21.簪とときめき
あれからというもの、夏翠は――やればやり返されると思っているのか、それともただ単に忙しくなったのか――悪戯を仕掛けてこなくなった。
守華は内心、そのやりとりを楽しんでいたから、少し退屈で物足りない気分になっていた。
その日、蘭明も不在で、守華は庭の石に腰かけ、ぽつんと暇を持て余していた。
「守華」
ふと名前を呼ばれて振り返ると、そこに立っていたのは海尭だった。
「海尭!」
守華はぱっと顔を明るくして駆け寄る。
「どうしたの? 蘭明なら出かけてて、いないけど?」
「今日は蘭明じゃなくて、守華に会いに来た」
「えっ?」
思わず目を瞬かせる守華。
海尭は口元に小さな笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「町に行ってみたいって言ってただろ? 連れていってあげるよ」
「……本当に!?」
守華の瞳が一気に輝き、無邪気に一歩近づく。
「ちょっと待ってて、着替えてくるから!」
「分かった。ゆっくりでいいよ」
長いスカートに着替えた守華は、海尭とともに町へ繰り出した。
通りには人があふれ、初めて目にするものばかり。守華の瞳は子どものように輝きを帯びる。
屋台に並ぶお菓子の中に、ドラマで見たことのある「サンザシ飴」を見つけた。
「……!」
思わず立ち止まった守華を見て、海尭は無言でそれを買い与える。
初めて口にするサンザシ飴。
酸っぱさと飴の甘さが絶妙で、思わず笑みがこぼれた。
その後も賑やかな町並みを見て歩くが、人混みに押され、長いスカートに足を取られた守華はよろめく。
瞬間、海尭の腕がすっと伸び、彼女を抱きとめた。
「っ……!」
胸の鼓動が跳ね上がる。
体勢を整えた海尭は、何気ない調子で言う。
「危ないから」
そう言って、自然に彼女の手を握った。
守華の顔はじんわり熱くなり、ニヤニヤが止まらない。
簪屋の前で足を止めた海尭。
守華の視線も自然と店先に並ぶ品へと引き寄せられる。
三日月のような形に、ほんのり光を散らした簪が目に留まった。
思わず手に取ると、胸がふわりと温かくなる。
「それが気に入ったのか?」
隣から静かな声。
「うん。豪華なものより、こういうほうが…私には合ってる気がして」
そう答えて、そっと元の位置に戻した。
その瞬間――。
「おじさん、これを」
海尭が迷いなくその簪を取り上げ、守華の髪にすっと差し込む。
「…っ!」
不意の仕草に胸が高鳴る。
「ありがとう」
少し照れながらも、頬に熱を感じて笑顔を返す。
「大事にするね」
「ああ」
短い返事に、確かな優しさがにじんでいた。
気遣いがあって、穏やかで、自然に寄り添ってくれる海尭。
そんな彼に、守華の心は静かに惹かれていく。
――こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
暗くなって、蘭明が屋敷に帰ってきた。
「守華は?」
「部屋にいると思います」
白鋭の返事に、蘭明は眉をひそめながら歩き出す。
「今日、守華は何してた?」
「海皇が来て、守華さまと一緒に町に出かけてました」
「海尭と!?」
「え、あ、はい…」
「守華さま帰ってきてから妙に上機嫌でした。海皇と何かいいことでもあったんですかね?」
一瞬立ち止まり、いつもの自室ではなく守華の部屋へ向かい直す。
そのころ、守華は小さな鏡で頭の簪を触りながら、にやにや笑っていた。
町デートのことを思い出す。海尭が手をつないでくれたこと、よろけた時に抱き上げてくれたこと……胸の奥がきゅんとして、自然と笑みがこぼれる。
_____ガラン
桜音亭のドアが開く音に気づき、守華は後ろを振り向く。
「あ、蘭明。どうしたの?」
蘭明が近づいてくる。
その目は少しだけ、いつもより険しい。
「ご機嫌だな」
「まぁね」
「今日は何してた?」
「教えなーい」
蘭明はチッと舌打ちしながら目を横に流す。
蘭明の手が簪に触れた瞬間、守華はすぐに手で払いのける。
「こんな簪、あったか?」
「海尭にもらったの。着替えるから出てって」
そのまま蘭明をドアのほうへ押しやり、守華はドアを閉めた。
閉められたドアの前に立つ蘭明は、唖然としながらもしばらくその場に立ち尽くす。
海尭と楽しそうにしていた守華を思い出し、少しだけ嫉妬の色も混じった。
部屋の中では、鏡の前で簪を整えながらにやにや笑う守華。
そして心の中で、次に海尭とどんな時間を過ごそうかと、ちょっとワクワクしていた。
桜音亭の前で待っていた白鋭と八軒は、追い出された蘭明を見て少し目を見張った。
その視線に気づき、蘭明は平然を装いながら言った。
「戻るぞ」
部屋に戻ると、蘭明はすぐに問いただす。
「女は簪の贈り物で、そんなに喜ぶもんなのか?」
白鋭と八軒は目を合わせ、しばらく沈黙したあと、八軒が口を開く。
「贈り物をしたことがないので正確には分かりませんが……やはり、好意のある方からもらうと嬉しいのではないでしょうか」
白鋭もうなずきながら同意する。
「好意がある……」
蘭明の眉がぴくりと動く。
「あっ、いや、でも分かりませんよ。誰だってもらえれば嬉しいと思いますし……」
八軒が慌てて弁解する様子に、部屋の空気が少し緊張する。
腕を組み、片手を顎に当て、考え込む蘭明。
「ふむ……なるほど」
窓の外から守華のことを思い浮かべているのか、視線はどこか遠くを見ている。
それを見ている白鋭と八軒は、肩でお互いを押し合っていた。




