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モブで当て馬で口が滑りがちな私の将来計画

作者: 上条ソフィ

『口は災いのもと』


 スマホに映し出されたその言葉を、私は噛み締めるように見つめた。しゃがみ込んでいる足はそろそろしびれてきている。

 頭上には、ちょうどてっぺんに上った太陽。灼熱の日差しを私のつむじに容赦なく刺す憎い存在だ。


 私の丸まった背中の後ろにあるのは花壇。

 春には赤やピンクや白やらの満開の花を楽しませてくれたツツジの花はとっくに枯れ、今や力強い濃い緑色の葉っぱをこれでもかというくらい茂らさせている。膝丈ほどのツツジの木は、私の姿をすっぽりと覆い隠してくれている。優しい奴だ。


「暑い。死ぬ」

 私はつぶやいた。


 これから夏本番、というより六月から一気にフルスロットルで始まった夏は、パリピのパーティー真っ盛りのような盛り上がりを見せている。

 こんな季節の昼間なんて、用のない人は室内にいるのがいいと思う。

 というより、外にいる人はドMなんじゃないだろうか。


 私も絶賛ドMフェア開催中だ。全国のドMさん、仲間がここにいますよ。


 熱中症も熱射病も気をつけなければいけない季節。それなのになんで私がこんなところにいるかというと、一人で静かに落ち込みつつ、反省会をしているからだ。


「口は災いのもと」

 私はつぶやいた。


 またやってしまった。

 重いため息をつく。


 このうっかり思ったことを口に出してしまう、よく滑る私の口は、どうにかならないのか?


 私は声にならないうめき声を出しながら、膝小僧に頭をうずめた。


 ことの発端はこうだ。


 うちの大学には、それはもうかっこいいと評判の男の子がいる。王道中の王道と言っていいほど正統派のイケメンだ。私の人生には、関わる機会などないと思われるその男子だが、なんとラッキーなことに、同じサークルに所属している。


 サークルといっても部活寄りで、結構ガチでテニスをしている人が多い。高校時代はそれなりに頑張ってテニスをしていた私は、一も二もなく、そのサークルに入った。


 そこに彼も入ってきたのだ。


 ここポイントです。彼が後から入ってきたの。私が先。決して彼の後ろを追いかけて入ってきたミーハーとは違う、ということを強調したい。


 彼が入ってきた時はそれはそれは大変だったらしい。『らしい』というのは、新学期早々インフルをもらった私は、その時は休みだった。

「私も私も」と女子が一気にテニサーに押し寄せ、本当にテニスをやりたい人と彼目当ての人とを仕分けるのがすごく大変だった、と後日疲れた顔で先輩が言っていた。


 幸いなことに私は彼が入る前に入部したから審査なしで入ることができたけど、切られた女子たちは「私、マネージャーで」と、今度はマネージャー希望の女子が殺到したらしい。


 彼は全国大会に行くレベルの選手だったらしく、私もそこそこ頑張ってやっていたので、ペアを組んでプレーしたり、ラリー練習パートナーになったり、それなりに友達として仲良くしていた。


 でも、仲がよかったと思っていたのは私だけだったのかもしれない。


 今朝、午前中の講義が終わって、たまたま隣に座っていた彼と昼ご飯に行こうかと話していたときのことだった。私はほんの世間話のつもりで彼に言ったのだ。

藤堂(とうどう)くんって顔もいいし頭もいいし、実家もお金持ちなんでしょう? 人生勝ち組だね」


 私としてはちょっとした褒め言葉のつもりで言ったんだけど、藤堂くんは烈火のごとく怒り出した。


「俺だって好きでこんな容姿に生まれたわけじゃないし、家がどうのって、好きであの家に生まれたわけじゃない。そんなふうに言わないでくれ!」


 私は単純にびっくりした。彼の地雷を踏んでしまったらしい。

 そこで止めておけばよかったものの、私は焦ってさらに言葉を重ねてしまった。


「でもいいじゃん。イケメンなんて就活にも有利だっていうし」


 いわゆる美男美女というのは、小さい頃からちやほやされてきた子たちが多いから、非常に素直で扱いやすいと企業側が見ているという話を小耳に挟んだばかりだったのだ。


 彼は黙りこくった。

 私はその間に耐えられなくなって、パニックになった。私はパニックになると、自分の意思とは関係なく口が動いてしまう残念な人間だ。


「お金持ちなら新しいウェアとかラケットとかも買えるし」

 私は高校時代に使っていたものをそのまま使っている。


「頭もいいから、就職ダメでもきっと院に入れるよ」

 彼は既に教授に目をつけられている。


「毎日学食に行けるし」

 私は金欠の時は購買で買ったカップラーメンだ。


「えっと、私はいいなって思うけど……」

 しんとした教室に、私の自信無さげな声が落ちた。

 みんなどうしたのかと、私と彼のことを遠目で見ている。


 誰か助けてよ。

 私は視線を彷徨わせた。みんな気まずそうに目を逸らしていく。


 その沈黙を破った人がいる。天使だと思ったのは一瞬だった。


「やめて! 藤堂くんのことをそんなふうに言わないで! みんな藤堂くんのことを、できるやつはいいよなって言うけど、私知ってる。藤堂くんが陰ですごい努力していること。レポートだって、図書館で最後の最後までいいものに仕上げようと頑張っている姿も知っているし、教授からいろいろな雑務を押し付けられても、どんなに忙しくてもちゃんとにこなしてるのも。藤堂くんすごく頑張ってるんだから、そんな言い方したら藤堂くんが可哀想!」


 いきなり会話に割り込んできたその女子は、今まで話したことない地味なタイプの子だった。……というのは少し悪意があるか。清楚なお嬢様タイプの女子だった。


 口をぱくぱくさせてオロオロする私をよそに、彼と女子は見つめ合った。女子の目は熱っぽく潤んでいる。


 そしてそのちょうど中間地点に立つ私。奇しくも、ちょっとした三角関係になってしまった(物理的に)。


「えっと、きみ……」

 彼は戸惑ったように彼女を見つめた。


「ごめんなさい、気持ち悪いよね。勝手に見つめて、知ったかぶりして、関係ない私が怒って。でも私、どうしても我慢できなくて。どんなに無茶振りされても、藤堂くん、いつも涼しい顔でこなしちゃうから。誰か、本当の藤堂くんのことをわかってあげられないのかなって、私ずっと思ってて」

 彼女は目線を下げた。目元が赤い。さらりと黒髪が落ちて、彼女の顔に影をつくった。彼女は自分を抱きしめるように、腕を組んだ。その肩は少し震えている。


「気持ち悪くなんかないよ。ごめん、名前うろ覚えなんだけど、石川さんでよかったかな?」

 傷ついた小動物に接するように優しく彼は声をかける。

「あっ! ハイ! 石川萌です」

 彼女は勢いよく顔を上げた。


「石川萌さんね。覚えた」

 彼は優しそうに微笑んだ。その笑顔を受けて、彼女の頬が上気する。

「いえ、私は苗字を覚えてもらっていただけで……」

 手をぱたぱたと前で振りながら、彼女は小さな声で呟く。それに吸い寄せられるように、彼は一歩前に出た。私の目の前を通り過ぎた彼は、彼女を抱きしめられるくらいの距離にいる。


「あのさ、良かったら、これから一緒にランチでもどうかな?」

「え……その、私でよければ、喜んで」

 彼が手を差し出し、彼女がそれを掴む。


 二人は肩がくっつきそうな距離感で、教室を出て行った。ピンク色のオーラが放たれているように見えたのは、私だけではないと思う。


 放置され、残された私は、フラフラと荷物をまとめると、肩を落としながら教室を出た。背中には周りの残念そうな視線が突き刺さる。

 行き場を失った私は、中庭のツツジの木の裏にしゃがんで、こうして一人反省会をしているところだ。


『口は災いのもと』

 昔の人は何て賢いのだろう。

 それとも昔の人も、色々やらかした末に私みたいに反省会をしたのだろうか。

 時を超えても、人は変わらない。

 私も変わらない。


 いや、何とかせんと。


「おい、こんなところで何やってんだよ」

 背後で声がしたと思ったら、つむじを思いっきりぐりぐりとゲンコツで押された。

「痛い! 痛い! ちょっとやめてよ!」


 直射日光がガンガンに当たったつむじを押されると、やけどをしたみたいに痛い。


「ってか熱いな。お前いつからこんなところにいるんだよ。溶けて死ぬぞ」

 大きな手が私の頭頂部に置かれた。頭を撫でるようなその優しい手つきに、ちょっと泣きそうになる。

「放っておいてよ」

 私は潤みそうな目をぎゅっと瞑って強がった。頭を乱暴に振ると、手は離れていった。それを一瞬寂しいと思ってしまったのは、私の気持ちが弱くなっているからだろう。


「はあー」

 わざとらしい大きなため息が聞こえてきた。


 顔を見なくてもわかる。この声は、この偉そうな態度は、私の幼なじみだ。やつは私の抗議などお構いなしに、ひょいとツツジの木を乗り越えてきた。横目で確認すると、やつの長い足はツツジの葉っぱにかすりもしない。

 コイツ。

 少しでも葉に触れていたら、葉っぱが可哀想! と言ってやろうと思っていたのに。


 すぐ隣に立った幼なじみは、嫌味なほど背が高い。逆光で顔は見えないけど、どうせ呆れた顔をしているのだろう。


 道路を挟んで向こう側の家に住んでいる幼なじみは、生まれた日もほぼ一緒(私の方がちょっとお姉ちゃん)、小中高と一緒、そして学部が違うけど大学も一緒の、いわゆる腐れ縁だ。

 幼なじみのお約束として、小さい頃は『大きくなったらお嫁さんになる』なんて可愛らしいことを言っていたけど、それも昔のこと。


 あれ?

 腐れ縁って、縁が腐ってるのかな?

 それとも腐るほど一緒にいたっていう意味なのかな?


 どちらにしてもあまり良い意味ではなさそうだ。

 わからない言葉はきちんと辞書で調べなさいって、この前レポートを提出した先生に言われたんだった。


 私はしゃがんだまま考える。いかん、頭がぼーっとしてきた。頭が熱い。


「行くぞ。立て。こんなところにいたら昼飯を食いっぱぐれるだろうが。俺が」

 低くよく通る声が耳に心地よい。この声で言われると、理不尽なことにも無茶振りにも従いたくなる。

 女子には『あのイケボで俺の女になれよって言ってもらいたいよねー!』と言われている声だ。本人も自覚があるらしく、ここぞという時に使ってくる。それを知ってる私は、絶対に引っかかってやらない。と思っては、負け続けている。


「一人でカフェテリアに行きなよ。私今、食欲ない」

 やつに顔を見られないように、私はお尻を向けた。


「朝から白米をおかわりするお前がか?」

「女子にはいろいろあるんです!」

「またまたー。女子のフリなんてすんなよ。聞いたぞ、お前藤堂にキレられたんだってな」

「なんで知ってるの!?」

「噂になってるから」


 私は思わず身を捩って顔を上げ、幼なじみの顔を見た。

 そして、すぐに元に戻ると手に顔を埋めた。


 信じられない。早くない? ついさっきのことだよね? もう恥ずかしくて学校にいられない。


「藤堂くんがあんなに怒ると思わなかったんだもん。びっくりしてたら、クラスの石川さんが藤堂くんのことかばって……」


 私は今さっきあったことを頭の中で反芻した。

 何かが頭の中に引っかかっている。

 なんかどっかで聞いたことのあるシチュ。

 むむむと頭をひねって、ピンとひらめいた。


「……あれ? これって当て馬ってやつ? 私、この歳で当て馬になっちゃったの?」


 大人になったら当て馬になってオッケーなわけじゃないけど、この歳でなるなんて。

 なんかショックだ。


「そうだな」

 幼なじみは、あっさりと肯定してくる。


「てか私、しかもモブじゃない? 物語の初めの頃にヒーローにうざ絡みして、そこでさっと現れたヒロインの心の美しさとの対比に使われる、モブじゃない!?」


「……」


「シンデレラの継母と義理のお姉ちゃんみたいなポジションじゃん。いや、あの人たちは最後にざまぁされるまでいるけど、私はあれじゃん、『あのモブと比べてヒロインのなんて素敵なことか』っていう役割を果たした後は、一切出てこないモブじゃん!」


「そうだな」

「『そんなことないよ』くらい言えんのかっ!」

 私は顔を上げて叫んだ。


 この歳で、モブで当て馬なんて。

 私が主人公の、私の物語はどこに行った?


 いや、でもまだ若いし。

 これから、私の、私による、私のためのストーリーが始まるかもしれないし。


「周りの奴らなんてどうでもいいだろうが。結衣(ゆい)には結衣の物語があるだろ」


 ちょうど考えていたことをズバリ言い当てられた私は感動した。

 そう、斗真(とうま)は口は悪いけどいい子なんだよ。

 幼稚園の頃から口の回る子でね。頭の回転が早い分、人のウィークポイントをつくのがうまくてね。


 違うベクトルで口が悪かった私たちは、その頃からいいコンビだった、と思う。


 あれ? でもこいつよく周りの子を泣かせてたな。

 私は主に周りにキレられて泣かされてた方だ。

 一番泣かされたのはもちろん斗真にだったけど。


 でも気遣い配慮ができる男であることは間違いない。今もこうやってお昼休みをつぶして私のことを探しに来てくれたし。こんな地味なスポットにいるなんて、学部の違う斗真が知ってるはずないし。


 結構な短期間で彼女を取っ替え引っ替えしているらしいけど揉めた話も聞いたことがないのも、そのためだろうか。

 あんまりよく知らないけど。聞くと「気になるか?」ってニヤニヤして言われるから。なんか負けたみたいで悔しいじゃん。


 女子にきゃあきゃあ言われても、鬱陶しそうにしながらも絶対に傷つけるようなことはしないんだよね。フォローが上手いというか。

 まめだねえ。私も見習わなければ。


 幼なじみの言葉に励まされた私は、ちょっと前向きになった。


「そうだよね。ありがとう。私にもこれから白馬の王子様が現れるよね、きっと」


 そして私を連れ去ってくれて、異国やら異世界の王妃にしてくれるのだ。

 もちろん側室なんて取らない。

 王子様は私だけを一生溺愛してくれる。ついでにさらっと世界を救って、国民に感謝アンド愛されたらさらによし。


 めでたしめでたし。

 頭の中でエンドロールが流れる。

 私が着ているのは真っ白のウェディングドレス。隣に立つ王子様は金髪碧眼で――


「それはないな」


 ……即レスしやがった。こいつ。

 夢の世界をぶった斬られた私は、舌打ちして斗真を睨みつけた。


「なんでよっ! そこは全面的に肯定するところでしょうがっ!」

「断言する。お前のこれからの人生に、白馬の王子が出没することはない」


「出没って。モンスターじゃないんだから」

「いいか? 白馬の王子なんてものは、存在しない。お前の人生に、今後出逢いは一切ない」


 斗真は一言一言区切って、幼子に言い聞かせるように言ってきた。


 なんだ、これは?

 呪いか?

 魂に刻みつけるタイプの、呪いか?


 これじゃ『幼なじみに白馬の王子はいないと呪いをかけられた私。出逢いがなくなったので動物とモフモフします』な物語が始まってしまうではないか!


 いやぁー!

 動物はモフモフしたいけど、そんな枯れた人生、いやー!!!!


 私は膝小僧に顔を埋めた。


 何このひどい仕打ち。

 私そんなにひどいことした?

 これがカルマってやつ?(いとこのお姉ちゃんが今スピリチュアルにはまっているのでその影響。)


 さっきの藤堂くんのやらかしがもう巡り回ってきたのか。

 サイクル早くない?

 来世まで待ってくれよ。


 悪気はなかったのに。だって――


「……藤堂くんの家、お金持ちだし」

「ああ。どっかの企業の雇われ社長だろ。別に創業者なわけじゃないんだから、家業を継ぐとかないだろ」


「イケメンだし。オシャレだし」

「SNSでファッショニスタ気取って、セルフィーをガンガン載せてるだけだろ。それで『女は俺の顔に寄ってくる』発言しても、はぁ? って感じじゃね?」


「でもブランドとタイアップとかしてるらしいし! そういうのって人気のインフルエンサーじゃないとなれないって聞いたよ」

「ああいうのはな、基本的にグッズは買取りなんだよ。自社ブランドの製品を買ってくれて、尚且つ宣伝までしてくれるなんていいお客さまだろ。だから一応チヤホヤしとくんだよ」


「そうなの? でも広告費とか入ってくるんじゃないの? アフィリエイトとか」

「それで稼げるやつなんて世界中でもひと握りだ。あいつには無理だろ。興味ないから見たことないけど」


「見たことないなら分かんないじゃん!」

「見たことなくてもあいつのレベルじゃ箸にも棒にも引っかからないことくらい判断できる」


 うぬぬ。

 斗真が言うと説得力がある。

 顔は斗真のほうが圧倒的にいいからだ。


 斗真のお父さんは、もともとご実家が裕福らしく、穏やかで気品のあるイケオジだ。ちなみに弁護士。

 お母さんは南の出身で、エキゾチックな雰囲気の目鼻立ちがくっきりした美人さんだ。


 その子供の斗真は、お父さんとお母さんの良いところを両方受け継いだ、黙っていれば上品でキリッとした顔をしている近所でちょっとした有名人の男だ。

 行事ごとでは斗真の写真が飛び交い、町内会のポスターやら学校行事のポスターやらには必ずといっていいほど斗真の顔が映る。もちろんセンターだ。他の子は遠近法でぼやっとしている。


 そして子どもの頃から妙に色気のある子だった、らしい。くいっと口角の上がった、真ん中がぽてっとしている唇に、男女関わらず引き寄せられるのだそうだ。『思わずキスしたくなる男子』ナンバーワンにずっと君臨している。

 私にはどんな毒舌が飛び出してくるか分からないびっくり箱みたいな口にしか見えないけど。


 残念ながら斗真の顔面偏差値の高さは、私の中ではカウントには入らない。

 だって生まれた時から一緒だったのだ。

 斗真の家族は、全員もれなく顔が良い。

 その家族に混ざって成長した私には免疫ができている。


 でも時々うっかり、自分も顔がいいとナチュラルに思い込む時がある。

 鏡でうっかり自分の顔を見ると、自分の顔の平面さにびっくりする。

『誰? この平たい顔の人って?』って。

 あ、自分の顔だったって納得するときのしょっぱさ。斗真には一生わからないだろう。


  「お前、あいつのこと好きなのかよ」

 ぶっきらぼうに斗真が聞く。なんだか機嫌が悪そうだ。そしてさっきから地道に息も上がっている。斗真も絶賛ドMフェア中で炎天下の中、走り込みでもしてきたのか。

「いや? 別に好きってわけじゃないけど」

 首をかしげながら私は素直に答えた。

「じゃあいいじゃねえか、あんなやつほっとけば」

「でも、」


 斗真はこれみよがしにため息をついた。

「大体、あいつは普段から自分で自慢して回ってるじゃねえか。『うちは裕福だから』とか、『うちの父さんは社長だから』って。まったく親しくない俺でも何回か聞かされたぞ。その上、自分はモテて困るんだってことを何回か言ってきたな」


「そうなの? てっきり仲がいいんだと思ってたけど」

 何回か二人が話してるの見たことあったんだけどな。

 そういえば斗真はうんざりした顔をしてたような。


 おうちがお金持ちだとか、お父さんが社長だっていう話は私も何回か聞いたことがある。『父さん、社長だから付き合いとかいろいろ大変なんだよね』って困った顔をして言ってて、そうか社長さんっていろいろ付き合いが大変なんだなって思った覚えがあるけど。


「自分から自分のことはすごいって自慢しておいて、そういうのをすごいねってチヤホヤしてくれる人間で周りを固めてるだけじゃんか。お前もあいつのいいカモなんだよ。お前は単細胞だから。何でもすごいねって言うから宣伝係にちょうどいいんだろうよ」

 声もでかいしな、と斗真は余計なことを付け加える。


「そんなことないもん。本当にすごいと思った時に、すごいって言ってるだけだもん」

「お前はすごいの基準が低いんだよ。あいつにとってお前はすごいすごいって言ってくれるモブでしかないぞ」

「王子様の取り巻きみたいなやつ?」

「そうだ」


 何だっけ? 太鼓持ちってやつ?

 太鼓を持った自分が藤堂くんの周りをうろうろしている姿を想像して、ちょっとへこんだ。


「でも今日はすごいって言ったら怒られたんだよ」


「今日は『周りの期待に応えようとして、それでも時々弱音を吐いてしまいたくなる僕』モードだったんじゃねえの? 別にお前じゃなくても、他の奴でも同じことしてたと思うぞ」


 そんな。私は何をしてもモブなのか?


 ショックを受ける私に、斗真はさらに畳み掛ける。

「それにその石川って女? そいつも多分確信犯だぞ。お前いいように使われたんじゃねえか?」

 斗真は脛で私の丸まった背中を突いた。ついでとばかりに、スニーカーでお尻も突き始める。

 やめてください。乙女の清らかな体になにをするっ!


「それはさすがにちょっと毒ありすぎじゃない?」


「本当に? 本当に、一片も故意的なところを感じなかったか? わざわざ大勢のいる前で声を張り上げる必要あると思うか? 後で本人にだけ言えばいい話じゃねえか」

 斗真が畳み掛ける。こうやって逃げ道を塞いでいくのが、斗真の恐ろしいところだ。


 思わず目が泳いだ。

 ほんのちょぉーっとだけ、ほんとにチラリと、そう思ったような、思わなかったような……。

 でもなんでこんなに詳しく知ってるんだ。こいつ、さては私の教室まで来たな。誰だ、斗真にゲロったのは。 

 口をもごもごさせる私に向かって、斗真はダメ出しとばかりにまたため息を吐いた。


「いいか。お前はもう少し周りを疑うことということを覚えろ。成人年齢は引き下げられたんだぞ。詐欺にあっても自己責任の時代だぞ」

 斗真は幼稚園児に言い聞かせるように言う。


「世知辛い……」


 十八歳なんて、お酒もタバコもだめなのに、責任だけは大人と一緒なんて。


 世間に絶望した私は、癒しを求めてスマホをタップした。

 冬馬からの着信とメッセージが山ほど入っている。これを無視したから怒ってるんだ。


 そして時間を見てびっくり。

 いつの間にかお昼休みは終わっていた。  


 こんなにうっかりしていて、これから社会人になれるのだろうか?


『上司に怒られて落ち込んでたら昼休みが終わっちゃいました。会議出れなくてごめんなさい。エヘ』


 なんて言い訳が通用する……わけは無いよね。


 私の頼み綱は一つだけ。


 私は、こんなにうじうじしているのに根気よく付き合ってくれる幼なじみの顔を見上げた。


「これからもなにとぞよろしくお願いします」


 いつまでもお尻を向けていたら失礼だろうから、しゃがんだまま斗真のほうを振り向いて頭を下げた。


 できたら同じ会社に就職したい。

 そしてもし私がうっかり朝寝坊したら、起こして連れて行って欲しい。


 なんだかんだ言って優しい斗真は、嫌だとは言わないという、打算もりもりのお願いだ。


「一生よろしくお願いします」


「わかった」

 斗真は即答してくれた。

 ほっと肩の力が抜ける。やはり頼れるのは近くの他人だ。


「高くつくぞ」


 え。怖っ。


 そうだった。斗真は等価交換を求めてくるやつだった。


 やつの少年漫画を借りたかったら、同等に価値のあるもの差し出さないといけない。これが小さい頃からのルールだ。

 別に漫画なんて減るもんじゃないんだからケチケチしないで貸してくれよとは思うのだけど。


 残念ながら、私のBLコレクションは斗真の趣味には合わないらしい。続きものの漫画を見たくて、私はいつも斗真のパシリになっている。

『漫画が読みたければ、体で払え』って斗真が言うから。


 少年漫画って、なかなか先に進まないんだよね、バトルシーンばっかりだから。

 そしたら続きが気になっちゃうじゃん。

 そしたら読み続けるしかないじゃん。


「行くぞ」

 斗真が私の脛を軽く蹴った。

 立てという合図だ。

 分かってるんだけど。


「うんでも……藤堂くんまだ怒ってるかもしれないし。やっぱり謝りに行かないと」

 私は体を前後に揺らしながら、それでも立ち上がる気にはなれなかった。


「やめとけ。あいつらはどうせ次の講義には出ない」

「そんなことないよ。藤堂くんは真面目だから出るよ」

 次の授業も同じものをとっている。

 教室で出くわしたら気まずいし。


「あいつらは今頃どうせラブホだ」

「は?」


「それかどっかの空き教室でヤッてるかもな」


 頭が斗真の言っていることを理解した途端、私は叫んだ。


「そういうのセクハラだから社会に出たら言っちゃダメって先生言ってた!」

「想像したか?」

「してないし!」


 バッチリした。

 でも私の知識はBLに偏ってるから、ぶっちゃけアレを男女でどうやるのかって、いまいちよくわかってないけど。

 でもまぁ体の作りなんて大差ないしね。


 彼女が途切れたことがない斗真は、そういうことも経験しているのだろう。先に大人の階段を登っている幼なじみのことが、急にわからなくなる。


 私といえば高校時代は部活づけ。テニス部なんで男女一緒にやるんだからカップルになりやすいんだろうと思われてるけど、それは大きな間違いだ。むしろ女扱いしてもらえない。

 ともに筋トレをして走り込み、ともに青春を謳歌した男子は、引退するとあっさり文化系のかわいい女子と付き合いだした。あの子たちも経験済みなのか。


 今頃彼女とヤッて……

 斗真の声がリフレインする。


 お腹の底がずうんと落ちた気がした。


 急に黙った私のことを心配してくれたのか、斗真が優しい声で聞く。

「お前やっぱりあいつのことが好きだったのか? 最近口を開けば藤堂くんが、藤堂くんがって言ってたもんな」


 そんな自覚などなかった私は、最近のことを反芻する。うーん、まあ毎日部活漬けだったしなあ。


「最近は昼飯もあいつと食ってるしな。俺何度か置いていかれたし」

「部活で決めることとか色々あるんだよ。てか斗真、校舎違うし」


 藤堂くんとパートナーだったしなあ。テニス上手いしなあ。そりゃあ好きにも……


「そうかしもしれない」

 もしかして私、藤堂くんのこと好きだったのかな?

 だからこんなに落ち込んでるのかな?


 恋を自覚した瞬間、破れる恋。

 そんなうっかりした恋、ある?


 思わず私は斗真を見上げた。

 どうしよう、私。


 私の縋る視線を受け止めた斗真は、すっと目を細めた。反射で私はヒィッとなる。

 怒ってる時の目だ。斗真は喋ってる時はそんなに怒ってないのだ。黙ったらやばい。

 斗真は私の顔ギリギリのところにしゃがみ込んだ。わざとなのか、私の組んだ腕の上に自分の重い腕を乗せてくる。ついでにヤンキーみたいに股を広げて私の体を挟んでくる。これでは逃げられない。

 身長差は縮んだとはいえ、斗真の方が大きい。口角をクイっと上げて、一見すると笑ったように見えるこの顔がやばいのだ。

 私は蛇に睨まれたカエルのように動けなくなった。


 今日は分からないことだらけだ。

 藤堂くんは怒るし、斗真も怒るし。


「私家に帰ろうかな」

 斗真と目線を合わせないようにしながら私はつぶやいた。

「授業あるだろ」

 斗真が即答する。


「今日は体調がすぐれないのでお休みします」

「いいからさっさと立ち上がれ」


 斗真はその大きな手で私のほっぺを掴むと、ほっぺをムニュッと押した。

 唇がひょっとこのように出てくる。


「ギブ! ギブ! わかったから離して!」


 私は斗真の腕をピシピシと叩いた。痛くはないが精神的ダメージが大きい。

 手を離した斗真は、立ち上がるとそのまま私の手を掴んでずんずんと歩き出した。


 なんだか声をかけてはいけない雰囲気を察した私は押し黙った。いっつもこれくらい空気が読めればいいんだけどね。とほほ。


 そのまま手繋いで講堂へ連行される。


 私は心の中でぶつくさと文句を言いながらも、安心していた。

 破れた恋は痛手だが、斗真と将来の約束は取り付けた。

 これで私の将来は安泰だ。これからは学業に本腰を入れて、いい会社に就職できるように頑張ろう。

 斗真は頭がいいのだ。きっといい会社に就職する。私もそこに引っ掛かるように頑張んないと。

 あれ? でも斗真、弁護士になるのかな? 法学部だし。


 え、ちょっと弁護士は無理かも。

 そもそも学部違うし。

 でも、まあ。


「まあ、結婚しても幼なじみだしね。家は向かいだしね」

 私はニンマリと笑った。そう。近くに住んでることがポイントなのだ。

「ああ?」

 斗真は低い声で唸った。


「だってあんた長男じゃん。そのまま実家に住むんじゃないの?」

「……お前はどうすんだよ?」


「私も実家に住むよ。追い出されるまで」


 既に歳の離れたお姉ちゃんが男の子も女の子も産んでいる。

 一姫二太郎をやり切ったのだ。

 ダメ出しとばかりにその下に男の子がもう一人。

 おかげで、『初孫が』、『次は男の子が』、『次は女の子が』、というプレッシャーは無い。


 将来結婚するかなんてわからないけど、追い出されるまで実家に住んで、その後の事はその時考える。

 これが私の将来計画だ。


「斗真は?」

 一応聞いたが、この幼なじみはもっとちゃんとに将来のことを考えていそう。

 きっとお嫁さんもそつのないタイプを選ぶだろう。


 ご近所さんとしてぜひとも仲良くしてもらいたいものである。


「そうだな。俺は実家を離れない」


 やっぱり。なんだかんだ言って、斗真はお年頃の男の子のくせに毎晩家に帰っている実家大好き男子だ。


 普通男の子って、夜遊びとかするじゃん。


 あ、ちなみに私は安定安心の自分の枕がないと寝れないタイプです。


「お前も一生実家から離れなくて良い方法がある。知りたいか?」

「え、なになに?」


  歩いているうちに、いつの間にか講堂の入り口まで来ていたようだ。斗真といると流れるようにどこにでも連れて行ってくれるから、つい、そのままついていっちゃうんだよね。


 この講堂でやる次の講義は、一年生が全員履修しなきゃいけない科目だから人数が多い。ぶっちゃけ出席数さえクリアできれば寝ていようか漫画を読んでいようかお好きにどうぞ、なボーナスクラスでもある。

 ただ、履修する生徒の人数が多い分、いい席は先に埋まってしまう。うっかり前の方に座ると、先生の生徒を飽きさせないためというまったく必要ないサービスのために、ガンガン当てられてしまうのだ。


「はいそこの君、この文献のこの部分の解釈だが、君はどう思うかね?」などと聞かれても知らんがな。


 斗真は講堂の前のドアから入っていこうとする。

「ちょっと、ちょっと、後ろの方から入ろうよ」

 二階のドアから入れば後ろの席に行くのに早いのに。前のドアから入って上に登っていったら、いろんな子に注目されるかもしれない。

 斗真は無駄に顔がいいし、それに藤堂くんももしかしたら授業に出てるかもしれないし。


「後ろの方の席なんてとっくに埋まってるだろうよ。いつまでもぐずぐずしてた誰かさんのせいでな」

 それを言われると私は黙るしかない。


 私は斗真に引きずられたまま中に入っていった。がやがやと生徒たちの話し声が聞こえてくる。なんとなく恥ずかしくなって、私はうつむいた。

 いい年をして幼なじみに手を引かれて授業に出席するなんて。


「さっきの話の続きだけど」

 斗真が切り出した。


 なんだっけ? と私は首を傾げた。

「だからお前と俺が実家を出なくて済む方法」

「ああ、それね」

 私はおざなりに頷いた。


 今はそれどころではない。さっさと席について、この視線から逃れたい。だって絶対あそこの女の子のグループと、あそこの男の子のグループがこっちの方を見てるから。

 目の端に映るその子たちに意識が向かう。だって指さしてるし、コソコソ話してるし、ニヤニヤしてるし。なんだこの羞恥プレーは。


「お前、俺の話聞いてる?」

 斗真がちょうど講堂の真ん中の、先生が話す高い机の前で止まって私の方を振り向いた。


「聞いてる、聞いてる。聞いてるから早く進んでよ」

 私は斗真の胸を目一杯をしたが、びくりともしない。くそう、無駄に筋肉のある元バスケ部め。


「俺とお前が実家を出なくて済む方法。正確に言うと、俺は実家を出ないが、お前は実家を出る必要がある」

「なにそれ意味わかんない。そんなのずるくない? 不公平だ」

 私は斗真の胸を叩いた。

「まあ反対でもいいけどよ。大して変わんないから。でも名字は陸田になるぞ。俺は長男だからな」

「はあ? 何言ってんの? 意味わかんない。それより早く進んでよ」

 周りのガヤガヤがさっきより大きくなっている気がするのは、私の自意識過剰ではないはずだ。

 そりゃ見るよね? 男女が講堂の前の真ん中で突っ立って話してたら。


 よしこいつは置き去りにしよう。


 斗真を連れて行くのを諦めて、私は一人で席を探すことにした。のだが、また手を掴まれて元の位置に引き戻された。


 おい、と斗真を睨む。


「ここまで言ってなんでわかんないのかよ。お前は本当に昔から残念なやつだな」

 斗真があきれたように肩をすくめた。

「そっちこそ昔から人を小馬鹿にするようなことばっかり言って。みんながみんな、あんたみたいに頭がいいわけじゃないんだからね。私くらいの脳みその人にも人権はある」

 私はむっとして言い返した。

 顔は恐らく真っ赤になっている。だって、絶対に周りから見られてるもん。っていうか……しんとしてる?


 さっきまでガヤガヤと聞こえてきた声が聞こえなくなった。


 恐る恐る席の方に顔を受けようとすると、また斗真にほっぺをつかまれた。

 また、唇がひょっとこになる。


「ちょっと!」

「はあ。こんな顔しててもいいと思えるなんて、俺も相当いかれてるような」

 斗真はなぜか諦めたような口調でつぶやいた。


 今の絶対、私ディスられたよね。


 ムッとして、私は斗真の手を払いのけた。あっさり離れていった手は、まるでバスケットボールを掴むみたいに私の後頭部を鷲掴んだ。文句を言ってやろうと息を吸い込んで反応が遅れた私は、なすがままだ。


 すると、なんか柔らかい感覚がする。どこにって、唇に。


 え。


 私はぴしりと固まった。

 だって私の口にくっついているのは、斗真の口だ。小さい頃はふざけてちゅってしたことはあったけど、そんなことは大きくなってからはもちろんしていない。


 斗真は半開きになっていた私の唇をやんわりと喰む。上唇、下唇。重なった唇が熱くて、頬に掛かる斗真の息も熱い。

 ダメ押しとばかりにもう一度唇を押し付けて、斗真は離れていった。最後に舌で唇を舐められた気がするのは……えっと、気のせいだよね。


 斗真の舌が唇から覗く。自分の唇を一舐めして、舌は中に引っ込んでいった。唇が濡れていて、私はそこから目を離せずにいた。


 ふわりと斗真の残り香が鼻先を掠めた。いつのまにか斗真が付け始めていた香水と、斗真の匂い。嗅ぎ慣れたはずのそれに、胸が跳ねた。


 脳のキャパがパンクした私は、拳を握って斗真に殴りかかろうとした。これは斗真限定。他の人には絶対にやらない。


 でも、斗真は私の手をすんなりと掴んだ。それに自分の手を絡めてくる。恋人繋ぎってやつだ。後頭部を掴んでいた手は、いつの間にか腰に回っている。


 やつは場違いなほど晴れやかな笑顔をしている。

 これは斗真がなかなか見せない特別なときの笑顔だ。目尻が下がって、口角が上がる。きつめの目元が和らぐと、途端に王子様みたいな顔になる。


 きゃあという歓声と、おおというの太い声が、席の方から上がった。


「キラースマイルやばいな」

 私は思わずつぶやいた。

「そこ? じゃなくてさ、だから嫁に来いって言ってんの。お前の名字が陸田になるだけで、お前はほぼ実家暮らしが一生できるんだぞ。俺は心の広い男だからな。お前が実家に入り浸っても腹を立てたりしないから。ありがたく思え」


「うん、ありがとう」

 私は条件反射で答えた。

 ってそうじゃなくて。


 実家の話してたんじゃ。

 あ、もしかしてこれ、パラレルワールドってやつ? きっと講堂の入り口がパラレルワールドの入り口だったんだ。戻らないと!!

 私は慌てて入り口の方を見た。


「ひぃっ」

 喉が潰れたような声を出してしまった。なんと、教授がドアに体を預けて、にこにこしながらこちらを見ているではないか。

 席の方を見れば、生徒の視線が一斉に突き刺さっている。

 だよね。それは見るよね。だって、こんな公衆の面前でキスされて。

 ……キス?


「斗真! 何すんの!」


 斗真の方を振り向くと、斗真はなんと地面にひざまずいていた。


 今度はなにっ?


 頭が破裂しそうなまま、私は固まった。


 斗真は私の手を取った。浅く息を吸って、吐く。そして私を見上げると、真剣な目をして言った。

「結衣、好きです。一生の愛を誓います。俺と結婚してくれませんか?」


 しんと静まったのは一瞬のこと。『キャー!』という悲鳴が講堂に響いた。


 私はフリーズした。


 ……は?

 ……え?

 ……けっ……え?


 私は斗真の目を見たまま動かない。

 斗真も私の目を見たまま動かない。


 だるまさんが転んだ……?

 負けないからね。

 って違う!


 脳内ツッコミをしている私にしびれを切らしたのか、斗真が低い声で唸った。


「お前この状況で断ったら後でどうなるかわかってんだろうな」

「脅し!」


 ひぃと私は仰け反った。

 そのまま手を引っこ抜こうとしたけど、強い力で握られているので離せない。

 てか血管浮いてるんですけど。握り潰す気か。


「脅しじゃねえよ。こうやって跪いてお願いしてるだろうが」

「圧!」


 人に物を頼む態度ではない。

 私が見下しているはずなのに、おかしい。

 あ、おかしくないかも。

 斗真はいつもこんなだわ。


「そんなに急に言われても……」

 今日、藤堂くんに失恋したばっかりかもしれないのに。


 それに社会人になったらスパダリイケメン溺愛上司に出会うかもしれないし、ドS先輩とめくるめく溺愛指導 〜残業はベッドの上で〜 なストーリーが展開するかもしれないし、という邪な考えが頭の片隅を切った。


 私の目線が一瞬上の方に外れたのを斗真は見逃さなかった。

 ぐいっと手を引かれて、私はよろけるように一歩斗真に近づいた。


「なあ、まじで、頼むよ……」

 弱々しい声は斗真には似合わない。

 本当に困っていそうな顔をして、斗真の目が切なげに細められた。


「ちょっと待ってよ斗真、ふざけるのはやめてよ。私困るよ」


 ほんとはふざけていないことくらい分かる。

 斗真とどれくらい一緒にいたと思う。生まれた時からずっと一緒。

 なのに、私の口から出たのはヘタレな言葉だった。


 だって怖い。こんな顔、こんな目、知らない。


 真剣な瞳は、斗真が高校時代のバスケの試合の時によくしてた。

 でも、熱が籠る瞳は、一度も私には向けられたことがないものだ。歴代の彼女には向けていたのだろうか。胸の奥がチリっと痛む。


 ゆっくりと斗真の言葉を理解して、斗真の真剣な瞳を見た私は、パンと体の中で何かがはじけた気がした。

 それは瞬く間に私の体中に広がって、私の体を染め上げていく。心臓が動くたびに、何かが迫り上がっていくみたいだ。

 ヒュッと私は息をのみ込んだ。斗真は私を励ますように手をギュッと握った。

 手に滲む汗は、私のか、それとも斗真のか、わからない。


「あの……私、えっと……多分?」

 しゃがれた声を振り絞る。日和った私に何も言わず、斗真はずっと私の目を見続ける。

 斗真の親指が、私の爪を撫でていく。少しづつ指の付け根のほうへ上がっていく斗真の親指から、電流みたいな感覚が突き抜けた。知らない感覚が怖くて斗真を見るのに、斗真はじっと見つめ返してくるだけだ。


 根負けしたのは私の方だった。


「はいはいはい! わかったから、もうかんべんして!」

 ガチ泣きの懇願だ。


 その瞬間、斗真はニヤッと笑った。そしてまるで契約の判子みたいに、私の手の甲に唇を押し付けた。ご丁寧にチュッというリップ音付きだ。


 あ。やられた。

 そう思った時にはもう遅かった。

 斗真は起き上がると、呆然と立つ私を横抱きにした。いきなり宙に浮いた私は、咄嗟に斗真のTシャツを掴んだ。


「オッシャー!」

 斗真が叫ぶ。それに合わせて、講堂からはち切れんばかりの拍手が沸き起こった。


 調子に乗った男子たちが指笛を吹く。向けられているのはたくさんのスマホ。フラッシュが光る。


  「いやあ、いいものを見せてもらったなぁ」

 先生は拍手をしながら教壇に上がってきた。


 私はなんとか斗真から逃れようともがくが、太い腕はびくともしない。心臓の音が近い。近すぎる。あまりにも早く動く鼓動に、このまま壊れちゃうんじゃないかと思って怖くなる。肌を通して感じる斗真の熱に私の熱も上がっていくようで、私は斗真の腕をひっぺ剥がそうと躍起になった。


 耳元で「あんまり暴れたら落とすぞ」と低い声で脅された。私は条件反射で斗真の首元にしがみついて、顔を斗真の首に押しつけた。唇が斗真の太い血管に触れる。ドクドクいっている。

 斗真の息を呑む音が耳元を掠めて髪の毛が揺れた。


 きゃあとまた女子の歓声がする。

 私は慌てて顔を剥した。


 違うの、それどころじゃないの。


 こいつはやると言ったらやる男だ。

 小さい頃、プールに突き落とされたこともあるし、木登りの途中で手を離されたこともあるし、二人で迷子になったときに私があまりにも駄々をこねるものだから置いていかれたこともあった。


 あれなんか結構扱い酷くない?

 悶々とする私の頭上では、斗真が笑顔でそつなく先生に答えている。


「挙式はぜひ校内のチャペルをおすすめするよ。学割で安くしてあげるから」

 先生が私たちにウインクを飛ばしてきた。


 そう、この先生は教授だけど神父さんでもある。冴えない中年のおっさんだと思ってたけど、今のウインクはなんかちょっとキュンときたかも。


「おい」

 しっかり見ていたらしい斗真が低い声でうなった。

 私は慌てて視線を先生から外した。


「では僕たちはこれで失礼します」

 斗真が先生にお辞儀をする。

「お待ちなさい。君たちは受講生だろう。ちょうどほら、手前の席が空いているから、そこに仲良く二人で座りなさい」


 斗真はちっと小さく舌落ちをしたが、先生の言葉に従って席まで行くと、机の上に私を下ろした。どさり、と言った感じだ。


「お前、結構重たいんだな」

 両腕をブンブンと振っている。


 おい、そこは『君は羽のように軽いね』って言うところだろうか。テニスで鍛えた筋力舐めんなよ。


 そんな言葉が喉元まで迫り上がったが、これ以上注目されるのは嫌なので、さっさと机から降りて、私は椅子に座った。


 前に投げ出されたままの私と斗真のカバンを、先生はわざわざ持ってきてくれた。申し訳なさマックスだ。

 しっかりと私たちをネタにすると、先生は「じゃあ今日の議題はせっかくだから変更して、『愛』にしようかな」と講義を始めた。


 もしかしてこれ、毎年この講義のネタにされるんじゃ……


 最前列の真ん中の席というのは、ただでさえ目立つ。それが今じゃ全受講生の視線が私の頭に突き刺さっている気がする。


 私の自意識過剰なわけじゃないと思うの。だって私がちょっと身じろぎすると、空気がざわってするんだもん。

 私は心を無にしてじっと前を向いた。本当は頭を抱えて机に突っ伏したい。でも恐ろしくてそんなことできない。


「ね、ちょっと! すっごい目立ってるんだけど」

 私は視線を先生に固定しながら斗真に文句を言った。

「そりゃまあ目立たせるためにやったからな。いいじゃんか、お前みたいな地味なやつ、なかなかこんなに注目は集まらないぞ」

「そういう問題じゃないでしょうが」


「なんだよ。これでさっきのお前のうっかりモブ当て馬事件は帳消しだ。誰の記憶にも残らないぞ」

 斗真はクイっと片眉を上げた。それにちょっときゅんとしてしまって、慌てて目を逸らす。

 そこまで考えてくれてたなんて。


 感動する私をよそに、斗真は悪い顔で笑った。

「ああ、明日あいつらが来るの楽しみだなあ。注目カップルのつもりで来ても、誰も眼中にないだろうからなあ。くくくっ」


 おい。

 私の感動を返して欲しい。


 少し冷静になった私は、やはり逃げることにした。この台風の目のような男といたら、そのうち木っ端微塵に吹っ飛ばされる未来しか見えない。


 隣の席に移動したくとも、斗真がぎちっと私の右手を握っているから動けない。左手でなんとかノートを取ってみようとしたが、私は早々にあきらめた。

 斗真がいつも通りの集中力でノートをとっているから、後で見せてもらおう。


 これはもう斗真が悪いからしょうがないよね。


 頭を動かさないまま目線だけ斗真の方を見ると、口角をうっすらと上げて、今にも鼻歌を歌いそうなご機嫌な様子だ。


 最近いつもしかめっ面ばっかりしてるから、こんなに笑った斗真を見たのは久しぶりかもしれない。


  私の視線に気づいた斗真が私を見下ろしてきた。

「ああ? 何見てんだよ。もう一回口塞いでやろうか」

 何でこいつはいっつもメンチ切られたヤンキーメンタリティーなのか。


 私は慌てて目をそらした。


「……ていうか、彼女はいいの?」

 ずっと引っかかっていたこと。今でも盛大なドッキリなんじゃないかという気がする。それか虫除け? ここまでする?

「彼女はいない」

「別れたんだ?」

「てか、初めからいない。いや、いるか」


 どっちだよ。

 私は虫ケラを見る目で斗真を見た。


「俺がずっと付き合ってるのはお前だけど」

 口元を隠しながら斗真がぶっきらぼうに言う。耳が赤い。目元も赤い。ついでに首も赤い。私が驚いてじっと見つめると、ぷいっと目を逸らしてきた。


 え? なんで? 照れポイントおかしくない?


「いやいやいや、それはないわ!」

 思わずでっかい声で突っ込んでしまった。


 講堂がしんとする。

「どうされたのですか?」

 先生がにこやかに聞いてくる。

「えっと、すみません。何でもないです」

 私は恥ずかしさに縮こまりながら答えた。

「いいのですよ。喧嘩をするのも夫婦円満の秘訣ですからね」

 そう言いながら先生は、聖書から夫婦に関するところを引用した。


 はあ、と曖昧に笑って、私はお茶を濁した。


 おい、お前のせいで怒られたじゃねえか。

 斗真を睨む。ついでに足も踏む。いつもなら百倍返しで返ってくるのに、斗真は文句も言わずに私を見つめていた。


「出会ってからずっと、お前は俺のものだと思ってた。これが好きという気持ちなら、恋なんだろ。でもそれだけじゃ足りない。俺は結衣の全部が欲しい。だから結婚しよう」


 どこから突っ込めば……


「それはいわゆる、『俺のものは俺のもの、お前のものも俺のもの』ってやつじゃ……?」


 いじめっ子か。


「俺の全部を結衣にやる。そしたらイーブンだろ」

 至極真面目な顔をして斗真が言う。

「そしたら各自、自分のものは自分のものとして落ち着いては……?」


 斗真はわかってねえな、こいつ、と首を振った。

「それじゃダメなの。お前が白馬の王子がいいって言うなら、それになってやる。金持ちで贅沢したいって言うなら、いくらでも稼いできてやる。でも、結衣は俺の隣にいろ」

 いつの間にか腰に手を回されていた私は、斗真にぴったりとくっついていた。やんわりと力を込められた手が動くたびに、くすぐったくて身を捩りたくなる。変な声が出ちゃいそうで、私は口をぎゅっと閉じた。


「でっ、でもだって! 斗真、私とは結婚しないって言ってたでしょ」

「そんなこと言ったか?」


 こいつ、忘れてやがる。

 あれは忘れもしない小学校五年生のとき。『お前らいっつも一緒にいるんだな。夫婦だな。やーい、ふーふ!』と男子たちがからかってきたのだ。その時斗真は言った。『こんな鈍臭い女と結婚なんかするか!』と。すごいショックで、泣きながら家に帰ったのに。しばらく口も聞いてやらなかった。ママは笑ってて、パパは喜んでたけど。


 そのことを言って聞かせると、斗真は呆れた顔をした。

「そんな昔の話出されても。男には色々あるの」

「女にだって色々あるし!」

 私はムキになって言い返した。ついでに斗真の手を剥がそうとするのに、逆に力を込められてしまった。

 ちょっと、肉を掴むな! 揉むな!

 待って、待って、そこはちょっとやばい感じがする!


「……昔の話を出すんだったら、約束しただろ、幼稚園の時に。結衣、俺のお嫁さんになるって言ったじゃんか」

「でもこういう約束とかって、後のやつの方が有効なんじゃないの? よくサスペンスドラマでも、殺された当主の遺言書が二通見つかって、新しい方が有効だってやってるでしょ」


 だいたい二通目のやつがフェイクで、その恩恵を一番受ける人が犯人なのだ。


「結衣のくせに生意気な」

 斗真は悔しそうな顔をする。私はドヤ顔で笑った。


「いや、やっぱり小学校の時のは無効だ」

 顎に手を当てて考えてたらしい斗真は、少し間を開けてから言い切った。


「なんでよ?」


「覚えてるか? 幼稚園の時、お前が俺の嫁になるって言ったのはどこでだったか?」


 どこで? えーっと、確か。


「家?」

「そう。俺の家。お前の家族と庭でバーベキューしただろ。で、お前が言ったんだ、俺の嫁になるって」


 あー。

 斗真の家はうちより広くて、斗真のお母さんの趣味で海外のおうちみたいな作りになってる。お姫様が住んでるみたい、私もこんな家に住みたいなって言ったら、『じゃあ僕が大きくなったらお嫁さんにしてあげる』って斗真が言ったんだった。


 あのときは斗真も『僕』呼びだったんだよねえ。

 可愛かったよねえ。


「いいか。あの時は両家の両親が揃っていた。そこで俺たちは将来の約束をした。つまり、両家公認ってわけだ。小学校の時は周りにガキしかいなかっただろ。だからそっちは無効だ」


「ええ」


 そういうもんなの?

 でも、法学部の斗真が言うと説得力がある。


「なあ、もう一回、する? そしたら結衣もわかってくれるかな?」

 斗真は優しそうな声で囁き、親指で優しく私の唇を撫でた。さっき手に感じた電流がまた駆け抜けた。

「っ!」

 今度こそ本当に変な声が出そうになった。

 唇が熱い。掴まれた脇腹も熱い。

 脇腹にある手が移動して、親指がゆっくりと背骨を撫でていく。腰の下辺りをぐっと押されると、私はビクッとなってのけぞった。


 私は『降参』と両手を小さく上げた。涙目で、顔は真っ赤になってるだろう。

 斗真は目を細めて満足げに笑う。色気ダダ漏れのその顔に、私はとうとう撃沈した。小さく何度も頷くと、斗真はやっと手を離してくれた。


 ドキドキする心臓を抑えながら、私は浅く呼吸を繰り返した。


 なんでこんなことになったのかな?

 つらつらと考えてみても、この非常事態に頭がちゃんとに働くわけもなく――まあ元からそんなに働きはしないんだけど――堂々巡りでキリがないので、私の将来計画に想いを馳せることにした。


 まあ、でも追い出されるまで実家に居座るという計画は変わらないし、斗真の家に移っても自分の家は正面だ。斗真と一緒に生活すれば、万が一朝寝坊しても起こしてもらえるかもしれないし、同じ会社か近くの会社に勤めることができれば、私が仕事を行く気がなくなっても引っ張って外に出してくれるだろう。


 結婚のこととか子どものこととかはよくわからないけど、斗真ならなんとなくいい感じにしてくれるんじゃないかと思う。そしたら結構計画通りなんじゃないかな?


 そしたらまぁいっか。


 なんかうまく乗せられてる気がするけど。


 悔しさと、恥ずかしさと、恨みと、どうにもならないこの暴れ出しそうな気持ちを込めて、私は腰あたりで怪しげに動く斗真の手を無理やり剥がすと、力のいっぱい握りつぶした。


 お前、後で覚えてろよ。


 心の声が届いたのか、斗真は私の方を見ると顔をくしゃっとさせて嬉しそうに笑った。


 心臓がぎゅっと握り潰された気がする。


 もしかして斗真、魔法使いかなんかなんじゃ……?


 私は慌てて前を見た。


 モブで当て馬な私の物語は、こうして始まりを告げたのである。


 後ろからの刺さるような視線と、先生のニヤニヤした視線をまるっと見なかったことにすると、私は冷静に見えるように一つ大きく頷いた。


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