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20. 元太郎③

 家の中にはカビ臭い不快な匂いが漂っている。暗いけれど、僕の目は暗闇の中でもしっかりと見える。クモの巣があちこちに張り巡らされ、空気中には舞う埃が不快に絡みつく。

 遥はスマホの懐中電灯をつけて、周りを照らした。


 音を辿ってリビングに辿り着くと、床にはチョークで描かれた六芒星の魔法陣のようなものがあった。魔法陣の各角には壺が置かれており、あの男が倒れていた壺を元に戻すと、すべての壺が同時に蛍光を放ち、線に沿って中心へとじわじわ伝わっていく。


「これってまさか本物の魔法陣……?」


 僕自身も超常現象が見えるから、遥の話を否定できない。この世界にはもしかしたら本当に魔法が存在するのかもしれない。


「これが魔法陣ちゃうわ!てか、入ってくんな言うたやろ!?」


 今やっていることよりも、元太郎がどこにいるのかのほうが気になる。


 元太郎は食卓の近くにあるペット食器台の前にいて、まるで僕に甘えるときと同じように尻尾を振りながら、キッチンのほうに向かって一声『ワン』と吠えた。

 キッチンのほうに目をやると、いつの間にかそこには優しそうなおばあさんの幽霊がいる。もしかして、元太郎が突然暴走してここに来たのは、このおばあさんの幽霊の気配を感じ取ったからなの?元太郎はこのおばあさんのことを知っているのか?


(こう)太郎(たろう)……?まさか、康太郎なのか?』


 元太郎はまるで幽霊が見えるかのように、おばあさんに向かって全速力で駆け出し、飛びつこうとした。しかし、霊能力を持たない生き物は幽霊に触れることができない――元太郎の体はおばあさんの足元をすり抜けるように、まっすぐに通り過ぎていった。


『本当に康太郎だ……あの日からどれくらい経ったのかしら……元気に大きくなったのね』


 魔法陣が蛍光に包まれた。


「もうええわ……(かい)!」


 言葉を発した瞬間、魔法陣が眩い光を放ち、家全体を包み込んだ。

 僕は思わず手をかざし、その光を遮ろうとする。


 やがて、光が徐々に収まり、目を開けると――目の前には違う光景が広がっていた。薄暗く陰鬱だったリビングは明るさと温もりに満たされ、隅に張り付いていたクモの巣も、漂っていたカビ臭さもすっかり消え去っていた。

 周りを見渡すと、元太郎も、遥も、あの男も、幽霊のおばあさんさえも、全員姿を消していた。さらに、さっきまであったはずのペット食器台さえも元の場所から消えていた。


 何とも言えない違和感が瞬時に感じられた。ここは、光を爆発前のリビングと見た目はほぼ同じようで、実際には何かが違う。ただ、その『何か』が具体的に何なのかは分からなかった。


「ほら、シャワーを浴びたらもう汚くなくなったでしょ?」


 声のした方へ振り返ると、目に入ったのはタオルでくるまれた小さな犬と、本来なら幽霊であるはずのおばあさんだった。その小さな犬、初めて元太郎を見たときと、まるで同じように見える。


 おばあさんはまるで僕の存在に気づいていないかのようだった。さらに奇妙なことに、おばあさんは僕の体をそのまま通り抜けていった。これって一体どういうこと?


「ごめんなさい、あなたのお母さんを助けられなかった。道端であなたたちを見つけたときには、もうお母さんは亡くなっていて、残っていたのはあなただけ。これからは、この家に住んで、寂しいおばあさんと一緒にいてくれる?」


 まるで初めて会ったときの元太郎に似ているその犬が、ワンと鳴いた。おばあさんの頼みを聞き入れたかのように。


「じゃあ、今日からあなたの名前は(こう)太郎(たろう)にしましょうね」


 場面が切り替わる。


 次々と繰り広げられる場面の中で、僕はこの家で繰り広げられる日常を目の当たりにし、あいつらに関することをもっと知ることができた。おばあさんの子供たちはみんな遠くの場所で暮らしていて、普段はほとんど帰ってこない。ただ、たまに長い電話がかかってきて、元気かどうかを尋ねるだけだ。


 なんとなく感じた。これらの場面はもしかしたら過去に実際に起こったことなのかもしれないって。もしかすると、元太郎はその小さな犬で、昔この家でおばあさんと一緒に暮らしていた。


 ある日、おばあさんはペット食器台を買った。でも、使わせようと思ったとき、今の『康太郎』の身長だと、食器の中のご飯が届かないことに気づいた。


「大丈夫よ、もう少し大きくなったら使えるようになる」


 しかし、おばあさんはもう『康太郎』が成長するのを見届けることはできなかった。

 翌日、いつものように『康太郎』と一緒にリビングで遊んでいたおばあさんは、突然、予兆もなく心臓が止まってしまった。誰にも知られることなく、この世を去ってしまった。


 『康太郎』は、おばあさんが遊び疲れて休んでいるだけだと思い込み、寄り添いながら、もう目を覚まさないおばあさんを静かに待ち続けた。


 しかし、1日が過ぎてもおばあさんが目を覚まさないことに気づいた『康太郎』は、まるで母親のようにおばあさんがただお腹が空いて寝ているだけだと思い込んでしまった。

 そこで、『康太郎』は家の中を探し回り、食べ物を見つけてはそれでも足りないと思い、外のゴミ捨て場から食べ残しをくわえて家に持ち帰り、リビングにそれを並べて、おばあさんが食べ物の匂いを嗅いで目を覚ますことをずっと期待した。


 こうして、日々が過ぎていく中、おばあさんは一度も目を覚まさなかった。『康太郎』はおばあさんがたくさんの食べ物を食べられるようにと、自分は何も食べず、空腹を感じたら外の水路で水を飲むだけで過ごしていた。

 やがて、リビングに置きっぱなしにされていた食べ残しがカビて腐り、嫌な臭いを漂わせ始めた。その臭いに鼻をついた通りすがりの人がドアを叩くも、中からの応答はなかった。

 不安に駆られて庭に回り込むと、半開きの窓越しに倒れているおばあさんの姿を目にし、急いで警察に通報した。

 警察が家の中に入ると、目にしたのは床一面に散らばる腐り果てた食べ残し、すでに息を引き取っているおばあさんの遺体、そしてその手元に寄り添う『康太郎』の姿だけ。


 その後、おばあさんがすでに亡くなっているという知らせがようやく子供たちに届いた。

 母親の最期に寄り添えなかった罪悪感を埋めるかのように、おばあさんの子供たちは立派な葬儀を執り行った。


 弔問に訪れた人々は、なぜ痩せ細った小さな犬が棺にずっと寄り添っている理由を知る由もなかった。


 『康太郎』には、死というものが何なのか分からない。

 ただ、おばあさんがただ眠っているだけだと思っている。きっと目を覚まして、また自分と遊んでくれるに違いない。美味しいご飯を作ってくれて、自分には分からないけれども孤独を感じさせない言葉をかけてくれる、そんな日々がきっと戻ってくると信じている。


 葬儀が終わった後、誰一人として、この見た目からして健康そうではない小さな犬を引き取ろうとはしなかった。だから、再びゴミ捨て場から汚らしい食べ残しを家に持ち帰らないようにと、おばあさんの家から遠く離れた道端に捨ててしまった。

 その日は雨だった。長期間の栄養不足と空腹が続いた『康太郎』はついに力尽き、立ち上がることさえできなくなった。冷たい雨の中で目を閉じると、夢の中で母親がそばに寄り添っている姿が浮かんだ。そのぬくもりが、冷たい雨の中で凍えた心に温かさを与えてくれた。


 ちょうど『康太郎』が静かに死を待っているその時、放課後の帰り道で『僕』は通りかかった。そこで目にしたのは、段ボール箱の中で今にも息絶えそうな小さな犬と、雨に煙る薄暗い景色の中でぼんやりと浮かび上がる母犬の幽霊だった。母犬の幽霊はその小さな犬に寄り添い、わずかな温もりでも与えようとしているように見えた。


『ワン!ワンワン!』


 足を止めたことに気づいた母犬の幽霊は、哀願するかのように『僕』に向かって何度か吠えた。犬語は分からないけれど、それが間違いなく、自分の死にかけた子供を救ってほしいという切なる願いであることは理解できた。


 目の前で消えゆく命を無視することができなかった『僕』は、迷わず箱を抱えて動物病院に走り、この野良犬を救うために貯金をほぼ使い果たした。

 その後、『僕』は時々あの子を見に行くようになり、少しずつ死の淵から回復していく姿を目の当たりにした。


 退院できることになったとき、あの子を自由に野良犬として過ごさせるつもりだった。だって、狭い家に閉じ込めるより、広い自然で生きる方が幸せだろうと思ったから。でも、あの子はずっと『僕』の後をついてきて、ついには家の前まで来てしまった。


 夜が訪れても、あの子はまだ玄関の前で座って離れようとしなかった。仕方なく、『僕』は家族に頼んであの子を飼ってもらうことにした。そして、家族もみんな快く承諾してくれた。


「元気だな……このまま元気でいてくれよ。今日から君の名前は(げん)太郎(たろう)だ」

「ワン!」


 元太郎は尻尾を振って嬉しそうに応えた。

 『僕』は窓越しに目を向けると、家の外でずっとこちらを見つめていた母犬の幽霊が、その姿を少しずつ光の粒となって消えていくのが見えた。もしかしたら、これがあの母犬生前最後の願いだったのかもしれない。

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