19.初めて作ったクッキー
「守華さまー! 海皇と星皇がお見えです!」
「えっ、海尭が? どこにいるの?」
「たぶん蘭皇のお部屋に行かれたかと」
慌てて蘭明の部屋へ駆け出す守華。
部屋の前に立っていた八軒が丁寧に一礼した。
「守華さま」
「入るわねー!」
八軒を素通りして勢いよく扉を開ける。
中にいた三人が、同時に守華へ視線を向けた。
守華は真っ先に海尭に目をやり、にっこり笑う。
その笑顔を見逃さなかった蘭明は、面白くなさそうに眉をひそめる。
「守華、もう傷は平気なのか?」
海尭が心配そうに声をかけた。
「うん、大丈夫! 海尭のおかげですぐ元気になったの」
自然に海尭の隣へ腰を下ろす守華。
蘭明は舌打ちをして横を向いた。
「災難だったな。侍女の格好をしていたんだろ? そのままでいれば何もされなかったはずなのに」
星曜が不思議そうに話す。
「だって、あの場所に入るには侍女に化けるしかなかったんだもの。いいの、海尭が助けてくれたし、小心のも返ってきたし!」
にこにこと海尭に笑顔を向ける。
守華が満面の笑みで「海尭に助けてもらったの」と話した瞬間、蘭明の指がピクリと動いた。
表情は変わらない。無表情の仮面を張りつけたまま、ゆっくりと湯飲みを口に運ぶ。
けれど、握りしめた湯飲みの縁にわずかなきしみが走った。
その手に込められた力が、蘭明の内心を雄弁に物語っている。
「そうか。……海尭に感謝するんだな。」
低い声でそれだけを告げると、蘭明は視線を逸らした。
誰の目にも冷静に見えるその態度。
だが、胸の奥に走るざわつきは、本人すら持て余していた。
――どうして、あいつに助けられたことを、そんなに嬉しそうに話すんだ。
守華の笑顔を見れば見るほど、蘭明の心は波打っていく。
「気にしてなどいない」と言い聞かせるほどに、気になって仕方がなかった。
「それにしても、守華の服装は初めて見るな。いいじゃないか。女子はみんなその格好でいてくれればいいのに」
星曜が感心したように言う。
「おっ、さすが星曜! 分かってるじゃない!」
守華は星曜の肩を軽くつつき、楽しげに笑う。
「いや、星曜はやらしい目で見てるぞ」
海尭が小声で守華の耳元に囁いた。
「えっ、そうなの!? 星曜、いやらしいこと考えてるの!?」
その一言に、蘭明の目がギラリと光り、星曜を睨む。
「ま、まさか! かわいい服だから褒めただけだよ!」
星曜は慌てて苦笑いを浮かべた。
「……で、守華。何の用だ?」
蘭明が落ち着いた声で問いかける。
「あっ、そうだ!」
何かを思い出したように、守華の顔がぱっと輝く。
「海尭、今日はまだここにいるのよね?」
「特に予定はない。……まだしばらくはいるさ。」
「なら、よかった!」
安堵したように微笑む守華。その瞳は真っ直ぐに海尭へと向けられている。
――その様子を、黙って見つめているもうひとりの視線があった。蘭明だ。
「私が戻ってくるまで、ここにいてね!」
嬉しそうに言い残して、守華は軽やかに部屋を出ていく。
残された海尭の隣で、白鋭がニヤニヤと笑いながら囁いた。
「……守華さまは、海皇がお気に入りみたいですね」
「いやいや、そんなことは――」
口では否定しながらも、海尭の口元には隠しきれない笑みが浮かぶ。
その一方で。
蘭明は腕を組み、椅子にふんぞり返りながら深いため息を吐いた。
「……やってられん」
その顔には、面倒くささと苛立ちと、そして言葉にできないもどかしさが入り混じっていた。
蘭明の部屋を後にした守華は、小心を連れて台所へとやって来た。
「守華さま、何をされるのですか?」
「海尭にね、お礼に何か作ってあげたいの」
「まあ、それはきっとお喜びになりますね」
守華は台所の棚を開けて、珍しい食材を次々と確かめていく。
――この時代でしか作れないものを。いや、逆に、この時代にはないものを。
ふと、目が輝いた。
「……あっ、これなら!」
小麦粉と卵、そして砂糖の代わりに蜂蜜を手に取り、守華は迷わずボウルへ落としていく。
「よし、クッキーを作ろう!」
フライパンの上で甘い香りが広がっていくと、小心は興味津々に覗きこんだ。
「できた!」
「なんていい匂いなのでしょう」
「小心、ちょっと味見してみて」
「これは……なんという食べ物ですか?」
「クッキーっていうのよ」
「くっきー……?」
恐る恐る一口。次の瞬間、小心の目がまんまるに見開かれた。
「わぁ……すごく美味しいです!甘くて、でも優しい味がします。こんな食べ物、初めてです!」
「ふふっ、よかった」
守華は小さく胸を張った。
日本でもよく作っていたお手軽なおやつ。バターのないこの時代でも、蜂蜜を使えば十分に美味しく仕上がることを、守華は知っていた。
「お待たせー!」
お皿にクッキーを並べ、守華は笑顔で蘭明の部屋に入った。
中には蘭明、海尭、星曜、八軒、そして白鋭まで揃っている。
視線が一斉に守華の手元へ集まった。
「何、これは?」
第一声をあげたのは星曜だった。
「クッキーよ」
「くっきー???」
星曜が興味津々で手を伸ばした瞬間――
___バシン!
「痛っ、何すんだよー!」
「これは海尭のために作ったの。こないだ助けてくれたお礼よ。ずっと渡したかったから、まずは海尭が食べて」
守華の言葉に、部屋の空気がふっと変わる。
海尭は照れくさそうに周囲を見回した。
蘭明は面白くなさそうに視線をそらす。
一方、星曜・八軒・白鋭の三人は「早く食べて」と目で急かしている。
海尭はそっとクッキーをつまみ、口へ運ぼうとした。
守華は机に両手をついて、あどけない笑顔でじっとその瞬間を見つめる。
――その時、そっぽを向いていたはずの蘭明も、ちらりと横目でその光景を追っていた。
唇をかすかに引き結びながら。
海尭がそっとクッキーを口に入れる。
噛んだ瞬間、カリッとした音が響き、彼の表情が変わった。
「どう?どう?どう?」
守華が身を乗り出して尋ねる。
海尭は手の中のクッキーをまじまじと見つめ、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……初めて食べる食感だ。守華、これはすごく美味しいよ」
「でしょー!」
守華の笑顔は花のようにぱっと咲き、部屋の空気を一気に明るくする。
「海尭も食べたんだから、僕もいいよね?」
待ちきれない様子で星曜が手を伸ばす。
「もちろん! みんなも食べてみて!」
促されると、星曜はすぐさま頬張り、目を輝かせた。
「わあ! 何これ! カリッとしてるのに、ふんわりもしてて……めちゃくちゃ美味しい!」
その横で、八軒と白鋭はちらりと蘭明の様子をうかがい、動けずにいる。
それに気づいた守華は、にこりと笑いながらもクッキーを二枚手に取り、すっと2人の前に差し出した。
「ほら、あなたたちも食べてみて」
八軒と白鋭は目を合わせ、わずかにためらう。
守華はすかさず横目で睨むように言った。
「……まさか、私が作ったものが食べられないって言うの?」
「い、いえ! そんなことはございません」
「よ、喜んでいただきます!」
慌てて答えるものの、2人の手はまだ止まったまま。
その視線の先にいるのは、やはり蘭明だった。
「蘭明」
守華が呼びかけると、蘭明は静かに頷き、短く言った。
「食べていいぞ」
その一言でようやく、八軒と白鋭は口に運び、驚いたように目を見開いた。
守華は、最後に蘭明にクッキーを渡そうと手を伸ばす。
でも、ふと気づいた。
「ごめんなさい、蘭明……甘いの、嫌いだったわよね?」
差し出した手をそっと引っ込める。
その瞬間、蘭明の手がスッと伸びて、守華の手からクッキーを奪い取った。
「えっ……!」
思わず声をあげる守華。目が大きく見開かれる。
「うん、まぁ……まぁ……だな」
口元にほんのり笑みを浮かべつつ、クッキーを噛む。
「……何よ、それ」
守華は顔をぷいっとそらし、少し不満げに海尭の隣へ戻る。
蘭明は守華に見ていないのを確認すると、手に持っていたクッキーを一気に口へ運び、満足そうに小さく頷いた。
部屋には、ほのかな甘い香りと、守華の笑顔、そしてちょっと照れた蘭明の存在感が残った。




