22.湖畔の笑顔と、襲来の影
「守華さま、お出かけのご準備をお願いいたします」
桜音亭の外から、白鋭の声が響いた。
まだ布団の中にいた守華は、その声で目を覚ます。
「えっ、こんな朝早くに…どこに行くのよ?」
「蘭皇がお待ちです。ご支度をお願いします。今、小心も参ります」
「まだ寝ていたいのにーーー!」
文句を言いながらも、渋々起き上がる守華。
そのタイミングでドアが開き、小心が入ってきた。
「こちらでお顔をお洗いください」
机の上に置かれた水の入った桶を見て、守華はあくびをしながら顔を洗う。
「こんな朝早くに、どこに連れて行くつもりなの?」
「さぁ…でも、お弁当も作らせていましたよ」
「お弁当?ピクニックかしら?」
「えーと、ピクニックとは…?」
いいの、いいのと手を振り、守華は着替えを始めた。
準備を整え、守華は屋敷の外に出た。
そこには、蘭明、八軒、白鋭がすでに待っていた。
「遅いな」
守華は思わず蘭明を睨む。
「いきなり叩き起こされて、そこから準備だもん。それなりに時間かかるでしょ!こういうのは前もって言うんじゃないの?」
「そうなのか?次からはそうする」
今日は反抗してこない蘭明に、守華は少し拍子抜けした顔をした。
八軒はすでに馬に跨っている。
蘭明は守華を馬車に乗せようと手を伸ばすが、守華が首を傾げる。
「私、これに乗るの?」
「そうだ」
「えー、私も八軒みたいに馬に乗りたい!」
「守華、馬に乗れるのか?」
「えっ、乗れないけど…」
呆れ顔の蘭明は馬を連れてきて守華を乗せる。
そしてその後ろに自分も跨る。
「ゆっくり行くが、落ちないように俺に寄りかかれ」
「うん、わかった」
守華は顔だけ蘭明に向け、無邪気な笑顔を見せた。
その瞬間、蘭明の胸がドキリと高鳴る。
――何だ、この感覚は…?
守華の笑顔が、こんなにも可愛く見えるなんて――。
思わず顔が赤くなり、視線を逸らしかけるが、守華は気づかず笑い続ける。
蘭明は自分の心臓の音を押さえつつ、静かに馬を進めた。
馬に乗るのは初めての守華。
天気も良く、風を感じるたびに心が弾む。
町を抜け、木々の間を進むと、やがて山の中へ入っていった。
「どこに行くの?」
「陽月国の中で、俺のお気に入りの場所だ」
「ふ〜ん」
守華はただ返事をするだけで、導かれるまま進む。
「八軒、お前はここで待っていろ」
「はっ」
そう言うと、八軒は馬を止め、守華と蘭明だけで先へ向かう。
数分いった先、木々の間に差し込む光の向こうには、キラキラと輝く湖が現れた。
「わぁ……綺麗。陽月国にも、こんな場所があるんだ」
「俺のお気に入りの場所だ」
蘭明は馬から降り、守華に手を差し伸べる。
守華はその手を取って馬から降り、縄を近くの木に巻いた。
二人は湖のほうへ歩みを進める。
「う〜〜ん」と背伸びをして景色を見渡す守華。
「素敵なところね。もっと早く連れてきてほしかったな」
「ここは、よく母に連れてきてもらった場所だ。考えごとするときはいつもここに来ていた」
「そっか……お母さんとの思い出の場所なんだ。ねぇ、蘭明のお母さんって、どんな人だったの?」
「俺が五歳の頃に亡くなったから、あまり記憶にはない。でも、芯が強くて、優しくて、頼れる人だった」
「へぇ……なんだか、私のお母さんに似てるかも。うちの母も強くて、一緒にいるだけで安心できる人だった。『人に涙を見せるな、弱みを見せるな』が口癖で、私も母の泣くところを見たことないの」
「なるほど……守華の母と似ているのか。案外、男より女のほうが強いのかもしれんな」
「そうね。きっと、蘭明より私の方が強いわね」
「なんだよ、それ」
二人は笑い合う。
しかし笑いの余韻の中で、蘭明の胸に小さな波が立った。
守華の無邪気な笑顔――あの笑顔を見ただけで、心臓がぎゅっと締めつけられるように高鳴る。
顔が自然と熱を帯び、思わず視線をそらせずにはいられなかった。
「……守華」
「なに?」
振り向いた守華は、屈託のない笑顔を向ける。
その瞬間、蘭明の胸は何度も跳ねる。
笑顔ひとつで、こんなにも心を揺さぶられるなんて――今日の自分は、少しおかしいかもしれない。
湖のほとりには、風と光が柔らかく差し込み、二人だけの静かで甘い時間が流れていた。
「誰だ、出てこい!」
蘭明が振り向く。
「えっ?」
守華も後ろを振り返ると、そこにはさっきまでいなかった黒衣の刺客が十人ほど、ずらりと並んでいた。
「またー……?」
守華は目を丸くするでもなく、むしろあきれた顔。
前ならビビっていたのに、今はどこか開き直った様子だ。
沈黙。
どちらが先に動くか、緊張が張り詰める。
「狙われてるの、蘭明でしょ?」
小声で蘭明に尋ねる守華。
「あぁ……」
「じゃ、ごめんね!」
そう言うと守華は蘭明を後ろから押し出し、刺客の方へ突き出す。
「あなたたち、狙いは蘭明でしょ?さあさあ、どうぞ連れてって!私は関係ないし!」
ドヤ顔で宣言する守華。
蘭明は「こいつ……」と呆れた表情で守華を見つめる。
刺客たちも思わず「えっ?」と目を見開く。
「あ、あっ、そ、そりゃどーも……」
「いいのよいいのよ、さあ、早く連れてって!」
刺客が蘭明に近づこうとしたその瞬間、刺客の一人が後ろの方を指さして大声を出す。
「違うわ!狙いは女のほうだ!」
「えっ!?私!?」
守華は自分の胸を指し、目を大きく見開く。
「大人しくついてきてもらおうか」
「な、なにあれ!?!?」
刺客の後ろを指さす守華。刺客も思わず振り返る。
その隙に逃げようとするが、蘭明に手をしっかり掴まれ、動けない。
「ごめんなさい、さっきはつい……だから、私を渡さないでーー!」
「はぁ……」
蘭明は大きくため息をつき、低く呟いた。
「死にたくないなら、ここでじっとしていろ。」
守華は一瞬、反抗心がわきかけたが、周りの刺客たちを見て状況を悟る。
珍しく素直に頷き、息を整えて言った。
「……わかった.....」
後ろに隠れる守華を気にしながらも、蘭明と刺客の間にはピンと張り詰めた空気が漂っていた。
前に刺客に襲われたときは、守華をそそくさと連れて八軒が全て相手していたため、蘭明は弱いと思っていた。
しかし今、刺客と戦うその姿を目にして、思い出す。
海尭も小心も言っていた。
「武芸は弟二人に負ける」
「蘭皇は頭脳も武芸も一流」
そうだ、蘭明は武芸が本当にすごいんだ。
やっちまったな……という表情で、守華は右手を額に当てる。
その瞬間、刺客の一人が守華を狙って斬りかかる。
「きゃー!」
守華は慌てて座り込む。
だが顔を上げると、そこには必死に守華を守る蘭明の姿があった。
次の瞬間、蘭明は巧みに体を捻り、刺客の手首を掴んで刀を弾き飛ばす。
「守華、離れろ!」
守華は言われるまま後ろに下がり、蘭明がその刀を奪いとった。
刺客たちの視線は蘭明に集中し、十数人対一の戦いが始まった。
しかし、蘭明の動きは無駄がなく、速く、鋭い。
一振りで刺客の刀を受け流し、また一人、また一人と退けていく。
そのたびに守華は息を呑み、蘭明の背中を見つめるしかなかった。
「……こんなに強かったんだ……」
心の奥で、守華は改めて蘭明の凄さを思い知った。
八軒がすかさず助けに入る。
「気づくのが遅れてすみませんでした」
二人の息の合った動きに、守華は思わず目を見開く。
「かっこいい……」
刺客たちはダメだと悟ったのか、その場から音もなく姿を消していった。
「大丈夫でしょうか?」
「……ああ」
八軒が心配そうに蘭明に近づく中、蘭明は守華のもとへ歩み寄る。
しゃがみこんでいた守華に手を差し出す。
「大丈夫か?」
「う、うん」
守華の小さな声に、蘭明はふっと笑みを浮かべる。
「私が弱いと思って、あいつらに私を渡そうとしたのか」
「いやいやいや、あれは渡したとしても、蘭明ならどうにかすると思って……あははは……」
目を逸らしながら、守華は少し申し訳なさそうに笑った。
「これで分かっただろ」
「は、はい……もう二度と渡したりしません」
「よろしい」
守華は握られた手をそっと握り返す。
胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
そして不思議なことに――
守華はその場で珍しく、蘭明の言うことを素直に聞く気になった。
「じゃあ、今日は大人しくしていろ」
「……はい」
いつもなら口答えして突っかかる守華が、ほんの少し肩をすくめて小さく頷く。
その様子に、蘭明は思わず微笑んで守華の頭をポンポンと優しく撫でた。
また刺客に狙われ、ゆっくりできる暇はなかった。
馬に揺られながら帰路につく。
「最近、刺客が現れることが増えましたね。今までこんなことはなかったのに」
八軒が不思議そうに口を開く。
この陽月国は権力争いもなく、平和だと思われていた。守華が現れるまでは……。
「狙いは私だったのね」
「守華さまが!?」
八軒は驚きの声を上げる。
守華は考え込むように眉を寄せる。
「なんで私が狙われるのかしら?じゃあ、前に屋敷に来た刺客たちも、私が狙いだったってことよね……」
「怖いか?」
守華は首を横に振った。
「最初は確かに怖かったけど……やられたらやり返すわよ。黙ってやられてたまるもんですか!?」
蘭明は少し笑って感心する。
「ははは、さすがだな。やはり女は強いというより、守華が強いのか」
「今日も刺客を取り逃してしまいました。前回のも全然情報が掴めず、どこの刺客なのか、黒幕も全く分からず……」
八軒は険しい顔で話す。
「早急に黒幕を捕まえねばな。人数を増やして探させろ」
「はっ」
八軒が力強く答える。
蘭明と八軒の会話が続く中、守華は馬の揺れにも関わらず、頭の中でひたすら考え込んでいた。
──なぜ私が狙われるのか……。
守華の目には決意の色が浮かぶ。
「わかった!!」
守華が閃いたように大声をあげる。
「いきなりどうした?」
蘭明が顔だけ守華のほうに向けて尋ねる。
「私に剣術と馬の乗り方、弓の使い方を教えて!」
蘭明と八軒は顔を見合わせる。
「私が狙われるなら、自分の身は自分で守らないと」
「女が武芸なんて、ありえない」
「ありえないって何よ!?男にしかできないっていうの!?私だってできるわよ!」
その勢いに、蘭明は思わず後ずさる。
「私や八軒がいれば安心だろ?」
「24時間ずっと一緒にいるわけじゃないでしょ?たまたま2回とも蘭明が近くにいたからよかったけど、いなかったら?そのまま私は抵抗もできずにやられるのよ!?そんなの私がごめんだわ」
八軒も口を挟む。
「蘭皇、守華さまの言い分も分かります。少しでも自分で守れれば、それはそれでいいのではないでしょうか?私も教えられますし、私の友人の女にも武芸のできる者がおりました」
蘭明は少し考え込み、やがて頷く。
「ならば、私は忙しくて教えられないかもしれん。八軒と星曜に教えてもらえ」
「わかった!八軒、よろしくね!」
「はい」
八軒は笑顔で返す。
守華は満面の笑みで拳を軽く握り、心の中で決意を新たにした。
──これで、次に刺客が来ても、私は自分の身を守れる。




