3.月影に落ちる少女
夜十時。
月はどんどん欠けていき、部屋の中に影が広がっていく。
守華の部屋は静まり返り、聞こえるのは時計の針の音だけ――
――チク、チク、チク。
いつの間にか、守華は眠りに落ちていた。
***
3月1日、午前零時。
月は完全に影に覆われ、真っ暗になった。
また、夢だ。
空を飛んでいる夢。
何度も見たことのある夢。
“飛ぶ夢はいいことの前触れ”と夢占いで知っている。
今日はどこへ向かっているのだろう――
気持ちがいい。鳥になったみたいに、両手を広げて大空を舞う。
でも、最後はいつも通り落ちる。
守華は心の中でため息をつく。
落ちる瞬間は怖くて、夢でも汗びっしょりになる。
でも、もう慣れた。
今回はきっと目が覚めるだけ。
――そう思った瞬間、落下は止まらなかった。
守華の視界の下では、陽月国と彩国の戦が繰り広げられていた。
「蘭皇、押されています!」
「分かっている。しかしここで耐えねば、明日はない。」
背中合わせに立つのは、陽月国の第二皇子・蘭明とその侍衛、八軒。
日食――この国では初めての出来事に、兵たちは剣を止め空を見上げる。
――その空から、何かが降ってきた。
蘭明は一瞬言葉を失い、刀を地面に突き立て、両手を広げた。
その手が、守華を包み込む――お姫様抱っこされた瞬間、光が迸り、強風が吹き荒れる。
そして目を開けると、彩国の兵士たちは吹き飛ばされていた。
日食が終わり、明るさが戻る中で、蘭明が抱える少女――守華――と一瞬目が合った気がした。
守華は眠ったまま、動かない。
一方の守華は、落下し続ける感覚にまだ身を委ねていた。
夢だから痛くないし、死ぬこともない――でも、目の前に立つ鎧姿の美男子は現実にいるようで、思わず目を閉じて寝たふりをする。
「……夢、だよね?」
頭の中で何度も自問する。
どうしてお姫様抱っこされているのか、どうして戦場に落ちたのか。
でも、今はとにかく、寝たふりをしてやり過ごすしかない――。
周囲の歓声が大きくなる。
守華はまだ目を閉じたまま、胸の奥でドキドキしていた。
この状況――戦場でお姫様抱っこされ、周囲は歓声の嵐。
夢なら痛くない、死ぬこともない。でも、現実の匂い、風の冷たさ、鎧の重みまで伝わってくる。
夢とは違う――そう、確信した瞬間、守華は少し身を強張らせた。
「……お前、目を覚ませ」
低く響く声に、守華は思わず体を震わせる。
目を開けると、目の前には――まさしく完璧な美男子。
黒髪で整った顔立ち、凛とした二重の瞳、そして鎧に包まれた堂々とした姿。
「……え、えっと……」
守華は口をパクパクさせるが、声が出ない。
言葉が出てこない――日本語が通じると思ったら大間違いだった。
「……?」
蘭明は眉を少し寄せ、守華をじっと見つめる。
守華のアンクレットがかすかに光り、まぶたに反射する光が二人の間に奇妙な緊張感を生む。
「……?」
蘭明の声には、問いかけの響きがあった。
でも守華には意味がわからない。
言葉の音は日本語に似ているが、全く理解できない未知の言語だった。
守華の頭の中はパニック。
「え、え、ちょっと待って!私、大丈夫かな?痛くないよね?え、でも鎧だし抱っこだし……」
心の中でぐるぐると考えながら、守華はとりあえずまた目を閉じ、気絶したふりを決め込むことにした。
だが、蘭明はその小さな動きも見逃さなかった。
彼はそっと守華の腕を抱え直し、周囲を見渡した。
歓声がまだ上がる戦場で、彼の冷静な視線だけが守華に突き刺さる。
「……何者だ、まったく」
ボソリとつぶやく蘭明の声に、守華は胸が跳ねる。
怖い――でも、不思議と心を引きつけられる。
こんな美しい人、夢でしか見たことがない――いや、華流ドラマの中でもここまで美しい人はいない。
守華は心の中で誓った。
――ここは夢じゃない。目を開けてはいけない。
気絶したふりをして、まずは状況を把握するんだ、と。
そのとき周囲の兵士たちの声が守華の耳にも届く。
「女神さまだ!」
「陽月国に勝利をもたらした!」
守華は思わず肩をすくめる。
女神だなんて……私、ただ落ちてきただけなのに。
足首のアンクレットが小さく光る。
知らぬ土地、知らぬ言葉、知らぬ人々――
異世界〈陽月国〉での、新しい物語が静かに幕を開けた。