15.雨の夜、抱きしめたヒーロー
守華はぼんやりと今日の過ごし方に迷っていた。
「しょーしーん」
呼びかけると、小心がすぐに駆け寄ってくる。
「はい、守華さま。いかがなさいました?」
「前に蘭明にもらった石、覚えてる? あれ、どこに置いてたっけ?」
「こちらにございます」
小心は大事そうに小箱を取り出し、両手で守華に差し出した。
受け取った守華はふと、小心の手首に目をとめた。
「あれ?」と小さくつぶやき、彼女の腕を掴んで袖をまくり上げる。
「お母さんからもらったっていう腕輪は? 前はいつも着けてたのに」
問いかけに、小心の瞳がかすかに揺れ、困ったように視線を逸らした。
「あ……そのことですが……」
「どこにやったの?」守華の声は少し強くなる。
小心はしばらく沈黙し、やがて唇を噛んで絞り出すように言った。
「……実は、先日後宮へ手伝いに参った折、皇后さま付きの侍女に……取られてしまいました」
「なにそれ!?なんで奪い返さなかったの!?大事な腕輪なんでしょ?」
「……皇后のお付きの侍女には、私の身分では何も言えません。いいんです、いいんです」
小心は無理に笑顔を作って頭を下げ、仕事へ戻ろうとする。
その姿がかえって痛々しく、守華は咄嗟に小心の腕を掴んだ。
「いいわけないでしょ。――取り返しに行くよ!」
守華の目が燃えるように輝き、部屋の空気が一変した。
小心は言葉を失い、ただその背中に目を見張るしかなかった。
守華は後宮の侍女に変装し、髪型も後宮の作法に合わせて整えた。
これで蘭明の屋敷からもすんなり抜け出せる。
「なーんだ、侍女の格好すれば、こんなに簡単に抜け出せるじゃん」
くすりと笑う守華に、小心は心配そうな顔で見つめる。
「大丈夫ですか?何かあったら……」
「大丈夫だって!私がなんとかするから」
小心の肩を軽く抱き、トントンと叩く守華。
「でも、やっぱりやめましょう。腕輪はあきらめますから」
「何言ってんの!?あんなに嬉しそうにお母さんの形見だって。大切にしてたでしょ?
小心が諦めても、私は納得しないから!私のために取り返しに行くの!小心は私の後ろにいればいいの」
守華は食材を抱え、買ってきた風を装って後宮の中へ足を踏み入れた。
ざわめくたくさんの侍女の中を縫うように進み、腕輪を奪った侍女を探す。
「守華さま、あの方です」
小心が指さした先には、ここにいる侍女たちとは少し違う装いの女性がいた。
腕には、間違いなく小心の腕輪が輝いている。
カーッと熱が上がる守華は、その侍女に一直線。
迷うことなく腕を掴み、腕輪を取り返そうとする。
「何をするの!!」
守華は不敵な笑みを浮かべ、
「何をするの?って、1番あなたが知ってるんじゃないの?」
「無礼な!」
「無礼?無礼なのはそっちでしょ!」
守華は腕輪を奪い返し、その手で侍女を軽く突き飛ばした。
腕輪を小心に差し出しながら、守華はにらみを効かせる。
「人のものを勝手に奪うほうが無礼じゃないの?しかも皇后の侍女って肩書きを持ちながら、立場の弱い侍女から奪うなんて」
突き飛ばされた侍女は立ち上がり、むっとした顔で答える。
「そのへんの侍女のくせに、高級な腕輪なんてしてるからよ」
「奪ったことを認めるのね」
「捨ててあったのを拾っただけ」
守華は腕輪を小心に渡すと、再び侍女の胸ぐらを掴みもみ合いになる。
その騒ぎを見た周囲の人々が集まり、場は騒然となった。
「何をしておる」
一言で人々の間に道が開き、全員が立ち止まる。
侍女は気づき、慌ててひざまずく。
守華はまだ腹の虫がおさまらないが、少し面白くなさそうな顔で立った。
小心が守華のそばに駆け寄る。
「皇后です」
「分かってるわよ」
「ここは座ってください」
守華はため息混じりにひざまずく。
「可憐、何をしておる」
揉み合いになっていた侍女、可憐が答える。
「この侍女が、意味も分からず私に飛びかかってきて……」
皇后は守華を見下ろし、すぐに正体に気づいた。
蘭明の屋敷に引き取られたあの女だ、と。
「意味が分からず……皇后付きの私にやきもちをやいたのでしょう」
「誰がやきもちなんて」
「おだまり!お前は何か言い分があるのか?」
守華は横を向き、無言でそっぽを向く。
小心が服を心配そうに引っ張る。
「はぁー」
大きなため息をひとつ。守華は立ち上がった。
「この侍女が、人のものを勝手に取ったのです」
「私付きの侍女が盗みを……」
「盗んでおりません。どうか信じてください」
可憐は頭を下げる。
「知らぬ者を信じるのではなく、私の可愛がる可憐を信じるに決まっておる」
守華は皇后をにらみつけた。
「この者に罰として膝まづきを命じる」
「皇后は、上っ面だけで判断するかたなのですね」
「侍女の分際で私に歯向かうとは!膝まづきだけでは足りぬ、鞭打ちもせよ」
皇后は去り、可憐はその後ろをついていく。
守華にざまーみろと言わんばかりの表情を見せる侍女は小さく笑みを浮かべた。
守華は両腕をしっかりと掴まれ、そのまま静かに連れて行かれた。
小心は涙目で「どうしよう、どうしよう……」とつぶやきながら、必死に後ろをついていく。
地面の上に膝をつかされ、守華は冷静に前を見据えたまま、表情ひとつ変えない。
「守華さま、私が代わりに罰を……お立ちください」
小心が必死に守華をかばおうとするが、守華はゆっくりと頭を振る。
「邪魔だ!そこをどけ!」
小心は無理やり守華から離され、後ろに下がるしかなかった。
「小心、私は大丈夫よ。皇后は私に命じたのだから」
「でも……」
「離れていろ」
小心は思わず後ずさり、少し突き飛ばされる形になった。
「ちょっと!小心に乱暴しないでよ!私にだけ命じたんだから、私にやりなさいよ!」
守華は瞳を鋭く光らせ、男を睨みつける。
男は軽くふんっと鼻で笑い、ゆっくりと鞭を振り上げた。
鞭が空気を切る音とともに、守華の肩に触れる。
痛みは瞬間的に走ったが、守華は顔色一つ変えず、強く地面を見つめ続ける。
小心はその様子を見つめ、胸が張り裂けそうになる。
「守華さま……」
思わず手を握りしめ、涙がこぼれそうになるのを必死にこらえた。
守華は痛みを感じながらも、決して声を上げず、むしろ凛とした姿で立っていた。
その姿に、小心は自分が守られる側であることを痛感し、守華への尊敬と愛おしさを胸に刻むのだった。
ドラマでは見ていたけど、本当にこんなことがあるんだ。
さすがの私も皇后には勝てないか。
時代が違いすぎる、と心の中で呟く。
何度も鞭が背中を叩くたび、守華の体が小さく震える。
小心はその様子を黙って見守るしかなく、鞭が触れるたびに目を伏せ、震える手を握りしめた。
涙が頬を伝い落ちるのも気づかない。
痛みは現実だ。
それでも守華は、涙も声も見せず、ただ耐える。
服のあちこちは裂け、血が滲む。
「もう、その辺で良い」
鞭打ちの男に、皇后の侍衛が告げる。
皇后は上から守華を見下ろし、冷たい視線を向けた。
「あとは膝をつき、よく反省することだ」
守華は何も言えず、ただ膝を地面につける。
侍衛は守華の周りをゆっくり一周すると、皇后の元へと戻っていった。
小心の姿はもうなかった。
守華は一人、地面に膝をついたまま立ち上がることもできず、ただ息を整える。
膝からも血がにじみ、背中の痛みはまだジンジンと響く。
悪くもない人に罪を背負わせるのが当たり前のこの時代。
陛下、皇后の言葉こそが絶対だ。
矛盾だらけのこの世界に、守華の胸は締め付けられる。
空は暗く、雨がポツリ、ポツリと落ちてきた。
守華は空を見上げ、冷たい雨に濡れる。
「ここは、ドラマの中かよ……笑える」
背中にも雨が染み込み、傷口をさらに痛める。
守華はそれでも、膝をついたまま、じっと前を見つめた。
痛みと理不尽を受け入れながら、静かに心の中で誓う。
……絶対、負けない
冷たい雨と血に濡れた膝の上で、守華の意志が小さく、しかし確かに燃え上がっていた。
⸻
「あの女にアザがありました」
「誠か?」
「この私が確認いたしましたゆえ、間違えございません」
「でかしたぞ。あとは、妖石を持っていればか……」
暗闇の中、誰にも見つからぬよう息をひそめて話す二人。その姿は、まるで影に溶け込むようだった。
一方、蘭明の屋敷では、帰りを待つ八軒の心がざわついていた。
白鋭と共に屋敷に戻った蘭明を見つけると、八軒は慌てて駆け寄る。
「蘭皇、大変でございます」
「どうした?また、あの女が何かやらかしたのか?」
傘を閉じながら八軒に問う蘭明。
「はい……」
「今度は何をやらかした」
八軒は、皇后に歯向かい、罰を受ける守華の様子も見ていた。だが蘭明は不在で、伝えられるタイミングを失っていたのだ。
八軒が今までの経緯を一気に話すと、蘭明の顔が一瞬にして血相を変えた。
雨に濡れ、服も髪も重くなっていくなか、蘭明はすぐに守華の元へ駆け出そうとした。
その瞬間、小心が必死な足取りで屋敷に駆け込む。
「蘭皇、守華さまが私のせいで……皇后に……」
涙で目を腫らし、声を震わせて訴える小心。
「大丈夫だ。私が何とかする」
言葉だけでなく、瞳に強い決意が宿る。
蘭明は雨の中、傘もささずに小心を白鋭に託し、全力で守華の元へ向かった。
雨はやむどころか、さらに激しく降り注ぎ、地面を叩きつけるような音が街中に響いていた。
守華の体はどんどん冷えていき、血の巡りも鈍くなる。視界がぼんやりと歪み、意識が霞んでいった。
「もう……だめかも……」
いつも強気で、どんな困難にも立ち向かう守華でさえ、心のどこかで弱音を吐きたくなるほどだった。
そのとき――
雨音の中、ふと周囲だけが静かになったように感じた。
守華が顔を上げると、目の前には一筋の光が差すように、海尭が傘を差し伸べていた。
「海尭……」
守華の声は震え、雨にかき消されそうになる。
海尭はすぐに膝を折り、守華の目線に合わせてしゃがんだ。
「大丈夫か?」
「立てるか?」
守華は必死に頷く。しかし、体中の痛みと力の抜けた膝に阻まれ、立ち上がることはできなかった。
海尭は傘を、侍衛の聡騎に手渡すと、迷うことなく守華をそっと抱き上げた。
その腕の中で、守華は安心感に包まれる。
「あなたは、いつも……私を……助けてくれるのね……私のヒーロー」
守華の小さな声は雨音に消されてしまった。
海尭には聞こえなくても、守華自身はその瞬間、心の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
そして、守華はその安心に身を任せるように、ゆっくりと意識を手放した。
海尭の腕の中で、冷えた体が温められ、世界が柔らかく暗く沈んでいく――。
雨はまだ止まず、濡れた石畳に反射する灯りが、守華の小さな姿を包んでいた。
やっとの思いで守華の元へたどり着いた蘭明。だが、視界に入ったのは――
守華を優しく抱き上げる海尭の姿だった。
足が自然と止まり、胸がぎゅっと締め付けられる。
どうすることもできず、蘭明はそこから動けなかった。
心の中で怒りや嫉妬がざわめくが、それよりも――ただ見ているしかない自分がいた。
海尭が守華を大切そうに抱えながら、門の向こうへと消えていく。
蘭明は人目につかぬように身を隠す。見えなくなるまで、ただ、門の外を見守るしかなかった。
「蘭皇……」
八軒の声が背後から届く。
蘭明は静かに首を振る。
「海皇が連れていったのなら、大丈夫だろう。」
その言葉に自分を言い聞かせ、蘭明はゆっくりと屋敷へと戻った。
雨に濡れた背中が、いつもより少し寂しげに見える。
胸の奥に、言葉にできない感情がじんわりと広がった。
門の向こう、雨の中で抱かれる守華の姿を思い浮かべながら、蘭明の心には不意に切なさが積もっていく――。




