29.せせらぎの中でドタバタ劇
「蘭皇、守華さま――大変です!」
息を切らしながら駆け込んできた白鋭の声に、稽古をしていた守華の手が止まった。
「門のところに黒い馬が……。追い払おうとしても全く動かず暴れておりまして……。以前、守華さまが逃したと仰っていた馬ではないかと…」
その言葉に、守華と蘭明は一瞬だけ視線を交わし、次の瞬間には並んで門へと駆け出していた。
―――ヒヒィィーーンッ!
門前には黒々とした毛並みを震わせ、荒々しく前脚を振り上げる一頭の馬。
兵たちは恐れて近づけず、ただ遠巻きに様子を見守っている。
「あの馬は……守華」
蘭明の問いに、守華は真剣な面持ちで小さく頷いた。
「危険だ。私が行こう」
蘭明が一歩前に出ようとしたが、守華が首を振る。
「いいえ、大丈夫。あの子の心は、私がなだめられる」
言い切る守華に、蘭明は何も言わず、ただ守華を見守った。
暴れていた黒馬は、守華の気配に気づいたのか、荒い息を吐きながらも徐々に動きを止めていく。
守華がゆっくりと近づくと、その鋭かった眼差しが少しずつ和らぎ、やがて嘘のように落ち着きを取り戻した。
「いい子ね」
守華はそっと黒馬の頬を撫でた。
さっきまで暴れ狂っていたのが嘘のように、その大きな瞳は穏やかさを取り戻している。
「……あんなに荒れていた馬が落ち着くとは」
「さすが守華さまだ」
周囲の兵や町人がざわめきながら見守っている。
「どうだった?自由に走れて楽しかった?」
守華が柔らかく問いかけると、黒馬は鼻先で彼女の身体を押すように触れ、何かを訴えるような仕草を見せた。
「……私が乗ってもいいの?」
まるで人の言葉を理解したかのように、黒馬は小さく首を縦に振る。
守華は胸が熱くなる。――きっと気のせいではない。
「蘭明!私に乗ってほしいみたい」
「ひとりでは危険だ」
すぐさま蘭明は命じた。
「八軒、私の馬を連れてこい」
「はっ!」
やがて連れてこられた蘭明の馬に彼がまたがる。
「私も同行する」
「分かったわ」
守華は嬉しそうに黒馬のたてがみに手を置き、「お願いね」と囁くと、軽やかにその背に乗った。
ゆっくりと町を歩き出す二頭の馬。
通りすがりの人々は驚きと憧れの眼差しを向け、やがて歓声が広がった。
「守華さまー!」
「守華さまー!」
子供から大人まで、皆が手を振る。
守華は笑顔で片手を上げ、その一人ひとりに応える。
「……私より守華のほうが人気だな」
横に並ぶ蘭明が、半ば呆れ、半ば誇らしげに言う。
「そんなことないわよ」
守華は照れくさそうに微笑んだ。
「ほら、よく見ろ。守華と同じ服を着ている娘たちが増えている」
蘭明の視線の先――町の若い娘たちが、動きやすい短いスカートの服装で楽しそうに歩いていた。
それは守華が琉璃を救ったとき、一気に広まった憧れの象徴。
「強く、美しくありたい」と願う娘たちが、守華の姿を真似て装いを変えていったのだ。
町の風景が少しずつ変わりつつある。
「なんか、恥ずかしいわね」
守華は少し頬を赤らめながら笑った。
「じゃあ、ここから早く立ち去るためにも、どっちの馬が速いか競争してみるか」
蘭明がにやりと笑う。
「受けてたつわ。負けたほうが勝った方の言うことを聞くのよ。よーい、スタート!」
二人の馬が一斉に走り出す。
蘭明の馬は皇子の馬だけあって、体躯も大きく、足取りも力強い。長年ともにしてきた息もぴったりで、その美しい走りは見る者の目を引き付けた。
しかし、守華が乗った黒い馬も負けてはいない。
初めて乗ったはずなのに、馬の動きに合わせる守華の姿はまるで一体化しているかのようで、互角の速さを見せる。
二人は笑顔を浮かべ、風を切って駆ける――
譲り譲られの激しい勝負。笑い声が大きな川の流れに混ざり、自然豊かな景色をさらに生き生きと彩った。
最後に、わずかの差で蘭明の馬が先にゴールへたどり着く。
「んー、悔しい!」
守華は馬から降りると、汗をかいた馬の首を優しく撫でた。
川のせせらぎ、鳥の声、広がる緑――自然の中での一瞬が、二人の心を穏やかに満たす。
「あなたは、私の近くにいてくれるの?」
守華が馬に問いかけると、さっきと同じように馬は首を軽く振って頷いた。
「戻ってきてくれてありがとう。じゃあ、名前を決めないとね!」
守華は楽しそうに微笑みながら、馬のたてがみに手を置く。
「何がいいかな……」
少し考え込む守華。
「フリーダムにしよう!」
「フリーダム?」
蘭明が首をかしげる。
「そうよ。あなたの名前は『フリーダム』。自由っていう意味なの。また、苦しくなってどこか行きたいときは、私に遠慮せず、自由にどこへでも行っていいわ」
守華は満面の笑みで撫で続ける。
その手を、そっと蘭明が取った。
「フリーダム、すまないがご主人様を少し借りるぞ」
フリーダムを木につなぎ、二人は川辺の小道を並んで歩き出した。
「よかったな、戻ってきてくれて」
蘭明が横目で守華を見る。
「……まさか戻ってくるとは思わなかったけど」
守華は小さく笑いながらも、まだ信じられないようにフリーダムの方を振り返った。
「守華のことが気に入ったんだな、あの馬は」
「そうだといいんだけどね」
穏やかな会話のあと、ふいに蘭明の声色が変わる。
「さて――先ほどの勝負で俺が勝ったことだし。何をしてもらおうかな」
ニコニコと笑みを浮かべながら、蘭明がわざと顔を近づける。
不意に近づく距離に、守華は思わず足を止めてしまった。
……気づけば、手が繋がれている。
「ちょ、いつの間に……!」
慌てて手を振りほどこうとした瞬間、逆に強く引き寄せられ――
「きゃっ……!」
勢いで振り返った守華の唇を、蘭明の唇がさらっていった。
一瞬の出来事に、守華の瞳が大きく見開かれる。
頭が真っ白になり、身体が石のように固まってしまう。
ほんの数秒。けれど永遠に感じる時間。
そして、ゆっくりと唇が離れた。
まだ呆然としている守華を見下ろしながら、蘭明が得意げに囁く。
「さっきの勝負の、守華から私への“ご褒美”」
「~~~~っ!!!」
やっと息を吸い込んだ守華は、顔を真っ赤にして睨みつける。
「な、なにがご褒美よーっ!!!!」
その声を合図にしたかのように、蘭明は笑いながら駆け出す。
「ははっ、怒った顔も可愛いぞー!」
「待ちなさーい!!」
守華も必死に後を追いかける。
川のせせらぎを背に、森の中に響く二人の声は、まるで恋人同士のじゃれ合いのように明るかった。




