35.誤解と絆
幸いにも、守華は煙を少し多く吸っただけで、火傷などの怪我はなく、二日後にはすっかり元気を取り戻していた。
小心も琉璃も、一緒についていかなかったことを後悔して落ち込んでいる。
「もう!二人してそんなに落ち込まないでよ!私はもう元気なんだから。怪我もしてないし、せっかく元気になったのに二人がこんなんじゃ、私まで気分が沈んじゃうわよ!」
「でも……」
「小心も琉璃も、気にすることなんてないの」
守華が振り向くと、そこには蘭明が立っていた。
「守華が一人で行動したのが悪い。小心も瑠璃も気にするな」
うんうん、と頷く守華だったが はっ? っとなり蘭明を睨みつけた。
だが、いつもの蘭明ではなく、目は鋭く、口元には冷たい影が差している。まるで最初に出会ったころの蘭明だ。
「自分の実力も分かってないのに、自ら危険なところに飛び込んだんだ。これでどれだけ自分に力がないか、分かっただろう。少しは大人しくしていろ」
ムッとした守華は、つい蘭明の唇を指でつまむ。
「誰が大人しくするもんですか!この減らず口、いつかちょんぎってやるんだから!」
やっぱりここ最近の蘭明ではない。冷たい雰囲気の蘭明。力強く守華を見つめているだけだ。少し怖いとも思ってしまう。守華はつまんでいた唇をそっと離した。
「気がすんだか?」
守華はふんっとそっぽを向く。
蘭明は言葉もなく立ち去ろうとする。
「ちょっとは海尭みたいに私の体を心配しなさいよねー、ベーだ!」
守華はあっかんべーで応戦する。
だが蘭明は守華にまっすぐ近寄り、あっかんべーをしている右手を強く掴む。その瞳は怒りとも警告ともつかない鋭い光を放っていた。
「何よ!何か言いたいことがあるなら、言えばいいじゃない!蘭明じゃなくて、海尭の屋敷に引き取られてればよかった!」
蘭明は無言のまま、手を振りほどき、足早に去っていった。
守華は去っていく背中を見つめ、少しふくれたまま小さくつぶやく。
「もう……本当に、ちょっとは心配してくれてもいいのに.....」
「蘭皇、守華さまに、なぜ自分が助けたって言わないんですか?」
八軒が疑問そうに尋ねる。
守華は蘭明ではなく、海尭が助けてくれたと思っているのだ。
蘭明は少し黙り込み、拳を握る。心の中では「一人であんな危険な目にあわせてしまった……」と自分を責めていた。だが、守華が無事であることに、ほっとする気持ちも確かにある。
「言ったところで、守華の安全には何も影響はない。無事ならそれでいい」
冷たく短く、口だけはそう言う。
蘭明は腕に軽く力を入れ、眉をひそめて唇をかむ。
表面上は冷静を装っているが、火傷の痛みをこらえる仕草が一瞬だけ見える。
「大丈夫ですか……?」
八軒がそっと声をかける。
蘭明は目を細めて小さく息をつき、守華が無事であることに安堵しながらも、一人で危険に巻き込んでしまったことへの自責の念を胸に抱く。
「守華ーーー!」
桜音亭へ駆け込んできた夏翠は、そのまま守華に飛びついた。
「もう大丈夫なの? 怪我は? 本当は昨日すぐに駆けつけたかったのに、どうしても抜け出せなくて……」
「大丈夫よ。私は無事だから」
二人はお茶を口にしながら、ようやく落ち着きを取り戻す。
「夏翠が助けを呼んでくれたのよね。本当にありがとう」
「私は呼びに行っただけ。でも……守華が死んじゃうかもしれないって思ったら、本当に怖かったの」
「ふふ、あんなに私に意地悪してたのに?」
「もう、そんな昔のことは忘れてよ」
二人は顔を見合わせ、ほっとしたように笑った。
だが、守華はすぐに愚痴をこぼす。
「それにしても、なんで海尭は私を助けてくれた上に優しく体を気遣ってくれたのに、蘭明は“自分の力をわかってない”とか、“これで思い知っただろ”なんて怒ってくるの? ほんと冷たすぎる!」
夏翠は思わず口をつぐみ、驚いたように守華を見つめた。
「……ちょっと待って。誰が守華を助けたって?」
「だから、海尭でしょ?」
夏翠は真剣な眼差しで首を振った。
「違うわ。――守華を助けたのは、蘭皇よ」
「……え……?」
守華の心臓がドクンと跳ねた。
思わず茶碗を取り落としそうになり、両手で必死に押さえる。
「嘘……そんなはずない。だって……私、目を覚ましたとき、海尭のそばにいたもの……」
「私が呼びに行ったのは蘭皇。戻ったときには火が一気に燃え広がっていて、中に入るのは危険な状況だった。八軒も止めたけど、蘭皇はそれを振り切って中に飛び込んだのよ」
「……うそ……」
守華の唇が震え、目が泳ぐ。信じたくないけど、夏翠の真剣な声がそれを許さない。
「海皇が来たのは後から。騒ぎを聞いて駆けつけたとき、ちょうど蘭皇が守華を抱えて出てきたところだったの。腕に火傷を負っていて、抱き上げるのも辛かったはずよ。それでも守華を安全な場所に下ろして、私と海皇に任せて八軒と手当てに向かったの」
「……火傷を……?」
守華の瞳が大きく揺れ、言葉を失う。
自分が思っていた光景と真実のあまりの違いに、胸の奥で不安と戸惑いがぐるぐる渦を巻いていた。
「ねぇ、この際だから聞くけど――守華は海皇が好きなの? それとも蘭皇?」
「えっ?」思わず夏翠の顔を見返す守華。
「海尭はずっと私に優しくしてくれてたのよ。それに比べて蘭明とは会えば喧嘩ばかり……。そもそも比べること自体、間違ってるんじゃない?」
夏翠は呆れたように肩をすくめる。
「本当にそう思ってる? 蘭皇も鈍いけど、守華も守華よね.....海皇が優しいのは、みんなに優しいからよ。でも蘭皇は、自分の気持ちをうまく表せない人なの」
そう前置きしてから、夏翠は淡々と語り出した。
「思い出してみて。正体もわからない守華を自分の天幕まで連れていったのは蘭皇。血痕だけ残して消えたときも、一晩中探したそうよ。 倒れてるのを見つけたときは、水を口にしない守華を案じて、自ら飲ませたって星皇から聞いたわ。地下牢に入れたのも、もう一人で逃げないようにっていう心配からだった。父上への挨拶のときだって、裏では蘭皇も動いて守華を助けようとしてたの。 書を書き写したのだって、守華が暇な時間に学べるようにって――字を覚えたほうがいいだろうと考えた蘭皇の提案だと、星皇が言ってた。母上の罰を受けたときも、後で大ごとにならないよう、母上に直談判したのは蘭皇だった。だから、あの時、海皇が勝手に助けても何も咎められなかったのはそのおかげよ」
「う、うそ……。たしかに書を写したあと、いつの間にか読める字が増えてたけど……。でも! ほら、夏翠と蘭明、いい雰囲気だったじゃない!」
夏翠はフッと笑う。
「ああ、あれね? あれは私が勝手にやったのよ。守華がどんな反応をするのか見たくて。ちょっと意地悪してみただけ。それにほら、私と蘭皇の関係を気にしてたってことじゃない。」
守華は信じられないという顔をした。
言葉を失い、ただ夏翠の言葉だけが耳の奥で何度も響いた。
夏翠は真っ直ぐに守華を見つめて言い切った。
「今こうして無事にここにいられるのは――影でずっと蘭皇が支えていたから。蘭皇が他の女性といい感じになっても気にならないの?」
「……他の女性と?」
考えたこともなかった。
だって、蘭明はいつも隣にいてくれた。
私の言葉に笑って、怒って、時には助けてくれて――
それが“当たり前”になっていた。
好きとか、そういう感情じゃないと思ってた。
でも、もし蘭明が誰かと笑っていたら……
胸の奥がきゅっと痛む。
どうして、こんなに苦しいの?
その瞬間、気づいてしまった。
私、蘭明のこと――好きなんだ。
守華は椅子から勢いよく立ち上がり、そのまま駆け出していった。
「まったく……二人して手がかかるんだから」
夏翠はひとり、静かに茶を口にした。
守華は蘭明のもとへ駆けだした。
(そんな……蘭明が……。
私、昨日あんなこと言ってしまったのに……。
どうして気づけなかったんだろう。
本当に、私はなんて馬鹿なんだろう……)
胸の奥で後悔がぐるぐると渦巻き、涙がにじむ。
蘭明の部屋へ急ぐと、入り口で白鋭に出会った。
「白鋭! 蘭明はどこ?」
「蘭皇ですか? 庭にいらっしゃるかと……」
礼もそこそこに走り抜け、庭へと向かう。
池のほとりに立ち、静かに水面を見つめる蘭明。その背には八軒の姿。
「蘭明!」
声の限りに叫び、迷わず駆け寄る。
振り返った蘭明と八軒。その瞬間、守華は勢いのまま蘭明に飛びつき、強く抱きしめた。
八軒は二人の空気を察し、そっとその場を離れる。
「……守華?」
驚いた声をあげながらも、抱きしめられたまま動けずにいる蘭明。
やっと少し落ち着きを取り戻した守華は、彼の腕を取ると袖をめくり上げた。
そこには、ぐるぐると巻かれた白い包帯。
蘭明は慌てて袖を戻し、目を逸らした。
しかし守華は逃さず、もう一度そっと袖をめくり上げる。
「……馬鹿ね。なんで言わないの。私を助けて、こんな怪我までして」
「……」
「私はずっと、海尭に助けられたと思い込んでたのよ。このまま黙っているつもりだったの?」
蘭明は短く息をつき、低く答える。
「誰が助けようと……守華が無事なら、それでいい」
「でも私は、蘭明のことを誤解してたのよ? 誤解したままでも構わないの?」
その言葉に、蘭明の心に張りつめていた氷が少しずつ溶け出す。
ずっと抑え込んでいた不安と恐怖が、守華の瞳に映る自分を見て、解けていった。
胸の奥に広がるのは、言葉にできない安堵。
ただ、守華が自分を真っ直ぐに見つめてくれている——それだけで心が救われる気がした。
「……あぁ」
目を逸らし、素直になれない声を漏らす蘭明に、守華はふっと笑う。
守華はそんな蘭明の唇を指で挟み、アヒル口にして睨みつけた。
「嘘つき」
その瞬間、逸らしていた蘭明の瞳が、まっすぐに守華をとらえる。
守華はふっと息をのみ、言葉を絞り出した。
「その減らず口、いつかほんとにちょん切ってやるんだから……」
言い終えるや否や、守華は指を離し、そのまま自分の唇を重ねた。
驚きに目を見開く蘭明。
だが次の瞬間には彼も目を閉じ、強く守華を抱き寄せる。
触れるだけのはずだった口づけは、次第に深く、熱を帯びたものへと変わっていった――。




