37.裂ける叫び
新しい年を迎え、街には少しずつ新年の空気が漂い始めた。
蘭明は、この頃になって守華にいつもより優しく接していた。
特に何もない日常でも、二人は自然と一緒にいることが多くなった。
それどころか、蘭明の方から守華をそばに置き、少しも離れようとしなかった。
そんな二人の様子を見守る周囲の人々は、ほっと安堵していた。
以前の二人は、会うたびに小さな喧嘩を繰り返し、蘭明は素直になれず攻撃的な言葉を口にすることも多かった。
そのたび守華は負けじと反論し、二人のやり取りはいつも周りをハラハラさせ、ドキドキさせていたものだ。
そんな穏やかな日々の中、守華は退屈しのぎに、蘭明のためにクッキーを作ろうと決めた。
小心と琉璃も手伝い、三人で台所に立つ。
守華はここでのクッキー作りにすっかり慣れ、手際よく生地をこね、型を抜いていく。
今まではただの丸いクッキーばかりだったが、今回は特別に、蘭明のためにハート型のクッキーも用意した。
「これで喜んでくれるかな…」
守華は小さくつぶやきながら、ハートの形をそっと天板に並べた。
ちょうどクッキーが焼きあがったそのとき、顔を見せたのは海尭だった。
「守華、明けましておめでとう。」
年が明けてからすでに一週間が過ぎていたが、今年初めての顔合わせだった。
「あ、海尭、明けましておめでとう。」
「何をしているんだ?」
「クッキー作ったの!ちょうど焼きあがったの、味見してみて!」
守華はハート型ではなく、丸いクッキーを海尭に差し出す。
「今回のもすごく美味しいね。さすがだ。」
二人は笑顔を交わし、ほんの少しだけ幸せな空気が漂った。
その様子を、偶然通りかかった蘭明が見ていた。
少し胸がざわついたのか、目に入った光景を見つめたまま、静かに部屋へと戻る。
「そっちの変わった形のは?」
海尭がハート型のクッキーを指さす。
「あー、それは蘭明にあげようと思って作ったの。」
「そうか…」
少しだけ、寂しそうに口元を引き結ぶ海尭。
そのとき、聡騎が顔を出した。
「海尭さま、馬車が参りましたので。」
「わかった。」
「ご馳走様」と小さくつぶやきながら、守華に軽く笑いかけ、去っていった海尭の後ろ姿を守華は見送った。
琉璃は初めて見るその焼き菓子から、目を離せずにいた。
「琉璃、食べてみていいわよ?」
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。小心も味見してみて。ただし……丸い方のクッキーね」
「はい。この変わった形のは、蘭皇に差し上げるものですもんね?」
守華はにっこりと頷いた。
琉璃は恐る恐る口に運び、瞳を輝かせる。
「……お、美味しいです!」
その感動した声に、守華も思わず笑顔になる。
「じゃあ今度、時間があるときに作り方を教えてあげる。そしたら八軒に作ってあげたらどう?」
その瞬間、琉璃はゴホンゴホンとむせて、顔を真っ赤に染めた。
「な、なにをおっしゃるんですか守華さま!八軒になんてもったいないです!あ、あの……弟や妹、それに母にでも……」
「はいはい、家族にあげてもいいけど……隠さなくてもいいのよ。ねぇ、小心?」
「ええ。琉璃と八軒を見ていれば、だれだって気づきますよ」
二人が楽しそうに笑い合うと、琉璃はますます慌てふためく。
「も、もう!からかわないでください!」
そう言いながらも、耳まで真っ赤になっていた。
守華は箱の中にハートのクッキーだけを入れ、そっと蘭明の部屋へ向かった。
甘いものが苦手な蘭明だけど、このクッキーなら食べてくれる。
喜んでくれるかな――。
そんな思いが知らず知らず守華の頬に笑みをもたらす。
「蘭明、入るよー」
机に向かい、何かを書き込む蘭明。
仕事に集中しているのだろう。
もちろん部屋には八軒と白鋭もいた。
蘭明はチラッと守華を見たが、すぐに視線を戻して筆を動かす。
「蘭明、お仕事中?」
「なんだ?」
その一言で、守華はすぐに気づく――機嫌が悪い。
八軒と白鋭も少し身を縮め、目を合わせた。
「クッキー作ったから持ってきたの」
蘭明が立ち上がって守華のところへ向かうと守華は箱を前に差し出した。
蘭明は無言で箱を見つめ……
――パンッ!
部屋に音が響く。
静まり返る空間。八軒と白鋭は顔をこわばらせ、息を詰めた。
蘭明の怒りが明らかだった。
箱は床に落ち、中からハートのクッキーが割れてこぼれ落ちる。
守華は割れたハートを見て、ふっと笑った。
ゆっくりと拾い上げ、丁寧に箱に戻す。
蘭明は上からその様子を見つめている。
守華は再び蘭明の目の前に立った。
「何するの?」
その冷静さは、どこか威圧的で、見方によっては怖ささえある。
蘭明は答えず、ただ無言で見下ろす。
「人から贈られたものを床に投げるなんて、最低ね」
「最低?最低なのは守華のほうだろ」
「は?」
以前の言い争いの二人に戻ったかのようだ。
いや、以前よりも鋭く、緊張感が張りつめている。
八軒と白鋭は止めようとするが、言葉も動きもできず、その場で息を潜めていた。
「海皇に作った余りだろ。そんなもの、食べられるわけがない。よくも私のところに持ってこれたな」
守華は少しも動揺せず、眉ひそめずに冷静に答える。
「何を言ってるの?」
「海皇に食べさせただろ!」
「あれは……」
「それに、私の気持ちを知っておきながら、よくこんなことができるな!」
その言葉と同時に、蘭明は守華の頭に刺さっていた海尭からもらった簪を床へと投げつけた。
守華は鋭く蘭明を睨み、無言のまま簪を拾い上げる。
そして、何も言わずにそのまま部屋を走り出ていった。
守華が廊下を走っていると、小心と琉璃が歩いているのを見かけた。
「守華さま?」
声をかけられても、守華は立ち止まらず、クッキーの入った箱を琉璃に手渡すと、再び走り去っていった。
琉璃は差し出された箱を開け、中の割れたクッキーを見つめる。
小心と琉璃は互いに目を合わせ、理解したように頷いた。
「蘭皇、入ってもよろしいでしょうか?」
琉璃が慎重に声をかける。
「かまわん」
「失礼いたします」
二人は中に入り、一礼する。琉璃は迷わず、蘭明の前にクッキーの入った箱を置いた。
「琉璃!それは……」
八軒が口を挟む。
「八軒は黙ってて」
琉璃の強い言葉に、八軒はしゅんとなる。
蘭明はゆっくり顔を上げ、琉璃を見つめる。
「なんだ?琉璃」
「無礼を承知で申し上げます。このあと、何でも罰は受けます」
琉璃の目には真剣さが宿っていた。
「こちらは守華さまが蘭皇のために作ったものです。どこか、誤解されてはいませんか?」
蘭明は黙り込む。
「海皇のために作ったと蘭皇は思っておられるでしょうが、海皇に食べさせているところを見たのは偶然です」
白鋭が口を開こうとしたが、蘭明が鋭く睨み、一歩下がらせる。
「確かに海皇が味見はしましたが、私や小心も試しました。蘭皇に不味いものを渡すわけにはいきません。しかも、丸いものだけです。この変わった形のほうは、蘭皇のために守華さまが用意したものです」
蘭明の目が大きく見開かれる。
「その形は、守華さまの故郷で、好きな人に気持ちを伝えるための記号だそうです」
蘭明は立ち上がり、息を荒くして問いかける。
「守華はどこだ?」
「さっき、走ってどこかへ……」
小心がすぐに答える。
蘭明は一目散に部屋を飛び出し、そのあとを八軒と琉璃が追った。
守華は手に枝を握りしめ、草むらに向かってぶんぶん振り回しながら歩いていた。
「馬鹿蘭明、くそ蘭明、変態蘭明、もう絶対作ってやるもんか……!」
怒りと悔しさが入り混じり、声に少し震えが混じる。
「せっかく作ったクッキーを、何も言わずに床に投げるなんて……やっぱり、冷たい人なのよ。そんな男に優しくした私が、馬鹿だったのかもしれない……」
ぐちぐちと、頭の中で蘭明への思いと怒りが交錯しながら歩く守華。
でも、胸の奥底では、あの時のキスや優しさがまだ心を温める。
“どうして、こんなに腹が立つのに、まだ蘭明のことを思っちゃうんだろう……”
守華は自分の気持ちに少し戸惑いながらも、無意識に前に進む足を止められない。
不貞腐れながら歩いていると、突然、守華の前に黒衣の集団が立ちはだかる。
ざっと15〜20人はいるだろうか。
「え……?」
守華は思わず後ずさる。
「今日こそ、お前を捕らえる」
またか、と内心で思いながら、守華は一歩、二歩と後ろに下がる。
それに合わせて、刺客たちも一歩、二歩と近寄ってくる。
「なんで私が狙われるのよーーーーーー!」
守華は猛ダッシュで逃げ出す。
刺客たちはまだ追いかけてくる。
守華は全力で走り、少し先でピタッと足を止める。
それと同じように刺客たちも一斉に止まった。
守華はくるりと振り向き、にやりと笑う。
「そうよ!こんな日のために特訓してきたんだから!前の私とは違うのよ!」
少し息が上がっているが、目は鋭く光る。
「そして……今の私は、虫の居所が悪いのよね」
勢いよく刺客に立ち向かい、一人の刺客から刀を奪う。
守華は殺さずに相手を気絶させる技を習得していた。
何人かはその場に倒れたが、この人数にはさすがに守華の力だけでは限界があった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息を切らしながらも、守華は踏ん張る。
「悪あがきはやめて、大人しくついてくれば殺さないさ」
刺客の一人が声をあげるが、守華は笑いながら応戦する。
「そんな言葉、信じられるか!」
一斉に刺客たちが襲いかかる。
もうどうしようもない――その瞬間、カッチーン、と刀と刀がぶつかる音が響いた。
守華の隣には、蘭明が立っていた。
後ろには八軒と琉璃も控えている。
「怪我はないか?」
蘭明の声は冷静だが、守華を思う温かさが滲んでいる。
「まだ、私は怒ってるんだからね!」
守華は頬を紅潮させ、少し意地を張って答える。
「分かったよ。こいつらを片付けたら、説教はちゃんと聞くから」
蘭明の言葉に守華は胸の奥がぎゅっとなる。
さすがの三人はあっという間に刺客を捌く。
守華も負けじと立ち向かうが、木陰に身を潜めていた刺客が狙いを定め、矢を放った。
「守華――!」
蘭明の声が響き、守華はハッと振り向いた。
蘭明が間に合い守華に向かって放たれた矢は、見事に蘭明の刀で弾き飛ばされた。
だが――
「えっ、ら、蘭明…?」
振り向いた守華の目の前で、蘭明が倒れ込む。
左胸には短剣が突き刺さっていた。
矢をはじき飛ばした直後、近くにいた黒衣の一人が蘭明に短剣を投げつけていたのだ。
「守華、怪我はないか?」
冷静さを失わない声。だが、その眼差しは痛みをこらえて守華を守ろうとする強い意志で満ちていた。
「こんなときまで、私の心配しないでよ!」
守華の声は震えている。
「私は大丈夫だ。安心しろ」
「全然、大丈夫じゃないじゃない!」
「なんで私なんてかばうのよ!?」
「私はいつだって、守華を守る……」
蘭明は胸に刺さった短剣を、自分の手でゆっくりと引き抜いた。
血がじんわりと広がり、目を閉じるその姿は、それでも守華を守る覚悟に満ちていた。
「ら、らん……め、い……?」
傷口を押さえる守華の手は、赤く染まり、震えが止まらない。胸の奥まで締め付けられるような痛みが走った。
「はっけーーーーーん!!!」
守華は必死で八軒を呼ぶ。
気づいた八軒と琉璃は、一気に刺客たちを蹴散らし、蘭明の元へ駆けつける。
八軒が蘭明を背負い、急いで後方へ戻る。
それを追う守華と琉璃――息も切れ、心も張り裂けそうになりながら。




