39.幸せな日常
二人の気持ちがようやくひとつになってから、守華は今まで以上に満たされた幸せを感じていた。
まだ完治していない蘭明を気遣い、彼のそばを片時も離れず世話を焼く。
ご飯を作って口に運んであげたり、着替えを手伝ったり――ごく普通のこと。
けれど、守華にとってはそのすべてが愛おしくて仕方がなかった。
「本当はね、仕事に行くときにネクタイを巻いてあげるのが夢だったの」
着替えを整えながら守華がぽつりと口にする。
「ネクタイ?」
聞き慣れない言葉に首をかしげる蘭明。
「そうよ。首元に巻いて、きゅっと締めて、ビシッと決まるの」
蘭明の襟元をパンパンと整えながら、守華は小さく笑う。
「本当なら、こうやってネクタイを引っ張って……」
そう言いながら、整えた襟元をぎゅっと持ち、蘭明の顔を自分のほうへ引き寄せる。
驚いたように見つめ返す蘭明。
守華は迷いなく、その唇をそっと重ねた。
――あたたかい。優しい。
胸の奥がじんわりと溶けていくようだった。
唇を離すと、守華は恥ずかしそうに微笑んだ。
「出かける前はね、こうやって“行ってらっしゃい”ってキスするのよ」
「出かける前だけじゃなくてもいい。守華からの口づけなら、いつでも歓迎だ」
蘭明が穏やかに笑う。
その言葉に、守華の頬が赤く染まる。
けれど次の瞬間、彼に抱き寄せられ、胸の鼓動が一気に跳ね上がる。
――ああ、時間が止まればいいのに。
ずっと、ずっと、この人のそばにいたい。
守華はそう強く願わずにはいられなかった。
門の前。
守華は両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、出かけていく蘭明を見送っていた。
「いってらっしゃい。……まだ完治してないんだから、無理はしないでね」
「おう、あぁ〜わかってる」
蘭明は少し照れ笑いを浮かべながら手綱を整える。
けれど、ふいに彼は馬上からこちらを見下ろし、人差し指で自分の頬をトントン。
「……守華、いってらっしゃいの……」
「っ……!」
守華は一瞬、顔を真っ赤にし、左右をキョロキョロ。
周りには小心や琉璃、八軒、白鋭、そして数人の使用人たちまで並んでいる。
皆、気を利かせるように一斉に顔を背け、庭の木や空を眺めるふりをした。
守華はしばらく唇を噛んでいたが、覚悟を決めるようにツカツカと蘭明の横へ歩み寄る。
そして――
___チュッ。
小さく、けれど確かな音が響いた。
守華の柔らかな唇が、ほんの一瞬だけ蘭明の頬に触れたのだ。
「……っ!」
守華は顔を真っ赤にしてうつむき、後ずさる。
一方の蘭明は、満足げな笑みを浮かべ、子どものように嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、いってくる」
そう言って守華の頭を大きな掌で撫で、愛しげに髪を梳く。
守華はその温かさに一瞬、心臓が跳ねた。
次の瞬間、蘭明は馬に跨り、颯爽と屋敷を後にする。
守華はその背中を、頬を染めながら、胸いっぱいの想いで見送った。
蘭明の姿が見えなくなるまで、両手を大きく振って見送る守華。
その瞳がふと、蘭明の後ろをついていく八軒に移った。
「ねぇ、白鋭」
「はい、守華さま」
「白鋭は一緒についていかないの?」
「はい。私は武芸はできませんので、蘭皇の食事や着替え、伝達など――身の回りを整えるのが役目ですから」
「そっかぁ……」
ほんの一拍置いて、白鋭が小さな声でぽつりとこぼす。
「まぁ、今は……守華さまに、とられてますが」
その呟きに守華はニヤリと笑った。
「じゃあ八軒は? いつもどこでも蘭明についてるの?」
「左様です。八軒は蘭皇の侍衛。常に蘭皇をお守りしなければなりません」
「ふぅん……なるほどねぇ」
そこで守華の口元がふっと吊り上がる。
瞳が怪しく輝き、不気味なほどに楽しそうな笑みを浮かべた。
――何かを企んでいる。
白鋭は思わず背筋をぞわりと震わせた。
_____ガシャン、カキン、カキン_____
小心の目の先では、守華と琉璃が真剣に竹刀を打ち合わせていた。
半年間の鍛錬を積み重ねた守華の動きは、まだ琉璃には及ばないものの、確実に鋭さを増している。
あの日――刺客に襲われ、蘭明が傷を負った。
あの悔しさと恐怖を胸に抱いてから、守華は誰よりも稽古に力を入れていた。
「守華さま、すごいですよ!もう、そこらの男なんて軽くひねり潰せますって!」
笑顔で竹刀を受け流す琉璃の言葉に、守華は照れくさそうに肩をすくめる。
「本当にそうかな?きっと琉璃の教えが上手だからよ!」
「……っ、嬉しいです。その言葉だけで十分です」
二人の笑い声が庭に弾む。
そのとき、小心が茶器の盆を抱えて近づいてきた。
「守華さま、少し休まれてはいかがでしょう?」
「おお、ナイスタイミング!さっすが小心、気がきく~~!」
差し出された湯呑を一気に飲み干す守華。
「小心と琉璃がそばにいてくれて……私、なんて幸せ者なんだろ~~!」
「そんな……私たちこそ、守華さまのお側にいられることが幸せです」
琉璃と小心が顔を見合わせ、ほんのり頬を染める。
「え、ほんとに?じゃあ……ご褒美っ!」
守華は笑顔で菓子を二つつまみ、突然二人の口に押し込んだ。
「むぐっ!」
驚いて目を見開いた二人だったが、すぐに堪えきれず笑い出す。
――その笑顔を見て、守華の胸はほんの少し温かく、そして強くなった気がした。
「まだ痛む?」
守華が傷口に薬を塗りながらそっと尋ねる。
「もう、全然だ。」
蘭明は軽く笑って答える。
「ほんとに?」
「あ〜」
「……もう。火傷の跡といい、この傷も残っちゃうかな」
守華が包帯を巻きながら眉を寄せる。
「これも守華との思い出だ。我が身に刻まれるなんて、むしろ光栄だ」
「私は申し訳ないと思ってるのに……」
守華が視線を落とした瞬間、蘭明はその体を抱き寄せ、そのままベッドへ押し倒した。
「申し訳ないと思っているなら、態度で示してもらわないとな」
耳元で囁く声に守華の頬が赤く染まる。
「な、何よそれ……」
「こういうことだ」
言葉と同時に唇が重なり、次第にその熱が増していく。
たまらず守華は蘭明をひっくり返し、今度は自分が上になる。
だが――守華は唇を離し、じっと見下ろした。
「なんだ? もう終わりか?」
不満そうに問う蘭明。
「……」
「まぁいい。守華の心が決まるまで待とう」
そう言って微笑む蘭明の眼差しは優しい。
守華はその言葉を聞いているのかいないのか――ふっと真剣な表情になる。
「ねぇ、蘭明。私は……蘭明とずっと一緒にいたいの。蘭明は?」
「ああ、もちろん一緒にいる」
「んー、そういうことじゃなくて……」
「じゃあ、何が言いたい?」
守華は大きく息を吸って、思いを口にした。
「私も――蘭明の侍衛になりたい!」
蘭明は目を見開き、上体を起こす。
そのまま守華の肩をしっかりと掴んだ。
「守華……正気か?」
コクン、と小さく頷く守華。
「侍衛は命を賭ける立場だぞ」
「分かってる」
真っ直ぐに見つめ返すその眼差しは、揺るがなかった。
「私の腕ではまだ無理かな?」
守華が不安そうに問いかける。
「いや、そうではないが……私のせいで守華に何かあったら……」
蘭明の低い声には、本気で心配している色がにじんでいた。
「蘭明だって、私のせいで傷が増えてるじゃない」
「いや、それとは話が別だ」
守華は唇を尖らせて言い返す。
「だって、八軒はいつも蘭明と一緒にいる。私より長くいるんじゃないかってぐらい」
「なんだ? 八軒に妬いてるのか?」
「妬いてない!……少し妬いてる」
モジモジと言いながら視線をそらす守華が、たまらなく愛おしい。
蘭明は衝動のままに彼女を抱き寄せた。
「分かった。守華を私の侍衛にしよう。八軒には劣るにしても、その辺の者より守華の腕は確かだ。……だが、守華は私のそばにいるだけでいい。侍衛というのは名だけでいい」
「それはダメよ。私だってちゃんと任務を行うわ」
「じゃあ、許さん」
頑なな蘭明に、守華は小さく息を吐く。
「……わかった。私は蘭明のそばにいるだけ」
(侍衛と認められさえすれば、あとからどうにでもなるもの)
心の中でそう決めて、守華は従うふりをする。
「うんうん、それでいい」
蘭明が満足げに頷いたあと、真剣な顔で続ける。
「それと、琉璃もつけろ」
「琉璃?」
「そうだ。琉璃は守華の侍衛だろう。私の侍衛として迎えるが、本当の役目は守華を守ることだ」
「うん、分かった」
蘭明と一緒にいられる──その事実だけで胸がいっぱいになる。
表情には出さなかったが、守華の心は嬉しさではじけそうに弾んでいた。




