40.侍衛の日常
守華はまだ薄暗い朝の空気の中で目を覚ました。
胸の奥が高鳴って眠っていられなかったのだ。
昨日から用意していた服に袖を通す。
鮮やかすぎない深紅――ワインレッドの衣に黒い帯を締め、長い髪を高い位置でひとつに束ねる。
鏡に映った自分の姿に、守華は小さく拳を握った。
「よしっ!」
その瞬間、ドアが開き、小心が顔を覗かせる。
「あら、もうご準備を? 私の方が遅れてしまいましたね」
「いいのよ、楽しみすぎて早く起きちゃっただけだから!」
はしゃぐ守華に、小心は笑みを浮かべて背後から服のシワを伸ばす。
「でも……張り切りすぎないでくださいよ。任務まで八軒や琉璃のようにこなそうとしていますよね?」
「あはははー」
図星を突かれ、守華は苦笑いするしかない。
そこへ琉璃がふわりと現れる。
「私もいるんだから、頼ってくださいな」
「もちろん頼りにしてるわよー!」
守華は両手で琉璃の肩をつかみ、オーバーにうなずく。
そして三人は蘭明の部屋へ。
白鋭が着替えの手伝いをしていたが、蘭明は守華の声にすぐ振り向いた。
「守華か。入っていいぞ」
守華はその場でクルッと回ってみせる。
「どう? 似合ってる?」
くるくる回りすぎてふらついた瞬間、蘭明の腕が守華を支えた。
「……わざと転びそうになっただろう?」
「ち、ちがうわよ!」
顔を赤くして手を払いのける守華。
蘭明は唇の端を上げ、わざと挑発するように顔を近づける。
「そんなんで侍衛が務まるのか?」
「だ、大丈夫! 任せなさい!」
胸をバンバン叩いて見せる守華の手を、蘭明はそのまま掴んだ。
「どんな服を着ても守華は似合う」
不意打ちの言葉に、守華の頬は真っ赤になる。
「……う、うん」
その空気を壊すように、背後から八軒がわざと大きな咳払いをした。
慌てて二人は離れ、守華は琉璃の隣に立ち直る。
「蘭皇、そろそろお出かけの時刻です」
「ああ」
蘭明が前に歩み出し、その後ろに八軒、そして守華と琉璃がぴたりと付き従う。
――守華の「侍衛」としての一日が、いよいよ始まった。
守華のフリーダムが、待っていた。
「フリーダム!」
守華は勢いよく蘭明を通り越し、フリーダムに抱きついた。
久しぶりに会えた嬉しさに、つい蘭明の存在を忘れてしまったのだ。
「守華さま」
八軒の少し厳しい声に、はっと守華は振り向く。
「ごめんなさい」
すぐに蘭明に謝ると、彼は優しく微笑んだ。
「まぁ、いい」
その言葉に安心すると、守華は再びフリーダムに向き直る。
「これからはちょくちょく乗ってあげられそうよ。フリーダムも嬉しいでしょ?」
手で優しく撫でながら話しかける守華に、蘭明が声をかける。
「守華、行くぞ」
守華は慌ててフリーダムに乗り、歩き出した。
今日は、ここ数年穏やかだったものの、山賊の様子を確認するため山へ向かう日だ。
――とはいえ、任務は簡単。山中の村を訪れ、荒らされていないかを確認するだけ。
だから今日は蘭明、守華、琉璃、八軒の4人だけ。他の従者は同行していない。
おそらく蘭明が、守華の初任務に気を配り、無理のない簡単な任務を選んだのだろう。
守華はフリーダムの背に揺られながら、自然と笑みがこぼれる。
風を受け、木々の間を抜けるたびに、心の奥まで穏やかさが広がる。
「ふふ、やっぱりフリーダムは気持ちいいな」
でも、同時に蘭明のことも頭をよぎる。
目の前にいるのはフリーダムだけれど、守華の心はいつも蘭明のそばにある。
フリーダムが軽くジャンプするたび、守華は体をしっかり支えながら、幸せをかみしめる。
単純なことだけれど、朝起きて、蘭明のために動き、彼のそばで笑える日常が、どれだけ尊く大切か――
守華は改めて感じていた。
少し先を見据えると、山の向こうに村が見えた。
人々の笑顔や、のどかな生活風景を眺めながら、守華は心の中でそっと蘭明に感謝する。
「蘭明が私を信じて、こうやってそばにいてくれるから、私は安心して任務をこなせるんだ」
放し飼いの鶏がのんびりと道を横切り、畑では人々が笑いながら作業に励んでいる。
互いに声をかけ合い、助け合って暮らしている様子は、一目見ただけで伝わってきた。
村長に話を聞くと、やはり山賊はここ数か月、姿を現してはいないとのこと。
安堵した一行は、村の周囲を一回りして異常がないか確かめると、そのまま帰路についた。
「守華、ちょっと休もうか?」
「うん」
蘭明の隣を歩く守華。
後ろには八軒と琉璃がついてくる。
近くの川辺に来ると、馬たちも歩みを止め、4人も腰を下ろす。
澄んだ水面に太陽が反射し、川のせせらぎが静かに耳に届く。
「琉璃、久々に石切り勝負しようか?」
「いいわよー!負けたほうがご飯おごりね!」
八軒と琉璃は笑い声をあげながら、川の石を選び駆け出していく。
その二人を眺めながら、守華と蘭明も自然と微笑む。
「八軒、琉璃に気持ち伝えたのかしら?」
「何の気持ちだ?」
「もう、あの二人の近くにいるのに分からないの?」
守華の目線は楽しそうに遊ぶ二人に注がれている。
「八軒は琉璃が好きで、琉璃も八軒が好きなのよ。見てれば一目瞭然よ」
「八軒が琉璃を…?」
守華は呆れたように肩をすくめ、蘭明は納得したように頷く。
「きっと、小さい頃から一緒で、お互いのいいところも悪いところも全部知っているのね。それでも思い合っている。いつか二人にも幸せになってほしいな」
蘭明は守華の言葉を静かに聞き、川のせせらぎとともに柔らかく笑う。
「そうだな。八軒は私の侍衛でもあるが、8歳のころからずっと私のそばにいる。兄弟のようで、友のようでもある。八軒の幸せが私の一番の願いだ」
遠くからキャッキャッと、八軒と琉璃の楽しげな声が聞こえてくる。
守華はその声に小さく頷き、川面に映る光を見つめながら、穏やかな時間を心に刻む。
何事もなく侍衛としての生活が始まってから、もう1週間ほど経っただろうか。
守華はなんとなく侍衛としての役目を掴みつつあった。
今日も変わらず、蘭明の護衛につく。
「町を見に行くぞ」
蘭明の言葉に、もちろん守華もついていく。八軒と琉璃も一緒だ。
町の景色はいつもと変わらない。
だが日中、蘭明が町に姿を現すと、自然と人々が集まってくる。
そのほとんどが…女だった。
「きゃー、蘭皇よ!」
「蘭皇、こっちを見て!」
「今、蘭皇と目があったわよ!」
「蘭皇を見られるなんて幸せ!」
色とりどりの声が飛び交う。
守華は思わず舌打ちをして女たちを睨む。
“どうせ迷惑そうな顔をしているんだろうな”
そう蘭明の顔を見ると、意外にも満更でもなさそうな笑みを浮かべている。
守華は怒りを必死に抑え、刀をぎゅっと握り締め、もう片方の手は拳を固く握った。
琉璃がそれに気づき、守華に駆け寄る。
「守華さま、大丈夫ですよ。蘭皇は守華さまだけですから」
だが守華の怒りは収まらない。
今は侍衛としての任務中だと自分に言い聞かせ、深呼吸をひとつ。
無理に笑顔を作り、平静を装ったその瞬間――
女たちが蘭明に触れ、手を取ろうとしたのだ。
守華の堪えていた感情が一気に爆発する。
素早く女たちをどかし、蘭明の前に立ちはだかった。
蘭明は驚きの目で守華を見下ろす。
琉璃と八軒も目を合わせ、緊張が走る。
「私の男なんだから、触らないで!!」
その声に、町のざわめきが一瞬にして消え、シーンと静まり返った。
八軒と琉璃は、あっちゃー、やってしまった、と手を額に当てて顔を覆った。
シーン――一瞬、時間が止まったかのようだったその場に、女たちの笑いと嘲笑の渦が巻き起こる。
「ただの侍衛が何言ってるの?」
「あんたみたいな貧相なブス、蘭皇が相手にするわけないじゃない」
「頭、いかれてるんじゃないの?」
「やばくない、あの女」
色とりどりの罵声が飛び交い、守華は何も言い返せず、下を向いて固まる。
心の中で「いや、絶対に負けない……!」と必死に自分を奮い立たせるが、言葉は喉まで出かかるものの出ない。
「そんなところに立ってたら迷惑なんだよ」
女たちがさらに言い寄ろうとしたその瞬間だった。
蘭明はすっと守華を引き寄せ、大勢の視線の中で守華に唇を重ねた。
守華は目を開けたまま驚き、身体が一瞬固まる。心臓が跳ねるように高鳴り、顔が熱くなる。周囲の声や罵声は遠くに消え、まるで世界が二人だけになったように感じた。
蘭明はうっすら目を開き、細めて守華を見つめたまま、横目で周囲の反応を確認する。
守華の心の中は、驚き、嬉しさ、そして少しの恥ずかしさで混ざり合い、言葉にならない感情があふれていた。
「蘭明……!」
心の中でそう呟く守華。唇の余韻と胸の高鳴りが、彼が自分の世界の中心であることを改めて教えてくれる。
あれだけ騒いでいた罵声も、一瞬でピタリと止まった。
周囲の人々は唖然と口をあけ、目の前の光景に見入っている。
蘭明は肩で守華を抱き寄せ、唇を離したまましっかりと守華を引き寄せていた。
守華はそのまま固まっている――驚きと恥ずかしさ、そして少しの誇らしさで胸がいっぱいだった。
「悪いね、私の姫が独占力強くて」
蘭明は笑顔で守華を見下ろし、その瞳に守華だけを映していた。
「イヤーーーー!」
さっきまで罵声を飛ばしていた女たちが悲鳴をあげ、驚きで後ろに倒れる者までいる。
「ま、まてよ、あの方は、守華さまじゃないかー?」
女たちに混じっていた男が大声で叫ぶ。
いつもと違う服装、髪型も高くまとめられた一本結び――それにより守華の存在は一目で際立っていた。
「あっ、守華さまだ!」
「守華さまーーー!」
「守華さまと蘭皇なら、一番お似合いね」
「美男美女のカップルだわ」
かつてはブス呼ばわりし、罵声を浴びせていた者たちも、守華と気づくや否や、態度が180度変わる。
「守華さま、すごくかっこいいです!」
「守華さまーーー!」
町の人々の声が、先ほどの罵声とはまるで別世界のように、守華の耳に届く。
誰もが羨望の目を向け、守華と蘭明の存在に尊敬と憧れを混ぜた視線を注いでいた。
守華は深呼吸をして少し背筋を伸ばす。
蘭明はそんな守華の顔を優しく見つめ、微笑む。
「その意気だ、守華」
守華は蘭明の言葉に少し頬を赤らめながらも、強く頷いた。
肩を並べて歩く二人の後ろで、八軒と琉璃も誇らしげに顔を見合わせる。
「さすが、守華さま……」
街の人々の羨望の視線を浴びながら、守華は蘭明と共に堂々と歩いた。




