上から下まで視線で値踏みする貴愛奈。
そのとき、静かに一歩前に出た八軒が深く一礼し、低い声で告げた。
「貴愛奈さま。守華は男よりも剣の腕が立つ者にございます」
守華の胸の鼓動は高鳴り続けていた。
「そうなのね」
興味があるのか、全くないのか――
守華に関しては、それだけで終わった。
――そのあと、貴愛奈の目がキラリと光る。
「この日を、ずっと待ち望んでおりましたのよ、蘭明」
輝く瞳で蘭明を見つめるその姿に、思わず息を呑む。
「何がだ?」
「えっ……聞いていらっしゃらないのですか?」
不思議そうな顔をする蘭明を見て、貴愛奈は少し得意げに告げる。
「私たち、結婚するんですよ!」
「結婚!???」
驚きの声をあげる蘭明――その隣で、守華の驚きはさらに大きかった。
思わず口が開き、身体が固まる。
その場の空気も、時間まで止まったかのように感じられた。
――必死に平静を装う守華。
「外の見回りに行ってきます」
一礼して、足早に蘭明と貴愛奈の横を通り抜ける。
不安げに守華を見つめる蘭明は、すぐに白鋭に合図を送り、白鋭も一礼して守華の後を追った。
――思わず逃げ出してしまった自分に気づく。
屋敷の外、一歩踏み出すと、晴れ渡る空が守華を迎える。
こんなに空は青いのに、私の心は厚い雲に覆われている。
頭の中で、色んな妄想が渦巻く。
「守華さまー、守華さまーーー!」
白鋭の息切れした声が背後から迫ってきた。
「あら、白鋭。そんなに息切らしてどうしたの?」
____はぁ、はぁ、はぁ、はぁ――
両膝に手をつき、息を整える白鋭。
「ちょっと待ってください……」という顔で、必死に呼吸を整えている。
「白鋭もたまには運動したほうがいいんじゃない?」
守華はハハハーと笑い、白鋭を置き去りにして、軽やかに外へ歩き出す。
息がまだ整わない白鋭は、はぁ、はぁ、と言いながら必死に守華の後を追う。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよーー!」
「守華さま、落ち込んでる様子じゃなくてよかったです」
「え? なんで落ち込むのよ?」
白鋭は「え?」という表情で拍子抜けしている。
「だって、蘭皇と貴愛奈さまが……」
「ふ〜ん、蘭明だって皇子なのよ。1人や2人、そんな話が出るのは当たり前よ」
守華は白鋭に平然と見せていたが、内心では焦りと落ち込みが入り混じる。
「まぁ、一応聞くけど、誰?」
「貴愛奈さまのことですか?」
「他に誰がいるのよ!」
守華は白鋭の尻を軽く叩く。
少し八つ当たり気味だった。
お尻を押さえて白鋭は飛び上がるが、守華は気にせず屋敷の塀沿いをスタスタと歩く。
「待ってくださいってーー!」
痛いお尻を押さえながら小走りで追いかける白鋭。
「そんなに痛くないでしょ? 大げさね」
横目で白鋭を見て、冷たくあしらう守華。
「いや、いや、守華さま、鍛えていたので……意外と強くて」
白鋭がチラッと守華を見て、つぶやく。
「しかも……やっぱり怒ってる……」
「何か言った?」
「い、いえ……」
小声で答えたつもりだったが、守華には聞こえていた。
低く、怒りに満ちたその声に、白鋭の背筋はピンと張る。
「貴愛奈さまは皇后のご友人の娘、楽士国の公主でございます。」
守華は歩きながら、白鋭の話に耳を傾ける。
「貴愛奈さまのお母様は、よく貴愛奈さまを連れてこの陽月国に遊びにいらしていました。私が蘭皇の元に参ったときには、すでに海皇、蘭皇、星皇とも親しくされており、特に年の近い海皇と蘭皇とは常に一緒に過ごしていました。帰る際には抱きついて離れず、しばしば困らせていたほどです。」
「幼馴染みってことか……」
「ただし、貴愛奈さまのお母様が亡くなられてからは、陽月国に訪れることもなくなりました。ですので、貴愛奈さまがここに来るのは十数年ぶりでしょう。きっと蘭皇だけでなく、海皇とも再会はあったはずですが、なぜ結婚話が蘭皇とだけ出たのか、私にも分かりません」
「そうなんだ……」
知らなかった蘭明の幼い頃のこと。
なんだか、少し遠い存在に感じてしまう。
公主という立場を持つ女性との婚姻話。
比べれば、自分には身分も出自も分からない。
そう、立場ある女性との結婚のほうが、蘭明にとっても、この陽月国にとっても自然な選択だろう。
そして、私との未来は、約束できない――守華は小さく心で呟いた。
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「守華は?」
普段なら、守華はこの時間には蘭明の部屋にいるはずだが、今日は来ていない。
「今日は少し用があると申しておりました。休むそうです」
白鋭が蘭明の帯を整える前で、八軒が答える。
「そうか……」
「ところで、蘭皇、貴愛奈さまとの結婚の話はどうなっているのですか?しかも、嫁ぐのは楽士国だとか……」
帯を締め終えた白鋭が、少し戸惑いながらも蘭明に問う。
「楽士国には皇子がいないからな。でも、私は結婚しない」
「でも、陛下の意向に逆らえば……」
「分かっている。だから、何か策を考えているところだ」
「それにしても、海皇のほうが先のはずなのに、なぜ蘭皇なのでしょう?」
蘭明は険しい顔になり、しばし沈黙して考え込む。
「……何か事情がありそうだが、当分は貴愛奈を陽月国に滞在させることになるだろう。守華のことも、頼む」
「「はい」」
どんな顔で蘭明と会えばいいのか分からず、守華は初めて侍衛の任務を休んだ。
ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋める。
「守華さま、きっと蘭皇がなんとかしてくれますよ」
「そうですよ。蘭皇の心の中にいるのは守華さまだけですから」
元気のない守華を、小心と琉璃が慰める声が部屋に響く。
「でも、陛下の命よね……命に背いたらどうなるの?」
二人はしばらく気まずそうに目を合わせ、口ごもる。
その様子に守華は小さくため息をついた。
「じゃあ、気分転換に町に行きましょう!もう蘭皇も出ているはずですし、町に出ても見つかりませんよ」
琉璃がベッドに腰を下ろし、守華を優しく揺すって起こす。
「……わかったわ。行きましょう!」
普段なら大好きな町歩きも、今日はどこか気が重い。
侍衛ではない今日は、動きやすい短めのスカートの服に着替え、小心と琉璃を伴って町へと向かった。
いつもと変わらない町並みなのに、
店主と客のやり取りの声、
子供たちの遊ぶ声や泣き声、
若い娘たちのキャッキャッと騒ぐ声——
賑やかなはずの町が、今日は守華の耳には届かない。
「……さま!守華さま!」
小心に何度か呼ばれて、ようやく我に返る。
「あ、ごめん。ぼーっとしてた」
「もう、守華さまったら!守華さまの大好きなさんざし飴、買ってきましたよ」
笑顔で差し出す小心に、守華も微かに笑顔を返す。
「ありがとう……」
そう言いかけた瞬間、守華の視線は自然と一点に吸い寄せられた——
そこには、笑い合う蘭明と貴愛奈の姿があった。
守華の周りは、まるで世界が白黒に変わったかのようだった。
蘭明と貴愛奈だけが、鮮やかに色づいて見える——。
受け取ろうとしていたさんざし飴は、手から滑り落ち、地面に転がった。
小心と琉璃も、守華の視線の先に目を向ける。
そこには、笑い合う蘭明と貴愛奈がいた。
貴愛奈はそっと蘭明の帯に香り袋を結んでいる。
女性から男性への香り袋——それは、
“愛の告白”。
受け取るか、受け取らないかで答えは明白だ。
蘭明はためらうことなく、その香り袋を受け取った。
その瞬間、香り袋に目を落としていた蘭明が顔を上げ、守華と真っ直ぐ目が合う。
「守華……」
かすかに、聞こえるか聞こえないかくらいの声。
蘭明も、守華の存在に気づき、そこで一瞬固まった。
守華はそのまま振り返り、思わず駆け出す。
蘭明は貴愛奈をその場に残し、守華を追いかけた。
「蘭明!?」
貴愛奈の声は、周囲のざわめきにかき消されていった。
苦しい……。
蘭明の隣は、私だけだと勝手に思っていた。
分かっている。私が隣にいるべきじゃないことは分かっている。
いや、貴愛奈さまが来て、痛いほど思い知らされたのだ。
そう、私はずっと蘭明と一緒にいられない——。
胸が締めつけられ、息ができない。
苦しくて、苦しくて……誰か、助けて……。
無我夢中で走る守華。
「守華」
叫ぶ声とともに、守華の手が掴まれた。
振り向くと——そこには、海尭がいた。
久しぶりに会う海尭の優しい顔に、守華は思わず安堵を覚える。
その悲しげな表情に気づいた海尭は、守華の腕を引き寄せ、そっと抱き寄せた。
守華は、何も拒まなかった。
今は、誰かにすがりたい——ただその思いだけだった。
その光景を追いかけてきた蘭明も、目にしていた。
蘭明の表情は、守華の苦しみと同じく、悲しげだった。
いつもなら——抱き寄せられている守華を見れば、すぐに引き離しに走るだろう。
だが、今の蘭明には、その一歩を踏み出す勇気がなかった。
抱き合う守華と海尭を、ただ見守るしかできない自分。
目は笑っていなかったが、かすかに唇が弧を描くように笑う。
そして、守華と海尭を背に、蘭明は静かに貴愛奈のもとへ戻っていった。
守華は海尭の屋敷にいた。
「ここ、久しぶりね!海尭も元気にしてた?全然顔を見せないんだもん」
海尭はにっこり微笑むだけで答える。
「あのときはごめんね。文だけ残して」
「構わないさ。少しは落ち着いたか?」
海尭に軽く抱き寄せられて、守華はしばらくすると落ち着きを取り戻した。
「うん、ありがとう、海尭」
「聞いたよ。貴愛奈と蘭明が結婚するって」
「そうみたいね。おめでたいことだから、ちゃんと祝ってあげないと」
「本当にいいのか?」
守華が首をかしげる。
「蘭明のこと、好きなんだろ?」
「・・・・・」
「私に隠すつもりか?」
守華は小さく首を横に振る。
少し笑みを浮かべる海尭。
「今さらだけど…確かに、私も守華に惹かれていたよ」
それを聞いた守華は、お茶を思わずブハッと噴き出した。
「あっ、ごめんなさい!」
「知っていると思ってたんだが…まさかこんな状況で愛の告白することになるとはな」
少し気まずさがふわりと漂った。
「でも、守華は私のことを見ていないと分かった。あきらめようと思ったんだ。でも、守華を預かると聞いたとき、まだチャンスはあるかもしれないと、心のどこかで期待していた…でも、そんな私の気持ちをよそに、守華は蘭明についていってしまった」
「・・・・・」
「だから決心したんだ。諦めようって。気持ちの整理がつくまでは、守華に会わないようにしていた」
「ご、ごめんなさい…」
声が震え、かすかになる守華。
「蘭明のこと、好きなんだろ?」
コクンと頷く守華。
「今日、たまたま会ってしまったのは誤算だったけど…好きじゃないと言えば嘘になるかもしれない。でも、守華は可愛い、私の妹だ」
下を向いていた守華は、そっと海尭に顔を向ける。
こんな優しいお兄ちゃん、どこにもいない。
自分の気持ちを押し込めて、相手を思いやることができるなんて。
私もここに来たとき、海尭のことを少し気にしていた。
見知らぬ私に最初から優しくしてくれたのは海尭だった。
あのとき、怖がらないように優しい声をかけ、豚まんをくれたから、私は元気になれた。
いつも私を優しく見守り、助けてくれる。
私のヒーロー。
でも、それはただ“愛おしい”と思う気持ちであって、恋する“好き”ではないとわかった。
私が心から愛しいと思うのは、蘭明なんだ。
「どんなに辛いことを経験しても強気だった守華が、蘭明のことになると弱気になるのか?…そんなの、私が好きになった守華じゃないな」
海尭はニコッと微笑む。
その言葉で、ハッと自覚する。
蘭明と一緒にいるうちに、知らず知らず弱気になっていた自分に。
未来がどうなるかなんて、ここにいようが日本にいようが同じこと。
分からないんだから、考えても仕方がない。
でも、今、この瞬間、蘭明を幸せにできるのは私だけ。
そうよ、私よ!
強気で前向きなのが、私の取り柄!
きっと、なるようになる!!
_____バン!!
勢いよく立ち上がる守華。
胸の奥からメキメキと熱い想いが湧き上がる。
「海尭、ありがとう!さすが私のヒーロー!」
そう叫び、守華は駆け出していった。
その背中を見送りながら、海尭は微笑む。
「ヒーロー…とはなんだ?」
首をかしげ、ボソリと呟いた。




