4. 夜
「ただいま……」
玄関のドアをパタンと閉めた後、靴を脱いできちんと並べる。そして、ついでにもう一足の靴も整えておいた。
「おかえりー」
キッチンから、気だるげな女性の声が聞こえた。すると、エプロンを脱ぎ捨てた人影が勢いよく飛びついてきて、まるで変態みたいに僕の制服に顔を擦りつけ始めた。
残念ながら、この変態は僕の姉、吉川あずさ。今年17歳で、高校2年生、僕と同じ高校に通っている。普通の人間で霊能力なんて持ってないし、弟である僕の話題さえ出さなければ、クールな美人って感じだ。
「今日は本当は弟と一緒に帰ろうと思ってたのに、そしたら超綺麗な女の子と一緒にいるのを見ちゃってさ」
「あ、見たのか」
「彼女は私の弟に興味があるの?でも、私が許さないからね。弟は私のものなんだから」
今、姉さんが言ったことは冗談ではなく、本気だと確信している。なぜなら、このヤベー奴はブラコンだから。
記憶を持ち始めた頃から、姉さんはずっと僕にべったりだった。学校の授業中以外は、10分以上離れるとすぐにメッセージを送ってきて、3分以上経っても返信がなければ電話をかけてくる。だから、遥を学校に案内している時も、ほとんどずっと姉さんのメッセージに返信してた。
時々、姉さんは僕に抱きついて、僕の匂いをクンクン嗅いだり、無理やり抱き枕にして寝たりすることもある。そんなことには抵抗できないし、普段から僕のことをよく面倒見てくれるから、仕方なく受け入れているんだ。
それに、もし両親と姉さんの気遣いと支えがなかったら、過去に受けた色んな悪意で僕はもうとっくに壊れてたと思う。
「見てたなら、どうして止めに来なかったの?」
「姉としては、やっぱり大切な弟が何人か友達を作って、楽しい学生生活を送ってほしいからね」
「でも実際は?」
「その美少女が私の大切な弟を奪う泥棒猫かもしれないと思ったので、止めようとするけれど、結局琴音ちゃんに引っ張られて生徒会の仕事をしに行かされた」
白野琴音は風岭高等学院の生徒会長。ちなみに、僕の姉さんは生徒会の副会長。白野会長と姉さんは幼い頃からの親友で、よく家に遊びに来ることもある。
僕は普段ほとんど部屋にこもっているし、学校では白野会長と会うこともあまりないので、関係はただの知り合いに過ぎない。だけど、それでも彼女に感謝の気持ちでいっぱいだ。というのも、学校で姉が長時間僕に会えないとき、教室に乱入しようとするのを白野会長がいつも止めてくれるおかげで、随分と面倒を減らしてもらったからだ。
「今日は生徒会の仕事で早めに学校に来なきゃいけなくて、お昼休みも琴音ちゃんに取られちゃって、放課後も一緒に帰れなかった……お姉ちゃん、とっても悲しいよ」
「はいはい。よしよし」
ため息をつきながら、仕方なく姉さんの頭を撫でてやった。すると、姉さんは撫でられる猫みたいに目を細めて気持ちよさそうな顔をするから、こっちまでちょっと和んでしまう。
少しして、ようやく元気を取り戻してくれたみたいだ。
「よし、エネルギー補充完了。先にお風呂入ってきて、私はもうすぐ夕飯ができるから。パパとママは遅くなるって言ってたから、帰りを待たなくていいわよ」
「うん」
姉さんは満足げに抱きしめるのを解いて振り返ると、キッチンに戻って夕食の準備を続けた。
階段を上って自分の部屋に戻ると、まずカバンを置き、洗面所へ向かった。
鏡の前に立ち、慎重にカラコンを外す。
鏡に映る自分の猫のような目、そして今でも残っている腕と脚の傷跡を見つめながら、小学生の頃のことを思い出さずにはいられなかった。
体育の授業中、うっかりカラコンを外してしまい、目の本当の姿が見られてしまったあの日から、様々なネガティブな噂が立ち、いじめに遭うことになった。自分が友達だと思っていた人たちすら、助けてくれるどころか、裏で悪口を言っていたことが、今でも忘れられない。
小学3年生のときに立川市に引っ越してから、あいつらとはもう会ったことがない。でも、僕はどんどん暗くなって、他の人とは近づかないようになった。けれど今日、遥と二人きりで過ごしてみて、実は他の人と接することが嫌いじゃないって気づいたんだ。心の奥底では、やっぱり友達がほしいって思ってる。
でも、過去に自分が友達だと思っていた人たちに裏切られたことを思い出すと、また同じことが起こるんじゃないかと怖くなる。けれど、今回は遥が勝手に近づいてきたし、断ることもできない……それに、話せる唯一の相手を大切にしたい気持ちも少しあるんだ。
……まぁ、いくら悩んでも物事が良い方向に進むとは限らないし、とりあえず自然に任せることにしよう。
今日の夕食は、じゃがいもと豚バラの煮物、味噌汁、それに青椒肉絲だった。
もし姉さんが料理をするなら、ほとんど毎回たくさんの肉を作ってくれる。だって、僕は肉が好きだから。姉さんにも自分の好きなものを作ってって言ったことがあるけど、僕が好きなものが彼女も好きだって言ってた。
「そういえば、あんたが帰る前に隣の奥さんが焼きたてのクッキーを持ってきてくれたのよ。後で少し持っていきなさいね」
「うん」
「お返しに何のお菓子を作ろうかな。あっ、あんたも手伝ってね。弟と一緒に夫婦みたいにキッチンで料理するの、久しぶりだね」
なんで周りの人は僕に意見を聞かずに勝手に決めちゃうんだろう?まぁ、こんな細かいことは僕も拒否しないけど。
でも、もし姉さんがお返しを持っていくときに遥を見かけて、今日僕と一緒にいた子だと気づかれたら、姉さんが僕を自分の所有物だと宣言して、遥に迷惑をかけたり、誤解されたりするかもしれない。だから、お返しは遥が家にいない日に持って行くしかないな。
「そういえばさ、なんか隣の奥さんの顔、今日学校で見かけたあんたと一緒にいたあの女の子にすごく似てる気がするんだけど……」
ヤバッ、バレそうだ。
姉さんがブラコンのせいで遥に敵意を抱かないよう、適当にごまかすことにする。
「まぁ、この世には似たような顔の人もたくさんいるから」
「それもそうね。ただの偶然で似てるだけよね」
セーフ。
まさか、こんな簡単にごまかせるとは思わなかったな。
「と、私がそう言うと思った?」
「え……」
姉さんがニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。
「あんたって、言いたくないことがあると毎回そういう顔でごまかそうとするわよね」
普段は感情を隠すためのポーカーフェイスは完璧だと思っているけど、弟のことを知り尽くしている姉さんの前ではまったく効果がない。
「やっぱり、君には隠せないな」
「さて、私の可愛い弟よ、早く素直に教えて?」
「まずは約束して。それを知ったら、変なことをしたり、トラブルを起こしたりしないで」
「はいはい……大切な弟にそんな風に思われるなんて……もう泣きそう」
だって、白野会長ですら、姉さんが僕のために危険な人物になりかねないと思って見張っているからさ。
すると、遥がさっき姉さんが言っていた隣の奥さんの娘だと思ったから似ているのだと話しただけだった。しかし、その後、姉さんは今日、遥と一緒に何をして、どんな会話を交わしたのか知りたがっていた。最初は話したくなかったが、子供のように駄々をこねる姉さんに勝てず、仕方なく今日放課後に起こった出来事を簡潔に語った。
「どうやら、その子を……」
「ちょっと待って!変なことはしないって約束したじゃん?」
「そんなこと思ってないよ。ただ、その子を知りたかっただけ。私の可愛い弟を奪う資格があるかどうか、確かめたかったんだから」
「彼女が僕みたいな陰気な化け物に興味を持つわけないよ」
そう言い終わると、姉さんは手を伸ばして無理やり僕の髪をグシャグシャにかき回してきた。
「うちの弟は怪物なんかじゃない!もし誰かが私の弟を怪物だなんて言ったら、その人を絶対に許さないからね!」
「……はいはい、早くご飯を食べ続けて」
僕はそっと姉さんの手を払いのけた。
毎回、僕が自分を卑下する態度を見せると、姉さんはすごく怒る。でも、この目と霊能力を持っている僕は、やっぱり化け物なんだ。これは変えられない事実だから、自分を卑下しないわけにはいかない。
*
夕食後、食器を洗ってから、甘えん坊の犬を思う存分撫でて、その柔らかさに少し癒された。そして自室に戻り、ドアを閉めると、ようやく自分だけの時間が訪れた気がした。
アニメの最新話を観るためにパソコンを開いていると、カーテンの隙間から、遥がベランダに立ってうつむき、スマホをいじっているのが目に入った。その隣には、長い髪の女性の幽霊が浮かんでいて、一緒にスマホを見つめていた。
この家に引っ越してきたときから、あの幽霊はずっとあのベランダにいて、一度もどこかに行った様子はない。
僕の家のように、家の隅々に特製のお札を貼って、幽霊が入ってきたり声が聞こえたりしないような結界を張らないと、幽霊が家に来るかもしれない。
一般的な幽霊は無害だけど、人が寝ている時や意識を失った時に体に入り込もうとする幽霊だけは有害なんだ。一度体を長く支配されると、体がどんどん弱っていって、最悪の場合は死に至ることもあるんだ。
でも、遥の隣にいるあの幽霊は、今まで無害だと思う。だって、その家からは今まで不思議な事件が一つも起こっていないから。
僕は陰陽師のようなカッコいい浄霊の技術なんて持っていなくて、幽霊の未練や願いを叶えて成仏させるという面倒な方法しか知らない。それでも、たとえやり方が分かっていても、わざわざ面倒ごとを引き受けたくない。うっかりしたことで、幽霊が見えることがバレれば、家族や自分に迷惑をかけたり、変な噂が立ったりするかもしれないから。
隣の家の状況を無視してアニメを見続けようとすると、スマホが着信音を鳴らした。遥からのメッセージだった――ごめんね、冷静になったら、今日いろいろ迷惑をかけちゃったなって気づいた。
「今頃気づいたのか……」
正直なところ、今日は遥にかなり迷惑をかけられたけど、別に嫌だとか排除したいわけじゃない。
家族以外の人に返事するのはあまり得意じゃないんだ。表情が見えないから、変なことを言って嫌われるんじゃないかと心配になっちゃう。こんな時は、無難な返事をしたほうがいいよな……
『大丈夫です、気にしないで』と入力して、送信ボタンを押した。
しかし、次に届いたメッセージを見て、思わずため息が漏れた。
『本当に?じゃあ、これからもまた迷惑かけてもいい?』
おいおい、それはただの社交辞令だからな?遥は本当に分からないのか、それともわざとか?
でも、ベランダで遥が嬉しそうな顔をしているのを見たら、僕も折れるしかなかった。
『好きにすればいい』
『よっしゃ!』
まだベランダにいる遥は、冷たい風に吹かれてくしゃみをしてしまった。
もう秋になっているから、気温は夏よりずっと下がっているし、ましてや夜はさらに寒い。あんなTシャツとショートパンツの格好でベランダに居続けたら、きっと風邪を引いてしまうだろう。
『風邪をひいて僕にうつさないでくれればそれでいい』
遥はようやくカーテンの隙間の後ろにいる僕に気づき、満面の笑みを浮かべながら手を振ってくれた。
すると、僕はカーテンを引いた。