11.見せかけの微笑みの裏で
「ご馳走様ー。あー、朝からたくさん食べた!」
守華はお腹をポンポンと叩き、にこにこと笑う。
その視線の先には、蘭明が座っていた。
ふと、守華の目が彼の頭にある簪に止まる。
「ん……?」
顔を近づける守華に、蘭明は少し後ずさりして問いかけた。
「そんなに近寄ってどうした?」
守華は目を逸らしつつ、指先で簪を指した。
「ねぇ、この簪……蘭の花の模様だよね?」
「あー、これか。」
蘭明は簪に触れながら淡々と答える。
守華は母の言葉を思い出す。
てっきり、蘭の花の簪は女性用だと思っていたが、どうやら男性でもつけるものらしい。
「欲しいとかじゃないけど……綺麗だなって思っただけ。男の人でもつけるんだね」
「これは、母からの贈り物だ」
「あー、皇后からの……」
「違う。実の母は、私が五歳のときに亡くなった。それ以来、皇后が母のように育ててくれた」
守華は少し黙り込み、胸の奥で何かがきゅっとなるのを感じた。
「じゃあ、私は部屋に戻るね」
立ち上がろうとした瞬間、手がそっと握られる。
「何……?」
振り返ると、蘭明が静かに、でも強い眼差しで守華を見つめていた。
「本題は、これからだ」
「え……?」
守華は思わず座り直し、困惑の表情を浮かべる。
「何、そんな怖い顔して……」
部屋には沈黙が満ちる。
守華の後ろには小心が立ち、蘭明の後ろには八軒と白鋭が控えていた。
静けさの中で、守華の鼓動だけが響く。
部屋は静まり返っていた。
守華は下を向き、少し横を向いて、小心に助けを求めるように合図する。
小心は視線を下げたまま、目だけで守華を見つめ、「無理無理」と小さく顔を振った。
蘭明は迷いなく、真っ直ぐ守華を見据えている。
そっとお茶を入れ、守華の前に差し出す。
守華は申し訳なさそうに「どうも」と頭を下げ、受け取り、そのまま一口飲んだ。
「……あつっ!」
慌ててお茶を下に置く。
顔が少し赤くなるのを、蘭明はじっと見ていた。
「守華」
「はい!」
守華は顔を上げ、真っ直ぐ蘭明を見る。
心臓がドキドキして、いつもの口調で言い返す言葉も出ない。
「単刀直入に聞く。お前はどこから来た?」
「へぇ?」
思わず拍子抜けした返事をしてしまう。
また地下牢に入れられたり、どこかに連れて行かれたり、拷問されたりするんじゃないかと思っていたから。
頭の中で、守華は想像する――
本当のことを言ったら信じてくれるのだろうか。
私は、日本という未来から来た。
そんな話、普通の人なら信じるわけがない。
きっと頭がおかしいと思われるだけだ。
そして――また、牢屋に入れられる。
やっぱり無理だ、だめだ、無理だよ……
守華は視線をそらし、心の中で何度もそうつぶやいた。
「……」
部屋の静けさが、逆に守華の胸の鼓動を大きく響かせる。
手のひらがじっとりと湿っているのに気づき、守華は慌てて膝の上に置く。
蘭明はその様子を見逃さなかった。
眉を少しひそめ、守華の表情を鋭く見つめる。
その目は冷たくも厳しくもなく、ただ真剣で――守華は、思わず息を呑んだ。
「……お前、怖がっているな」
守華の心臓が、さらに早く打つ。
「そ、そんなこと……ない……」
声が小さく、震えてしまった。
蘭明は少しだけ口元を緩め、しかし視線は外さない。
本当のことなんて言い出せない。
部屋の空気は重く、朝ごはんのときとは打って変わってだ。
「昨日、陛下にも話したけど……記憶がないの。なんであの時、蘭明のところにいたのか、どこから来たのか、何をしに来たのかも、全然覚えてない。」
「本当か?」
「うん……本当に。」
蘭明は真剣な目で守華を見つめた。
「じゃあ、あの服はなんだ? 陽月国のものでも彩国のものでも、この周辺の国のものではないぞ。」
守華は肩をすくめ、困った顔で答える。
「ねー、私も分からない。」
蘭明は少し眉を寄せ、さらに問いかける。
「守華が放った光は?」
「光? 私は放ってないよ。本当に私からだったの?」
守華は逆に問い詰めるように蘭明を見上げる。
その瞬間、守華の心臓は早鐘のように打った。
ある意味賭けだった。
「ちゃんと見てた? 本当にそのとき。本当に本当に私から出てたの?」
蘭明も、その場にいた八軒も、光の眩しさに目をつぶってしまった。
誰も断言できない。
「勝利をもたらしたのは……?」
「だから、私じゃないって! 陛下にも蘭明のおかげって言ったじゃない!」
「勝利の女神ではない、ということか……」
その言葉に守華の顔が一瞬こわばる。
でも、すぐに開き直ったように胸を張り、声を強くする。
「そうよ! 私は女神でもなんでもない! ただの人間よ。あなたたちが勝手に言ってること。それに、私が乗っかっただけ。これで気が済んだ? 分かればもう用はないでしょ!!」
守華はそう言い放つと、足早に蘭明の部屋を後にした。
扉を閉めるその音が、静まり返った部屋に響き渡る。
蘭明はその場に立ち尽くし、守華の背中を見送るしかなかった。
八軒も小さく息をつき、互いに目を合わせた。
誰もが、守華の真意も、本当の力も――まだ理解できずにいた。
守華が扉を閉めたあと、部屋の中は静まり返った。
蘭明は深く息をつき、拳を軽く握った。
「……あの女の目的はなんなんだ」
八軒が蘭明に近づき、低く問いかける。
「本当に記憶がないのでしょうか?」
蘭明は少し考え込むように目を伏せた。
「いや、あれは嘘だな」
八軒は驚きの表情を見せる。
「では、どうしましょう?」
「刺客の可能性もまだ捨てられない。だから、あえて我が屋敷に受け入れたんだ。あの女の行動を探るためにな。八軒、あいつを監視しろ。」
「はっ!」
八軒はきびすを返し、部屋を後にした。
蘭明は白鋭に目を向ける。
「白鋭」
「はい。」
「たまに桜音亭に行き、小心にもどことなく話を聞け」
「はい、承知しました。」
白鋭は黙ってうなずき、部屋の隅で静かに待機する。
蘭明は深呼吸し、机の上に置かれたお茶に手を伸ばした。
一方、守華は部屋を出て庭を歩きながら、足元の桜の花びらを見つめる。
小心がそっと守華の隣に歩み寄る。
「守華さま……大丈夫ですか?」
守華は小さく微笑み、肩の力を抜く。
「うん。」
桜音亭に戻った守華。誰もいないと見て取ると、思わず「はぁー」と息をつき、大の字になってベッドへ倒れ込んだ。
小心がそっと寄り添う。守華は起き上がり、眉間にうっすらと考え事を浮かべる。
「小心、地図はない?」
「はい、地図ですね。お待ちください。」
小心はテーブルのものをどかし、そっと地図を広げた。守華はそれを目にして、一瞬固まる。
「…えっ?」
「どうなされましたか?」と、小心が心配そうに問う。
守華はしばし言葉を失う。日本の姿がない。見たことのない形の大陸。かつて習った地形の記憶にも当てはまらず、この“陽月国”という名前さえ知らない。
「これは…どこの地図?」
「陽月国とその周辺の地図です」
「世界地図は…ないの?」
「世界地図…ですか?」 小心は首を傾げる。
守華は、頭の中で思わず呟いた――ああ、ここにはないのだと。
「では、陽月国はどこ?」
小心は指を差し、「ここです」と教えてくれた。
見知らぬ国――そんな場所に、私は本当にいるのだろうか。夢なのか、でも痛みもあるし。
もしかして、これがいわれるところの“パラレルワールド(並行世界)”ってやつじゃないか……?
言葉だって、全く通じなかったのに、今は通じている。なんで?どうして、急に?
小心と二人、桜音亭で控えている守華。ざらついた心のざわめきを肌で感じながら、問いかけた。
「ねー、小心。私が気絶して地下牢に運ばれたとき、変わったことなかった?」
小心は少し考える素振りを見せる。
「んーーー???」
部屋の空気に、少しだけ間が空いた。
「あっ! 白鋭に聞いた話ですが――倒れていた守華さまを、蘭皇が……」
声が小さくなる。頬を少し赤らめ、小心は言葉を濁した。
「蘭皇がなに?」
守華の声が一気に鋭くなる。
「あのー、そのー……」
もじもじしながら、小心の口元が震えた。
「もー、はやくはっきり言って!」
守華の声が高まり、小心の背筋がピクリと震える。
「水を飲まない守華さまに、蘭皇が口移しで水を――飲ませたそうで」
なんとも恥ずかしげに、言葉を漏らす小心。
守華は一瞬固まり、ワンテンポ遅れて目を見開く。
「そうか。水を口移しで……え、えーーーーーーー!?」
静寂の中で、守華の鼓動が耳元で響く。
内心で叫んだ――
《わ、私の……ファーストキスが……!しかも、気絶しているときに……。誰だかもわからない、なんて人に……好きな人ととっておいたのに……》
怒りと困惑で胸が張り裂けそうになりながら、守華は立ち上がった。そのまま、必死に蘭明の部屋へと駆け込んでいった。
廊下の石畳を踏みしめる音が、後ろから響いてきた。蘭明が振り向くと、守華が勢いよく戻ってきた姿に、わずかに驚いた色を浮かべた。
守華の顔はまるで鬼のように強張っていた。
白鋭がそこに居合わせたので、守華は素早く横を向いて、白鋭と蘭明の姿を見ている。
そして、くじかれたように首を横に振り、「プイッ」と冷たく合図した。
「白鋭、下がっていろ」
蘭明の低い声に、白鋭は一礼してその場から去っていった。
守華は深く息を吸い、一瞬だけためらいの面持ちになってから、弾かれたように口を開いた。
「ちょっと、勝手に私のファーストキスを奪わないでよ!」
蘭明は眉をひそめ、静かに問い返した。
「なんだ? その“ファーストキス”とは?」
守華はゆっくりと唇に指を当て、小さな声で丁寧に言い直す。
「はじめての“口付け”のことよ……!」
少し涙目になりながら、守華は続けた。
「誰が水を飲ませろって言ったの? 誰が口移しをしろって? 大事に、大事にしてた私のはじめてのキス。それを、全然知らないあんたに取られたのよ! どうしてくれるの!?」
その怒りに任せた口調に、蘭明は微かにたじろぎながらも、冷静に受け止めた。
守華はそのまま勢いよく蘭明へ近づき、次第に詰め寄る。
背の高い蘭明は、守華を見下ろすように静かに立ちはだかる。
「あ〜、“口付け”のことか……」と、蘭明は呟く。
守華は目を釣り上げ、ヒステリック気味に続けた。
「あ〜、口付けのことかってそんなにあっさり言わないでよ! あんたはモテるらしいし、他の女とチュッチュッチュッってしちゃってるかも知らないけど……! 私にとっては、“初めて”のファーストキスなんだから……! しかも、気絶して何も覚えてない時にされたなんて……ファーストキスってシチュエーションも感触もすごく大事なのに!」
真向かいで守華を見つめていた蘭明は、やつあたりする守華を避けて、すっと後ろに回った。
守華が振り返ろうとしたそのとき——
ドンッ。
不意に壁に押し付けられ、蘭明の腕と腕の間に挟まれるように、守華は身動きできなくなった。
見上げる守華の瞳に、蘭明の真剣で切ない眼差しが映る。
「言っておくが、私も“はじめて”だった」
守華は驚きと混乱で、何が起こったのか理解できず、言葉を失った。
蘭明は深く息を吸い、静かに言葉を続ける。
「あの時、ああしないと、お前は本当に――生きていなかったかもしれない」
驚きと驚愕が胸を灼くように広がり、爆発しそうだった怒りが急に静かになった。
守華の叱責を受けてもなお、蘭明は冷ややかな微笑を浮かべ、ゆっくりと呟いた。
「“シチュエーション”?…そんな言葉は知らぬが、──なんなら、今、しっかり意識のあるお前に、もう一度やり直すか?」
言葉に導かれるように、蘭明の顔はゆっくりと守華に近づく。
守華の目が驚きと戸惑いで、大きく開かれる。
触れそうで触れないギリギリの距離で、守華は
腕と腕の隙間を見つめ、そっとその下から身をすり抜けるように後ずさる。
振り向いた蘭明の姿を確認し、守華は「あっかんべー」の顔をしてから、全速力で部屋を飛び出した。
その後ろ姿を見送った蘭明は、自然と口元をゆるませた。
「ふ…」
淡い笑みが浮かんだ。




