6. 言えなかった言葉①
ようやく疲れた昼休みが終わった。
遥と一緒に姉さんに別れを告げ、いつも通りの距離を保ちながら教室へ戻る。
「まさか、優等生の雨宮さんがあんなことをするなんて……」
「隣のクラスの人がそう言ってるのを聞いた時、私も驚いちゃったよ」
途中、ふと誰かが雨宮さんの話をしているのが聞こえた。あの雨宮さんが、僕と同じクラスの雨宮さんのことを指しているのかどうかは分からなかったけど、特に気にせず、ただ聞き流していた。
「あず、聞こえた?誰かが雨宮さんのこと話してるみたいだよ」
「聞こえたけど、他人のことを噂するのには興味ない」
雨宮さんが何をしたかは僕には関係ないし、人の噂話なんてしたくない。それに、もし本人に聞かれたら、恥ずかしい思いをさせたり、怒らせたりするかもしれないし。
「えへへ、相変わらずだね」
「前から僕のこと知ってたのか?」
「どうかな」
眉をひそめて振り返ってみた。
遥は意味ありげな笑みを浮かべていて、まともに答えるつもりはなさそうだったので、それ以上聞くのを諦めた。
教室に入ると、クラスのほとんどの人が雨宮さんの話題で盛り上がっている。
まったく興味が湧かず、自分の席に戻って次の授業までの間に少し休もうと思った。
イヤホンをつけて、机にうつ伏せになってまだ3分も経っていないうちに、スマホに遥からのメッセージが届いた。
『さっき、事情を聞いてきたんだけど、どうやら普段は先生にとても礼儀正しい雨宮さんが、今日の昼休みに教室で机にうつ伏せになって休んでいた後、職員室に行って一年E組の担任、藤原先生を探したらしいんだ。』
『でも、先生がいなくて、代わりにその先生の机の上のものを全部床にぶちまけて、まるで発散しているみたいに。で、制止されると、反抗してその先生を罵倒してから気を失ったんだって。』
これ、まるで幽霊に取り憑かれたみたい。幽霊って人が意識を失ったり寝ている時にしか取り憑けない。だからもし本当に幽霊の仕業だとしたら、雨宮さんが休んでいる隙にうまく取り憑いたんじゃないかって思う。
原因が何であれ、そんなことは僕には関係ない。僕は、自分が生まれつき持っている霊能力がバレるようなことには巻き込まれたくないんだ。
『雨宮さんは今保健室で、まだ意識が戻ってない。あとで一緒にお見舞いに行く?』
『僕は行きたくない。行きたいなら君だけで行けよ。』
『お願い~』
少し離れた場所で女子たちに囲まれている遥が、キラキラと期待に満ちた視線をこちらに送ってきたけど、僕は見なかったフリをして視線を窓の外に逸らすことにした。
雨宮さんの様子を見たら、見て見ぬふりができず、つい幽霊を祓って助けてしまうかもしれない。でも、もしその過程で僕の目や霊と関わる力がバレたら、高校生活が終わりかねない。だから、その頼みにはどうしても応えられないんだ。
――しかし、休み時間になると、結局遥のお願いと甘えには勝てず、疲れた体を引きずりながら遥と一緒に保健室へ向かうことになった。
保健室には先生もおらず、他に見舞いに来た人もいなかった。
「雨宮さん、目が覚めましたか?」
遥はカーテンの中の雨宮さんに声をかけたが、返事はなかった。どうやらまだ目を覚ましていないようだ。
遥が雨宮さんの様子を見ようとカーテンを少し開けた。
その隙間から見えたのは、ベッドで安らかに眠る雨宮さんが、僕にしか見えない暗いオーラに包まれている姿だった。
このオーラ、確か怨霊が放つものだったはず。どうやら雨宮さんに取り憑いた幽霊はまだ離れておらず、彼女の体を支配したままらしい。もしかすると目が覚めない理由も、眠っているフリをしているせいかもしれない。だって、幽霊にはそもそも眠る必要はないから。あるいは、単に体の支配権を失っているだけかも……
僕は幽霊についてそこまで詳しいわけじゃないから、今の状況がどういうことなのかは断言できない。
「雨宮さんに幽霊が憑いているの、見えた?」
「……僕が幽霊なんて見えるわけないだろ」
嘘をついた。
遥は僕の目のことを知っているけど、僕が幽霊とやり取りできる能力を持っていることは知らないはずだ。
「でも、見えるし、聞こえるんじゃないの?」
その表情と口調は、まるで僕が霊能力を持っていることを確信しているかのようだった。
この人、一体誰なんだ?
「まぁ、もしかしたら私の勘違いかもしれないけどね」
しかし、遥はすぐにニコニコとした笑顔に切り替えた。その瞬間、彼女が何を考えているのか、どこまで僕のことを知っているのか、ますます分からなくなった。
その時、保健室の先生が戻ってきた。
「え?あなたたち、その子のお見舞いに来たの?でも、休み時間もそろそろ終わるよ。怪我とか病気じゃなかったら、早く教室に戻って」
先生に急かされるように、僕たちは保健室を後にした。
教室へ戻る途中、遥は一度も僕が霊能力を持っているかどうかを聞いてこなかった。まるでそのことをすっかり忘れたかのように。そんな彼女の様子に、僕ももう触れない方がいいんだろうなと思った。
でも、保健室を出てからというもの、時々ぼんやりとした声が聞こえてくる。休み時間がまだ終わっていないから、いくつかのクラスの外や廊下で数人が話しているせいで、その声が人間のものか、幽霊のものか区別がつかない。
廊下で話している人たちから離れて、ようやくその声がはっきりと聞こえてきた。
「おい、聞こえてるか?」
振り返ってみたが、その男の声は遥が発したものではなかった。しかも後ろには他の誰もいなかった。
「どうしたの?」
遥はその声が聞こえていないようで、僕が振り返ったのは何か話したいことがあるからだと思ったらしい。
「なんでも」
ほぼ確信した。この声は幽霊のものだ。もし生き物に憑依しているなら、明るい場所でもそのオーラが見える。でも、憑依していない幽霊なら、今のように明るい場所ではその存在やオーラを捉えることができない。
でも、学校ではよく幽霊の声が聞こえるから、いつも通り無視するつもりだった。
「さっき、ちゃんと聞こえたよな?」
「俺を無視しないでくれよ」
「おい!」
うるさいな。僕についてくるのやめてくれないか?
さっき振り返ったせいで、あの幽霊はどうやら僕が聞こえていると確信したらしく、教室に戻ってきてもずっと僕の周りで喋り続けている。姿は見えないけど、あちこちから絶え間なく響く声を聞くだけでイライラしてくる。
ついに我慢の限界が来て、僕はスマホを取り出し、メモアプリに『黙れ』と書き込んだ。声に出して応えれば他の人に気づかれてしまうので、こうするしかない。自分に霊能力があることがバレないようにするためにも。
「やっと返事してくれたんだな。悪いな、さっきお前の友達がお前は幽霊の声が聞こえるって言ってたからさ、本当に聞こえるかどうか試そうと思ってしつこくしちゃったんだ」
『僕は幽霊の頼みなんて受けないし、幽霊と関わるつもりもない。じゃあな、二度と邪魔しないでくれよ。』
「おい待てよ、話くらい聞けって!このままだと、俺が取り憑いてるあの女子、死んじまうんだぞ!」
こいつ、僕を脅してるのか?
こういう道徳の欠片もない怨霊を助ける義理なんてないし、助けたくもない。でも、僕の拒絶で雨宮さんが死んだら、一生後悔する。
……一応、話だけは聞いてみるか。
「すまない、威嚇するつもりはなかったんだ。ただ、状況が切迫していて、お前の力が必要なんだ。俺の悪意を持った分裂したもう一つの魂、今その魂があの女の子に取り憑いているんだ。取り憑いている魂は不完全で、体を動かせるのはほんの短い時間だけだ。今、その女の子の魂は俺のもう一つの魂と、体の支配権を争っている。こんな状態が続けば、どんどん弱っていって、最終的には精神的にも肉体的にも死んでしまうかもしれない」
今、学校の中で助けられるのは、霊能力を持っている僕しかいない。見て見ぬふりをしたら、雨宮さんは僕のせいで死んでしまう。霊能力がバレるのは怖いけど、助けるしかないんだ。
けれど、幽霊の魂が2つに分裂しているとなると、どうすればいいのか、僕にも分からない。というのも、普通の幽霊と怨霊じゃ、成仏の方法が全く違うからだ。普通の幽霊は、生前の未練や願いを満たすことで成仏する。でも、怨霊は、死ぬ前の恨みを晴らさなければ成仏できない。普通の幽霊が成仏した後に、分裂したもう一つの怨霊も成仏できるのか、それは全くの未知数だ。
『その前にちゃんと質問に答えてくれないと、僕もどう手伝えばいいか分からないから。』
授業が始まるから、仕方なくノートを使って幽霊とやり取りすることにした。
今、一番確実な方法は、怨霊が一年E組の藤原先生に何か不満を持っている理由を理解し、それに対処して怨霊を成仏させることで、雨宮さんの体から離れるようにすることだ。
でも、その間ずっと高い警戒を保ち続けて、他の人に怪しまれないようにしないといけないから、かなり疲れそうだな……
「ああ、ちゃんと協力するよ」
『君の死因は何なんだ?』
「交通事故。1ヶ月前に亡くなった」
『君の死因と一年E組の藤原先生には関係があるのか?』
すると、その幽霊は急に長々と語り始めて、藤原先生との関係について話し出した。
そいつは、藤原先生が自分の母親だと話していた。
ある日、彼が路地を通りかかると、中学生が不良高校生にいじめられているのを見かけ、思わず助けに入った。怪我はひどかったが、なんとか相手を追い払い、一人を病院送りにした。しかし、その相手の親が学校に通報し、調査が始まると、藤原先生は事情を知っていながらも、彼をかばうどころか逆に責めたのだ。
結果として、彼は学校から2週間の停学処分を受け、謝罪させられることになった。その日、彼は藤原先生と大喧嘩をして、家を飛び出し、街をぶらついていた。信号待ちの時、道路に飛び出した猫を助けようとして、結局トラックに轢かれて命を落としてしまった。
――経緯は大体こんな感じだ。
長い話を聞いてたら、もう少しで寝落ちしそうだった。
つまり、藤原先生が当時自分の味方をしてくれなかったことに対する恨みが、悪意のある霊魂の原因で怨霊に変わったってことか。そうなると、雨宮さんの体からその怨霊を成仏させるためには、藤原先生本人に会って、当時の行動には別の理由があったと説明するか、うまく言いくるめて怨霊の怨みを解消するしかないな。
問題の解決方法は一応思いついたけど、どうやって藤原先生にこのことを話せば霊能力があるって疑われずに済むかな……
『その怨霊にもう一度体の主導権を握らせる方法、君にはあるか?』
もしそれができるなら、その怨霊に藤原先生と直接対峙させれば手間が省ける。そうすれば、僕が前に出る必要もなくなるんだが。
「今の俺のこの善意の方の魂をあの子に憑依させて、もう片方の魂と一体化すれば、一時的にその女の子の体を再び操れると思う。ただ、そうすると善意の俺が悪意に飲み込まれて、理性を保てなくなるかもしれないが」
『じゃあ、放課後にその体に憑依しろよ。藤原先生と話す時だけでもなんとか理性を取り戻せばいいから。放課後ならほとんどの先生が職員室で仕事してるはずだから、そのタイミングで動け。』
「オーケー、了解。でもお前は何をするつもりなんだ?」
『状況による。』
隣の席からの視線に気づいた僕は、表情を変えずにすぐさまノートを白紙の次のページにめくった。