38.守る想い、溢れる涙
屋敷に戻ると、すぐに医者を呼び、蘭明の手当てが始まった。
心臓には届かなかったものの、意識が戻るまでにはまだ時間がかかると言われる。
薬を受け取り、守華は一瞬たりとも離れず、蘭明の傍で看病を続けた。
「守華さま、少し休んでください。私が見ておりますから」
八軒が声をかけるが、守華は首を横に振る。
八軒は言葉を続けられず、そっと後ろに下がった。
部屋の入り口では、小心、琉璃、白鋭、八軒が皆、心配そうに守華と蘭明を見守っている。
守華の胸は張り裂けそうだ。
泣きたい。涙がこぼれそうになる。
でも、今は泣けない。
私が守らなきゃいけないのに……
そのために稽古してきたのに…...
私のせいで蘭明が……
寝ている蘭明を見つめ、胸の奥で自分の想いが激しく波打つ。
涙を堪えながら、心の中で強く願う。
――早く目を開けて、蘭明。
こんなにも愛おしくて、命と引き換えでも生きていてほしいと思うなんて。
いつの間に、こんなにも……こんなにも蘭明を好きになっていたんだろう。
胸の痛みが、あまりにも大きく、苦しくて、息さえつまる。
この最悪の状況になって、初めて自分の気持ちの大きさに気づくなんて……。
いつか、私はこの陽月国から消えるかもしれない。
でも、それまでの間は――私が蘭明を、命に代えてでも守る。
たとえ世界がすべて敵になったとしても、私は蘭明のそばにいる。
守華の胸は締め付けられ、声にならない想いが波のように押し寄せる。
「お願い……目を覚まして、蘭明……」
指先でそっと蘭明の頬に触れ、必死に呼びかける。
熱が下がらない蘭明。
一日経っても、まだ体温は高く、目を覚ます気配はなかった。
守華は薬を手にし、戸惑った。自分の手で口に流し込むしかない――。
「……ごめんね、蘭明」
小さく呟きながら、自分の口に薬を含み、少しずつ、何度も何度も蘭明の口に流し込む。
濡れたタオルで額や頬を拭き、体を拭いてあげる。
「蘭明……私のせいで、こんなに傷を増やして……」
火事の時に負った火傷の跡にそっと触れながら、守華は泣きそうになる声で話しかけた。
「……まだ怒ってるのよ。目を覚さないと、もっと怒るわよ」
蘭明は無反応。
守華は思わず小さくため息をつき、笑みを作って言う。
「……寝てるなら、クッキー作って海尭にあげてきちゃうからね?」
反応なし。
「……私が、他の男のところに行ってもいいの!?」
それでも、静まり返った部屋に答えはない。
守華は、胸が押し潰されそうになった。
泣きたいのに、泣くことすら許されない。
蘭明を見守るためには、ここで涙を流すわけにはいかない――。
その様子を小心と琉璃も見守っていた。
守華が決して涙を見せないことを知りつつも、心が痛くてたまらない二人は、目に涙を浮かべ、静かに泣き始めた。
守華の必死さ、蘭明への揺るぎない想い、そして自分ではどうすることもできない苦しさ――。
部屋には、切なさと、胸を締め付ける静寂だけが残っていた。
守華はそっと、蘭明の手を握る。
「……お願い、目を覚まして……」
声が震える。目にこらえる涙が光る。
「こんなにも……愛してるのに……」
思い出すのは、影で自分を守り、支え、導いてくれた蘭明の優しさ。
そのすべてを今、自分が返さなくてはならない――。
胸を締め付ける切なさと、守華の必死な想いが、静かな部屋に重く響く。
4日が過ぎた。
昨日からようやく熱が下がり、守華は少しだけ安堵の息をついた。
それでも、まだ手を離すことはできず、蘭明の手をぎゅっと握りながら、眠っていた。
背後では、小心が静かに水を取り替え、食べ物を用意していた。
目覚めさせないよう、息をひそめ、そっと動く。
やがて、蘭明のまぶたがゆっくりと開き、守華の手を握る温もりに気づいた。
「守華……?」
小心もその声に気づき、ほっとした声で言う。
「蘭皇、目が覚めたんですね!」
その声に引き寄せられるように、八軒、白鋭、琉璃も駆けつける。
守華はその音に目を覚まし、少し緊張しながらも、蘭明の顔を見つめる。
「……ようやく目を開けたわね」
守華はにっこり微笑む。
守華はそっと立ち上がり、小心に目で合図する。
「あと、よろしくね」
そう言い残すと、守華は少し震える心を押さえ、蘭明の傍を離れた。
「八軒、起こしてくれ」
「はっ」
八軒がそっと近づき、蘭明を支える。
右手で左胸を押さえ、まだ傷の痛みに顔をしかめている。
「刺客は?」
「またもや、逃げられ、黒幕を調べることができませんでした。」
蘭明は少し俯き、静かに吐き出すように言う。
「そうか。私は……」
「6日間眠っておりました。」
小心が口を挟む。
「その間、ずっと守華さまがひと時も離れず、蘭皇のそばで看病しておりました」
蘭明の瞳がふっと守華のことを思い浮かべ、静かに光を帯びる。
「守華は、まだ怒っているのか?」
小心が首を横に振る。
「いえ……」
「では、どこにいる?」
「多分ですが、桜音亭の屋根の上かと」
「屋根の上……?」
蘭明の声に、八軒や小心も心配そうに顔を見合わせる。
蘭明の胸の奥で、守華が見守り続けてくれた日々の温もりと、切なさがふわりと蘇る――。
「はい。」
「なんでそんなところに?」
小心の瞳には涙が光っている。
「蘭皇は守華さまの泣いている姿を見たことがありますか?」
一瞬、蘭明は考える。
そして、首を横に振った。
「守華さまがこちらにいらしてからずっとお側でお仕えしておりますが、私も見たことはありませんでした。ただ、夜になるとたまに守華さまは一人でどこかに行かれることがありました。それに気づいた私は、こっそり後を追いました。そしたら……桜音亭の屋根の上で泣いておられたのです」
小心の声が震える。
「守華さまは、私たちにいつも笑顔で、強いところだけを見せて元気にしてくれます。でも、こちらに来てどれだけ心細かったことでしょう。皇后に罰を受けたときも、どれほど痛かったでしょう。刺客に狙われていると分かったときだって、怖くて仕方なかったはずです。それでも守華さまは弱音を吐かず、泣きもせず、自分を追い詰めて、朝から晩まで武芸の特訓をされて……どれほど苦しかったことでしょうか……」
小心は言葉にならず、涙を拭く手も止まらない。
琉璃や白鋭も聞き入り、静かに泣いている。
八軒も上を向き、こらえようとするが、瞳が潤んでいる。
「今だって……蘭皇が守華さまを守り、目の前で倒れたとき、どれほど怖かったことでしょう。寝ずに看病し、ずっと蘭皇に話しかけ続けて……私たちが泣いてしまっていたのに、守華さまは一滴の涙も見せませんでした。いや、本当は泣きたかったはずです。必死に涙を堪えていた……それが私にはわかります」
小心の頬を伝う涙が止まらない。
「蘭皇が目を覚まして、やっと守華さまも安心し、緊張していた糸が切れたのでしょう。どれだけ強くても、守華さまも女の子です。今頃、きっと桜音亭の上で一人で泣いておられるはずです」
その言葉を聞き終えると、蘭明は静かにベッドから立ち上がる。
痛む胸を押さえながら、決意を帯びた瞳で歩き出す。
「蘭皇……」
八軒が支えようと手を伸ばすが、蘭明は手で制し、大丈夫だと合図する。
そして、躊躇なく、守華のいる桜音亭へ向かって足を進めた。
蘭明が桜音亭に着くと、横に掛かっているはしごを見つけた。
痛む胸を押さえながら、ひとつずつはしごを登る。
屋根の上に辿り着くと、守華は静かに月を見上げて座っていた。
蘭明はゆっくりと近づき、守華の背後に腰を下ろしてそっと抱きしめる。
「病人には結構、つらい高さだな」
「寝てないとダメじゃない」
守華はそう言うとただ月を見つめる。
蘭明は小さく笑いながら、肩越しに言った。
「こんな場所があったなんて知らなかったよ。月が、こんなに綺麗に見えるなんて」
「……」
守華はただ小さく頷く。
「いつも、一人でここに?」
また頷く守華。
「母が、弱みを見せるな、涙を見せるなって……だからここに?」
頷く守華の肩が震えるのがわかる。
「月を見上げると涙が止まるんだって、前に話したよな」
「……そう」
静かな夜風に、守華の小さな吐息が混じる。
「守華……まだ、怒ってるのか?」
コクンと頷く守華。
蘭明はそっと言った。
「悪かった。守華が作ったクッキー、ちゃんと大事にしまってある」
守華は勢いよく振り向いた。
「もう、怒ってない。怒ってるのは……ううん、もう……目を開けないんじゃないかって怖かったの……」
守華は自分の胸を叩きながら、涙を溢れさせる。
「こんなにも苦しくて、胸が張り裂けそうで……でも、気づいたの。蘭明のことが、どうしようもなく、大好きだって……」
その瞬間、蘭明が守華の唇に自分の唇を重ねた。
守華の涙が頬を伝い、二人の気持ちはようやくひとつになった。
そのキスは甘くはない、涙のしょっぱさがあるキスだった。
唇を離すと、蘭明は守華の泣き顔を見つめ、指でそっと涙を拭う。
「守華……泣いている顔も、怒っている顔も、告白してくれる顔も、全部……愛おしい」
「な、によ、もう……」
蘭明は微笑む。
「母上は、涙を見せるなと言ったかもしれない。でも涙は、幸せになるために流すものだ。だから、泣いていいんだ。いっぱい泣いたほうが、きっと幸せになれる」
月の光だけが二人を照らす。
蘭明の声が、守華の胸に響く。
「それでも、どうしてもみんなの前で泣けないなら……守華が泣く場所は、ここじゃない。私のところだ」
その言葉に、守華の胸の奥で止まっていた涙が一気に溢れだす。
守華は初めて声をあげて泣き、蘭明の胸で震えながら涙を流す。
蘭明は何も言わず、ただ抱きしめ、守華のすべてを包み込むように背中を撫でた。
屋根の下、小心、琉璃、八軒、白鋭は静かに見守る。
彼らもまた、守華と蘭明の姿に胸を締め付けられ、涙を流していた。




