41.勅命下る
カツ、カツ、カツ、カツ……
硬い靴音が、やけに広く長い廊下に反響する。
灯りに照らされた大理石の床は冷ややかで、その一歩一歩が緊張を煽るようだった。
「陛下も、この時期に蘭皇をお呼びになるとは……いかがなされるおつもりでしょうか」
背後から控えめに問いかける声。
「さあな。海皇や星皇の姿もなく、我のみ呼ばれた。――行けば分かろう」
低く答える蘭明の表情は揺らがない。
やがて辿り着いた扉の向こうには、煌めくほど荘厳な部屋が広がっていた。
中央には重厚な机、その奥に威厳を漂わせる皇帝陛下が鎮座している。
傍らには寡黙な無観が影のように控えていた。
八軒は廊下で待機し、蘭明ただ一人が部屋へと進む。
静かに歩を進め、陛下の前で深く一礼した。
「父上に、ご挨拶申し上げます」
「蘭皇よ――傷を負ったと聞いた。具合はどうだ」
重々しい声が室内に響く。
「はっ。すでに支障なく、問題ございません」
「そうか……。刺客に狙われたと聞いたが、真か」
「はい」
「その首魁、いずこか突き止めたか」
「いえ、未だ調査の途上にございます」
「……よい。何かあれば、朕に報せよ」
「有り難きお言葉」
再び深々と頭を垂れる蘭明。その姿は、皇子ではなく、一人の忠実なる臣のようであった。
「実はな、彩国が陽月国に再び迫ってきておると情報が入った」
「彩国が!? 一度鎮めたはずなのに、また来るとは……」
「一度手を合わせたそなたなら、彩国の恐ろしさもよく分かっておるだろう」
「はっ……」
蘭明は拳を握り、静かにうつむいた。
彩国――。あの時、守華が空から降ってきた混乱の最中に戦った相手。
領土欲しさに攻め込んできた敵国。その力は凄まじく、蘭明の力をもってしても押し返すのがやっとだった。
勝利はした。だが、あれは紙一重。決して楽な相手ではない。
「そこで蘭皇、今回もそなたに指揮を任せたい。どうかね?」
「……はい! この蘭明、命を賭してお受けいたします」
「うむ。では、国の未来を託すぞ」
「はっ!」
その声は玉座の間に響き渡り、蘭明の胸に重く、そして熱く刻まれた。
部屋をあとにして外へ出ると、八軒が静かに後ろについた。
蘭明は一歩も迷いを見せずに告げる。
「八軒、遠征だ」
「遠征!? 相手は……?」
「彩国だ」
「彩国……!」
二人の顔に険しさが走る。ちょうどそのとき、前方から皇后が歩いてきた。
二人は立ち止まり、深く一礼する。
「蘭皇よ、聞いたぞ。彩国との戦が始まると」
「はい」
「もしや、守華を連れて行くつもりではあるまいな?」
「いえ。守華は……ここに置いていきます」
「そうか、それでよい。たとえ“勝利の女神”と呼ばれていようと、女子を戦場に立たせるのは賢明ではないからな」
皇后は満足げにうなずき、すれ違いざまに視線を残して去っていった。
蘭明は頭を下げたまま、黙してその背を見送る。
「……守華さまを、連れて行かれないのですか?」
八軒がおずおずと口を開く。
「あぁ。彩国は手強い。そんな場所へ守華を連れていくことはできん」
「ですが……蘭皇や私も共に遠征に出れば、こちらに残る守華さまは刺客に狙われるやもしれません」
その言葉に、蘭明の表情は固くなった。沈黙ののち、低く答える。
「……琉璃がいる。あとは――海皇に託す」
わずかに悔しさをにじませながらも、決断の声だった。
「そ、そうでしたか! 海皇さまがいらっしゃるなら安心ですね!」
八軒は勢いのままに明るく返してしまい、言った瞬間に口を押さえる。
恐る恐る蘭明を見やると、鋭い眼差しが返ってきた。
「……」
八軒は肩をすくめ、しゅんと小さくなって視線を落とすしかなかった。
「おかえりなさい、蘭明」
扉が開くや否や、守華は弾かれるように蘭明へ飛び込んだ。
胸に顔を埋め、ぎゅっと抱きつく。
「ふふ、ちゃんとお利口にしていたか?」
冗談めかす蘭明に、守華は頬をふくらませる。
「何よ、それじゃ子ども扱いじゃない」
本当は、宮廷へ行くと聞いて一緒に行くつもりだった。
けれど蘭明にやんわり止められ、胸の奥のもやもやを飲み込んで留守番していた。
蘭明の首に両手をまわす守華。その腰を自然に抱き寄せる蘭明。
ふたりの間に温もりが広がる一方で、蘭明の瞳はどこか翳っていた。
「……いきなり呼ばれたのは何だったの?」
「遠征に行くことになった」
「えっ……」
守華の手がほどけ、思わず一歩後ろへ下がる。
「いつ?」
「三日後にはここを立つ」
「そんな急に?」
「彩国の侵攻を止めるには、一刻も早く動かねばならない」
「それって……どれくらいかかるの?」
「分からない。彩国は手強い。長期戦になるかもしれん」
短いやり取りの中にも、胸に重い影が落ちてくる。
けれど守華はきっぱりと顔を上げた。
「……じゃあ、私も行く!」
蘭明の服を両手で揺さぶり、必死に見上げる。
「ダメだ」
「どうして?」
蘭明の声は低く、断固としていた。
「言っただろ。彩国は手強い。命を落とすかもしれないんだ」
「それは蘭明だって同じでしょ! だったら、そばにいたい。見送るだけなんて嫌よ!」
守華の叫びは、切実な願いでもあり、恐怖からの衝動でもあった。
「ダメなものはダメだ!」
蘭明の声が響く。彼自身を叱りつけるように。
「私が留守の間は海皇に守華のことを頼んでおく。だから……大人しく待っていてくれ」
その言葉には強さと同時に、深い優しさが滲んでいた。
蘭明は両手で守華の腕を掴み、真剣にその瞳を覗き込む。
守華は唇を噛みしめ、熱を帯びた目で彼を見返す。
離れたくない。そばにいたい。
守りたい。生かしたい。
ふたりの想いが真っ向からぶつかり合い、部屋の空気を張り詰めさせていた。
「……分かったわ。今回は蘭明の言うことを聞くわ。」
守華は悔しさを押し殺し、静かにうなずいた。
「いい子だ」
蘭明はやわらかな笑みを浮かべ、そっと守華の頭を撫でる。
「でも……そうなると、誕生日は一緒にお祝いできなさそうね」
守華の声が少し震え、瞳に切なさがにじんだ。
「一月で彩国を抑えて、必ず戻ってくる」
蘭明の言葉は揺るぎなく、力強かった。
「……本当?」
守華の表情にぱっと明るさが戻る。
「私を誰だと思っている?」
冗談めかしたその一言に、二人は思わず笑い合った。
けれど守華はすぐに真剣な顔に戻り、そっと言葉を添える。
「だからって無理はしないで。今年がダメでも……また来年、一緒に祝えばいいんだから」




