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「……なんだぁ、こりゃあ」
ニルスという青年に魂を移し替えた異世界人である京三は、この世界ではじめて食事をした。
作ったのは蒸かした芋だ。それを食し、しばらく言葉を失った。夢中で食べて1分後、ようやく口に出たのが先の言葉である。
京三が最初にしたことは、小屋の周りで育てられている芋を食べることだった。芋の大きさは手のひらより少し大きい程度、蔓はじゃがいもに似ているが、皮の色はだいぶ薄く黄色い。
家の中に冷蔵庫のようなものはなく、食糧庫もなかったから、芋を掘ったのだ。
ニルスの記憶でもそうしていたから、芋を蒸かして食べることにした。
小屋に上水は引かれているが、下水はない。ガスはなく、電気もない。薪に火をおこしそれで料理をするなど不慣れではあったが、ニルスが手順を覚えていたので問題はなかった。
「いや、うーん……これが芋か……」
不味いのではない。旨すぎる(・・・・)のだ。
調理過程で塩など入れていないにも関わらず芋は僅かに塩味を含み、毒となる芽はなく、皮を剝かなくとも食べられる。
洗って蒸かしただけとは思えない芳醇な香りは、ナッツなどの種実を思わせるものだ。
でんぷん質は日本の男爵ほど強くないが、ほろりと指で潰れるほどには柔らかい。黄色味が少しだけ濃いから、カロテンを多く含んでいるのだろうか。
「……これでは料理が流行らんわけだ」
神からの依頼は、世界に料理を広めること。
しかし、神はこうも言っていた。この世界には、旨すぎる芋があるのだと。
数千年前に世界を脅かす大飢饉が起こり、たった半年で世界人口の半数が死んだ。
何もしなければ人類が絶滅してしまうことを恐れた神が、適当に切って土に埋めれば、そこが火山灰に埋もれてようが塩害を受けていようが土に栄養がなかろうが関係なくどんな過酷な環境でも一週間で食べられるところまで育ち、連作被害も起きず、食べるだけで生きるのに必要な全ての栄養が揃う最強の食材『芋』を、生み出してしまったのだという。
その結果、瞬く間に世界から料理が消えた。
だが、はじめはそれでも良かったのだという。
まずは人類が増えることが先決と、料理が消えたことは意識から逸らし、世界中に一気に広まる芋が、人々を救うのだと見守っていた。
しかし、百年経っても、千年経っても、いっこうに人々は料理を思い出さず、料理をしようともしない。それどころか、大飢饉の前から細々と続いていた農業も畜産も狩猟も採取も全てをやめて、芋だけを食べるようになってしまったのだ。
神は、そうなる前に対処しなければならなかった。
しかし、そうなってから対処しようと思えばもう遅い。この状況で人々から芋を奪うと、この世界の住民は一月持たず絶滅するだろう。
だからといって、他の万能食材を新たに生み出して芋の二の舞になることは避けなければならない。だが芋以下の食材では芋に負けて世界に広まることはない。
ならば料理という文明が消失した世界のまま運営していけばいいのかと思うと、それでは世界の価値が低くなり、いつしか崩壊世界と呼ばれる終焉を迎えてしまうのだという。
そうして神が考え出したのが、他の神が管理する世界から料理人を連れてきて、料理が消失した世界に新たに料理を定着させることであった。
「しかし、料理……料理か」
京三はこの道40年を超える料理人である。
生まれて17年、芋以外食べたことがない狩人ニルスにも、その知識や技術は継承されている。
だが、だがしかし、単純に芋料理を開発するわけにはいけない。この世界には、芋以前に重大な問題があるのだ。
「芋しか、ないんだよな」
高度成長期、瞬きすら出来ぬほどに移り変わっていく世界に生まれた京三は、中学を出ると近所の料亭に丁稚のような扱いで入社すると、そこで10年勤め、新店のオープンと共にでようやく料理人として扱われるようになる。
そこからは料亭、レストラン、ホテルと様々な分野で、和食に寿司にイタリアンにフレンチに、ありとあらゆる料理を習得した京三は、55歳にして初めて独立し、取り壊される予定だった実家を買い取りそこを使った小料理屋を開く。
そうして61歳、仕込み中に心臓発作を起こし、永眠。
そんな生涯を送った京三だが、彼は食うものに困るような戦時中に生まれたわけでもないので、金と時間はともかく、食材はあって当然の時代を生きてきたのだ。
「料理しようにも、芋だけじゃなあ……」
そう、芋だけで料理など出来ないのだ。
この世界に農耕はなく、畜産はない。つまり、京三が生まれた世界ではあって当然だった、人の営みによって生み出され育てられたありとあらゆる食材が存在しないのである。
「……ん? 生でも食えるのか」
ニルスの記憶では、芋に火を通すことは稀であった。生で齧ることの方が多く、気が向いた時に茹でる程度だ。
じゃがいもは生で食べられないと言われているが、毒があるわけではない。消化しづらいでんぷんを含んでいるのが原因なので、食べたら腹を壊しやすいというだけだ。
しかし、この世界の芋はそうではない。生でも問題なく食べることの出来る万能食材だ。
芋の土汚れを水で洗い流し、恐る恐る齧る。シャクシャクとした触感は固めの梨のようで、火を通した時のうっすらとした塩味は一切感じない。逆に生だと甘味が際立ち、フルーツのように食べられるのだ。
溜息交じりに小屋の中をぐるぐると周りながら芋を齧っていると、ニルスの記憶に食材候補があったのを思い出した。
「あぁ、そうか。そういえば――」
小屋を出る。そこには、屋根が取り付けられた作業場があり、今朝狩った獣が処理しかけで放置されていたのだ。
「グゾエオオブドリ――だったか」
成人男性ほどに巨大な鳥が、更に巨大な丸太のテーブルの上に置かれている。
ニルスは辺境の地に住む狩人だ。狩人といっても食事用の獲物を狩るのではなく、害獣を駆除する仕事のようだ。
害獣とはいえ、侮れない。日本では、いいやあちらの世界では考えられないほど巨大に育った、恐ろしき獣達である。
どうやら狩人は被差別民の仕事であるらしく、村から離れた森の中に小さな小屋を建て、そこに一人で暮らしている。
歳は17歳、幼少期から肉体労働に励んでいるからか、体つきは立派なものだ。栄養バランスはどうなっているのだろうかと、少しだけ気になった。
ニルスの手首には、黒い痣のようなものがある。
その痣は『魔憑き』と呼ばれ、大昔に魔の者と混ざり合った証拠だという。それが、ニルスが人でありながら差別されている理由であろう。
しかし、京三は魔の者というのが何か分からなかった。
今回ニルスが仕留めたグゾエオオブドリという大鳥も成鳥になると人を襲い、子供くらいなら頭を掴んで空を自由に飛び回ることが出来るほどの力がある化け物のような鳥だ。
京三の認識では、鳥類というより映画などで見た、空飛ぶ恐竜に近い。
翼を広げた大きさは大人二人分の身長をゆうに超えるほどだが、これでもニルスが狩る獣の中では小さい個体だ。
このような人を襲う獣を狩り、羽根や皮などを剥ぎ取り町で売り、代わりに矢や衣類を手に入れるのが、狩人の生き方である。
「……食えるのか?」
ニルスは、これまで自身が狩った獣を食べたことがなかった。 それは、生まれてこの方そういうものだと思っていたからだ。
食べ物といえば芋。芋以外は食材ではない。遺伝子にそう組み込まれているから、獣の死骸を食べようと思ったことすらなかったのだ。
料理をしたことがなくとも、愛用のナイフを使い手際よく解体していく。しかしあまりの巨体に普段通りの処理だけで数時間かかり、やっと肉、と思った時には陽が落ちてしまっていた。
丸一日掛けて獣を狩り、それからまた一日近く掛けて解体するのがニルスの日常である。
若く健康な肉体とはいえ、自身の身体より大きな鳥の解体は相当に体力を使う。結局その日は小屋に戻り、蒸かしたまま放置していた芋を一つ齧る。
冷えた芋は、蒸かしたての芋と同じような塩味を感じた。口に入れた時の温度は関係ないんだなとまで考えたことは覚えていたが、寝つきの良いニルスは泥のように眠ってしまった。
◇
翌朝、日の出前に目を覚ましたニルスは、寝ぼけ眼を擦りながら日課を行う。
狩猟に使う弓矢の手入れし、消費した罠を作り直し、数本の刃物を研ぐ。
食事は昨日掘って台所に転がしていた芋を口に放り込み咀嚼する程度で済まし、二時間ほどかけて日課を終わらせると、ようやくグゾエオオブドリの解体を再開する。
「……ここが肋骨か」
人ほどに巨大な鳥なので、ひっくり返すだけでも重労働である。
仰向けにし、腹を向けて皮に触れると、手触りで骨を探す。超巨大な丸鳥と思えば、解体の手順も分かるのだ。
解体用のナイフを皮に差し込み、尻から腹を開く。――悪臭に思わず鼻を押さえた。
「くっせぇ……」
いつもは、羽根を毟ると近くの森の中に引きずって行き、無造作に捨てていた肉だ。食べるつもりなどなかったから、内臓が腐っていようが気にしていなかった。
だが、食べようと思った時にこれはキツい。一瞬にして食欲が失われるのを感じるが、手は止めない。
「二日で腐るってことは、相当足がはやいのか? 肉は腐ってないよな……?」
肉に鼻を近づけるが、内臓の臭さに隠されてあまり分からなかった。ひとまず解体を終わらせようと決め、少しずつ内臓を取り出していく。
「総排泄孔……じゃないな。女性器か? 鶏とは違うんだな」
どうやら、グゾエオオブドリは鶏のような繁殖方法をする鳥類ではないようだ。
鶏ならば総排泄孔があるところに穴が二つ。片方は腸のような管に繋がり、もう片方は子宮のような赤黒い臓器に繋がっている。
少なくとも可食部位ではないはずなので切り取り、ゴミ箱として使われている空いた木箱にぶちこんだ。
その後も悪臭に鼻を曲げながら内臓を一つ一つ取り出し、どのような生物なのかを調べていく。食べる前に、まずは食材を知らなければならないのだ。
「……胃だな」
中でも最も巨大な臓器は、胃であった。
鶏のような腺胃ではなく、丸々と膨らんだそれを割らないように丁寧に取り出し、そしてナイフを差し入れる。
中にあったのは、溶けかけた落花生のような殻と、鳥の羽根のようなもの。どうやらこのグゾエオオブドリは固い種実や小型の鳥類を食べていたようだ。
「つまり雑食か」
基本的に、肉食の動物は不味いとされる。食べたものの香りが肉の香りとなるからだ。
ほかにも、畜産目線では肉を取るための家畜に肉を食べさせるのでは効率が悪いという話もある。
しかし豚や鶏は雑食だ。飼育下で肉を食べさせることはないが、牛のように消化機能がないわけではない。グゾエオオブドリは人を襲う鳥とされているが、人を食べることもあるのだろうか。あまり考えたくないな。
千切れやすい食道もゆっくりと抜き取り、ようやく中抜きが完了した時には解体開始から二時間ほど経過してしまっていた。
内臓が詰まった木箱の悪臭も気になるので、いったん木箱を小屋から離れたところに持っていくと、ずっと待っていたのか、巨大な狼のような獣が静かに森の中から現れた。
狼はこちらを一瞥すると、まるでドッグフードを食べる飼い犬かのようにがつがつと木箱の中身を食い荒らしていく。
「エルテ。遅れて悪かったな」
ニルスの口から、そんな言葉が漏れた。それはあの大きな狼の名だ。
普段ニルスが狩った獣の死骸は、エルテやその家族らしき狼が食べている。
エルテはすぐ近くの森に住む主のような存在らしく、ニルスを丸呑み出来そうな巨大な口があるが、不思議と襲われたことはない。どうやら共存関係を築けているようだ。
ニルスが狩ってきた獣を食べさせてもらう代わりに、小屋の周囲に人を襲う獣が近寄らないようにしてくれているのだとニルスは認識しており、エルテという名前を付けたのもニルスだった。
エルテは木箱の中身を平らげると中身をべろべろと舐め回し血の一滴すら残さず綺麗にしてくれたが、まだこちらをじっと見ている。
「あぁ、そっか。肉も食べたいんだよな」
返事はない。いつもは羽根を毟るとそのまま貰えるはずなのに、今日はなぜか内臓だけだったのだ。不思議に思うのも当然だろう。
「ごめんな、ちょっと俺も食べれるか確認したいんだよ」
言葉が通じるのかは分からない。だが、しばらくこちらを見ていたエルテは、特に文句を言うことなく黙って森の中へ帰って行った。どうやら意図は伝わったようだ。
「食べれなかったやるからさ」
その小さな呟きは、聞こえているだろうか。
さて、調理開始である。
薪を多めに並べ、火力を上げて小屋唯一の調理器具である鍋を加熱する。当然鍋に引く油などないので、脂身のついた皮を並べ、油が出るのを待っていると、くつくつと音を立てて油が滲み出てきた。
「んー、香りは悪くないな」
鶏油を作る時のような香味野菜はないので判断しづらいが、油の香りとしては悪くない。
サラダ油のように無味無臭ではないのでなんにでも使える油というわけではないだろうが、最低限食用油としての役割は果たしてくれるはずだ。
「……いや油出すぎだろ」
鍋から少し離れたところで肉を切っていたから、すぐには気付けなかった。
音が小さくなってきたので鍋に目を向けると、肉を覆い隠すほど油が出ていた。体積狂ってんじゃないか?
「鍋もう一個洗っといて良かったな」
取っ手が壊れて使わなくなっていた鍋を見つけていたので、そちらに大量の油を流し、最低限だけ残して火にかける。煙が出るほど加熱したら、切り出したグゾエオオブドリの胸肉をじゅっと置いた。
「…………臭いッ!!」
加熱をはじめてすぐ異変に気付く。猛烈に臭いのだ。鼻につんとする刺激臭、これは恐らくアンモニア臭だ。
「うーん……臭豆腐と思えば、まぁ……?」
中国で現地人が行くような夜店に近づくと、必ず嗅ぐことになる臭豆腐の臭いに似たものを感じる。慣れれば食べられないことはないのだが、慣れるまでが辛い食材である。
食中毒を警戒して、しっかりと色が変わるまで焼く。これで異世界特有の加熱しても死なない細菌なり寄生虫なりが居たら終わりだが、それを警戒していたら何も食べられない。
しばらくすると最初のアンモニア臭は随分と落ち着いてきたように感じるが、もしかしたら鼻が慣れただけかもしれない。
「……頂きます」
手を合わせると、箸やフォークすらないので肉にナイフを突き刺し持ち上げ、鼻を近づける。調味料もないので、そのままワイルドなスタイルで齧りついた。
「んむ、うむ、もぐ……」
咀嚼。口の中にじんわり広がるアンモニア臭。しかし、耐えられないほどではない。
「……食べられないくらい不味いわけじゃないな」
しかし、この肉と芋のどちらを食べるかと言われたら、万人が芋を選ぶだろう。京三としての意識ですらそう感じるのだ。
アンモニア臭は人を選ぶ。臭み消しによって無くなるかもしれないが、栄養的にも娯楽的にも芋以外の食材が存在しないこの世界においては、手間を掛けてまで食べるものではないだろう。
芋に飽きるとか、たまには違うものが食べたいといった感覚が、そもそもこの世界には存在しないからだ。息を吸うことに飽きないのと同じである。
「はぁ、芋で十分だな……。っと、いけないいけない」
慌てて思考を整える。ニルスの意識に引っ張られ過ぎだ。
京三は芋だけだと飽きると感じるし、料理を広める以前に優先すべきが自分の意識改革である。
「芋だけで栄養が足りてる状態か……」
どういうことなのか、京三には分からない。
生きるのに必要な全ての栄養が過不足なく摂取出来る食材がある以上、仮に料理を生み出すことに成功しても栄養学的に見ると問題がある。
余分な食事が生まれてしまうと、この世界に栄養素の概念を広めなければならなくなるのだ。しかし、これは問題としては二つ目である。
一番大事な一つ目の問題は、食事を娯楽であると感じさせることだ。ニルスが特異種というわけではないのなら、この世界の人間に味覚がないわけではない。ただ、芋で十分だから芋しか食べていないだけなのである。
――ならば、まずは芋料理からか。
普通に食べられるのなら何十人分になるか分からないほど大量の肉は、名残惜しいが日持ちもしないので捨てることにする。
干すなり塩漬けなり燻製なりを試してみたい気持ちはあるのだが、そのための調味料すらないのだ。干した程度で臭みが消えるとは思えないので臭み消しをしたいが、何を使えばこのアンモニア臭が消えるか分からないし、材料を見つける前に間違いなく腐る。
多少は日持ちすることを祈って油を取るために皮下脂肪のしっかりついた皮だけを残し、残りは木箱に押し込み小屋から少し離れたところに置くと、すぐにエルテの家族らしき子狼らが食べに来た。
子狼といっても、超大型犬ほどには大きい。どうやらエルテは不在のようだが、もしかしたら森の中からこちらを見ているのかもしれない。
森は木々が鬱蒼と生い茂り、ここに住み慣れたニルスにとっても異界のような空間である。
「うし、作るか」
そう覚悟を決め、呟いた。
紙とペンどころかこの世界の文字すら知らないニルスは、唯一知る言語である日本語で木の板に予定を彫る。