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「お、お兄ちゃん、何あれ……」
「わかんない、何かの儀式かな……?」
何かの焦げる香りが漂ってきたからか、ベッドで寝かされていたカルロとベルタの二人はほぼ同時に目が覚めた。
小屋の中に誰も居ないことを薄目で確認するとベッドから降り、恐る恐る小屋の外を見ると不可思議な光景が広がっていた。
先程の青年と、見たことのないほど大きなノーブルウルフが何かを口にしている。
あれは狩人の特有の儀式か何かだろうか? 似たような儀式を祈祷師が行っているのを以前見たことがあった。獣の死骸に火を付けて、燃やして供養とするのだ。
確か、人の営みを手助けし天寿を全うした馬に感謝を捧げる儀式だったはず。
数年前に村最後の馬が居なくなってからは儀式を見てはいないが、似ているような気がする。
ただ、それにしても火が多い。広場の至る所に焚火があり、それぞれ何かを焼いている。小屋まで漂ってきた焦げる香りは、あそこから出ていたようだ。
「あ、起きた?」
こっそり見ていることに気付かれたのか、青年が何かを持って近づいてくる。
「ご、ごめんなさい! 覗き見するつもりじゃ――」
「ん? いや別に良いよ。半日くらい寝てたみたいだけど、ちょっとは休めた?」
「は、はい! おかげさまで!!」
丁寧な言葉遣いを母に教えて貰っていて良かった。
知らない人を相手にしたら、相手に警戒されないために子供でも言葉遣いを気を付けなければいけないと教育してくれた母に、心の中で感謝を述べる。
「話聞かせてもらいたいけど、お腹すいた?」
「あ、はい、いえ、でもまだ持ってきた芋があるので……」
「これ、一緒に食べない?」
青年がこちらに持ってきたのは、――何だろう。
皿に載せられたのは、白い何か。何かとしか思えないのも当然だ。カルロは人生で初めて、芋でない食材を見たのである。
ベルタはビクリと縮こまり、小屋の中に隠れてしまった。
祈祷師は、儀式を邪魔する者に容赦しない。
邪魔した罪で村人が殺されるときは、必ず村人全員が集められて見せしめに磔にされ、三日三晩鞭を打ち続けるのだ。
カルロはその光景を見たのはたった三度であるが、祈祷師には逆らっていけないと心に深い傷を負ってしまった。ベルタもその光景を思い出したのだろうか。
「あー……何か怖がらせちゃったか? エルテか? エルテなのか?」
「ぼくがこわいの?」
近づいてきた巨大なノーブルウルフが、人語を喋ったので、思わず声を失った。
確かに昔聞いたことがある。群れの主になったノーブルウルフは人語を理解するのだと。
しかし、理解するとは聞いたが喋るとまで聞いたことはない。ベルタは隠れたまま嗚咽を漏らしている。
「ご、ごめんなさい、罰は自分が受けます! 妹は何も知らないんです!!」
「いや、あの、別に脅してるとかじゃなくて、あれ、何か勘違いされてる?」
慌てて両手を振る青年を見ていると、祈祷師が振りまいていたような露悪な雰囲気が感じられないことに気が付く。
青年を見ないようにしているベルタは気付いていないようだが、カルロはこの青年が自分たちに悪意を向けているとは思えなかったのだ。
「あぁ、そういえば名乗ってなかったっけ。俺はここで狩人をしてるニルス、でこっちは友達のエルテ」
「えるてだよ」
「君らは、ララコ村から逃げてきたんだよね。追い出された? それともその前に自分達で出てきたのかな。そっちの妹さんは魔憑きみたいだけど、君はそうじゃないみたいだし」
「……どうして分かるんですか?」
「俺もそうだから」
そう言うと、ニルスと名乗った青年は手首を見せてくれた。
そこには妹と同じ、いいや、妹よりも更にはっきりとした真っ黒な痣がある。痣は手首から上り肘の近くまで続いているようで、血管に沿うような不思議な模様を描いている。
「……村に住んでたアラン兄ちゃんが、森の中にお爺さんが住んでる小屋があるって言ってたのを思い出したんです。その人なら助けてくれるんじゃないかって、ここに来ました。お爺さんはどこかに居るんですか?」
「あー……ヨーアンさんのことかな。それなら3年前くらいに死んだよ」
「えっ…………」
小屋に辿り着いたことで、てっきり予定通りに進んだのだと思っていた。
けれど違った。アラン兄ちゃんのお爺さんはもう亡くなっていたのだ。会ったことはないが、アラン兄ちゃんがああも慕っていた人なら、自分たちを助けてくれると思っていたのに。当てが外れたカルロは、言葉を失って立ち尽くす。
「そういえばアランも最近こっち来てなかったっけ。まだ村に住んでるの?」
「い、いえ、2年前くらいに村を出て行きました。それきり帰ってきてません」
「そうなの? じゃあ妹の――あれ、名前なんて言ったっけな、アランに妹居たよね」
「……ヨハナさんのことですか? 村で結婚して、子供が生まれてました」
「あー、そっか、だから最近来なかったのか」
「……お二人のこと、ご存知なんですね」
「まぁ、昔から知ってるしね」
ニルスはそう言うと、空を仰ぐ。
しかし、カルロは不思議だった。アランと同じくらいの年のようだし、ニルスの言葉からはアラン達と仲が悪かったようには感じない。
それならどうして祖父と一緒に住んでいたはずのニルスの話を一度も聞いたことがなかったのか。
「俺のことは聞いてないでしょ?」
「え、あ、はい」
不思議な雰囲気の青年だ。身体は大きいが怖くない。けれどその瞳は心の奥底まで見透かされているかのように感じる。
「たぶん俺、村では死んだことになってるんだよね。生まれてすぐ捨てられたからさ。それで、俺が生きてるって他の人に知られたくなかったんじゃない?」
「……え?」
「今から17年前かな、村で生まれた魔憑きが、生まれてすぐに捨てられたみたいな話聞いたことない?」
「あ、あります!」
何せ幼い頃からそれを聞いていたから、妹がそうなる前に逃げだしたのだ。
ただ追い出されるのではなく、森に住むノーブルウルフの長に供物として捧げられる妹の姿なんて、見たくなかったから。
「その時の子供が、俺ね」
「ノーブルウルフに食べられたんじゃなかったんですか……?」
「まぁ俺自身はその時のことは当然覚えてないけど、森の主がここに住んでるヨーアンのところまで持ってきたって聞いたよ」
「…………」
言葉を失った。
確かに、彼の隣に座っているノーブルウルフが赤子を口で咥えれば、食べたようにしか見えないだろう。たとえ最初から食べるつもりなどなかったとしても、大人だろうが丸呑み出来そうなほど巨大な口を見てしまえば、恐ろしくて最後まで見てないに違いない。
「ヨーアンさんは魔憑きじゃなかったけど、俺をここで狩人として育ててくれたんだよ」
「……そうだったんですね」
カルロには、ニルスが嘘を吐いているようには見えない。
それに、ここまで来てしまった時点でどうせ他の道などないのだ。故に、アランの祖父ヨーアンに頼むつもりだったことを、彼に伝えることに決めた。
「ニルスさん――おれ達を、ここで生活させて下さい!」
「あ、うん、良いよ。人手も欲しかったし」
「え、あ、はい、良いんですね」
想像以上にあっさり了承されたことに拍子抜けしつつ、ようやく落ち着いてきた妹が再び小屋の外に出てくる。
「じゃ、とりあえずこれね。ちょっと冷めてると思うけど食べて感想お願い」
「…………はい」
こちらから無理難題を突き付けた以上、彼のお願いを断るわけにはいけない。
彼が持っているのが何かは分からないが、食べるということは食べ物――のはずだ。
ふと、彼が先程まで居たあたりを見る。そこには見たことのない獣の死骸が散乱していた。……いやまさか、あれか? あの獣の、肉なのかこれは?
カルロは当然、生まれてから芋以外を食べたことがない。
昔は芋を食べられない幼児に馬乳を飲ませる習慣があったと聞いたことがあるが、物心ついた時には自分もベルタも芋を食べていたので、飲んだ記憶はない。
「……失礼します」
ニルスから皿を受け取り、じっと見つめる。
こうして近くで見ると、不思議な香りがする。だが恐らく獣の死骸だ。
狩人には獣を食べる習慣があるのだろうか? そんな不思議な習慣があればアランが感想を語っていたはずと確信しているカルロは、ニルスがおかしいのだとすぐに結論付けることが出来た。正解である。
「えっ、あ、う」
まずどうやって食べれば良いのか分からなかったが、ニルスが自分の皿にある肉を手で摘まんで口に放り込んでいたので、同じように食べてみることにした。
口に入れた肉を、恐る恐る咀嚼する。
――――何だ? 何だこれは。べたべたする。どことなく芋の風味を感じる気がするが、気のせいかもしれない。
何というか、べたべた、もちゃもちゃするのだ。噛んでみても生の芋より全然固いし、繊維質なのか上手く噛み切れない。
しかし、吐き出すわけにはいけない。それでニルスの機嫌を損ねてしまえば、追い出される可能性だってあるのだ。
妹を助けてくれる相手は、今はニルス一人しか居ない。ならば獣の死骸だって、食べて見せる。覚悟を決めてもぐもぐと口を動かし続けていると、思ったより不快な味がしないことにようやく気が付いた。
べたべたもちゃもちゃするし固いとは思うが、何故だろう。
「こ、これ、何なんですか」
砕けた肉片をごくりと飲み込み、涙目になりながらニルスに問いかける。
ちなみに涙目になったのは固いものを食べ慣れていないため、飲み込むタイミングが早すぎたからである。
「あー、正式名称は分からないけど、ツチブタの肉だよ」
「ツチブタ? そこの……獣のことですか?」
「そう。個人的には美味しいと思うけど、どう? 微妙?」
「…………『おいしい』?」
その言葉は、カルロの知っている言葉ではない。狩人の専門用語なのだろうか?
必死に思考を進め、ニルスが何を言っているか考える。
ニルスとの応対で一つでも回答を間違えれば妹の命が危うい。そう考えていたカルロは、齢12歳とは思えない論理的思考を元にニルスの言動を理解しようと必死に考えていた。
「不快では、ないです」
「あぁ、良かった。でもあれかな、固い?」
「……はい、固いです。それに、べたべた? もちゃもちゃ? してます」
「固いにべたべた……なら、このへんはどうだろ」
僅かに燃えている火のところに行ったニルスが、そこから拾った追加の肉を持ってきた。カルロの皿に置かれたのは、再び獣の死骸だ。
無意識化で「ひ」と変な声が喉から漏れる。恐らく聞かれたはずだが、ニルスの表情に変化はない。
「ツチブタのヒレ肉。さっきのよりは柔らかいし、脂も少ないと思う」
ニルスの言葉は祈祷師や呪術師の呪文か何かにしか聞こえないが、何かしらの実験に付き合っていることだけは理解していた。
恐る恐る口に運び、再び咀嚼する。
「ん……あれ」
最初の肉で感じた、べたべたも、もちゃもちゃも、固いとも、臭みもあまり感じない。
当然芋とは違う食材だが、もしかしたらこれも人が食べることの出来る食材なのではないだろうか? 芋以外は食材ではないと思っていたが、もしかしたら狩人はそれより沢山の食材を食べているのかもしれない。
この森では芋が育たたないとか、そういうこともあるのだろうか。
カルロの認識は、人は芋を食べる生き物で、獣は獣を食べる生き物だ。
獣の肉を食べるニルスは、人より獣寄りなのだと思っていた。故に恐ろしく見えていたのだ。
だが、ひょっとしたら間違っているのは自分なのではないかと、人生で最も冴え渡る思考が、結論を見つける。
「そ、その、狩人の人は皆こういうものを食べてるんですか?」
「ん? あぁ、別にそういうわけじゃないよ。たぶん俺が変なだけ」
ニルスがその後に小さく呟いた、「俺にしてはこの世界の方が変だけど」という言葉は、カルロは聞き取れなかった。
「意味は、あるんですか」
思わず、問いかけてしまう。普段のカルロならここまで高等な思考を行ってはいない。
だが、妹のためにニルスの言動を理解しようと思考を進めてしまったカルロは、この世界の住民では考えもしない思考に行きついてしまう。
それはつまり、芋以外の食材への理解だ。
ニルスを理解をするために更に思考を進め、彼の言葉から情報を拾い上げ更に、更に先へと思考を進める。それは通常ならば何世代も重ねないと起きないような、人間の思考におけるパラダイムシフトである。
「難しいことを聞くね。うん、質問に答えるよ。もしかしたら、この行為に意味はないかもしれない。けど、俺はそれが必要だと思ってる」
「芋以外を食べることが、ですか?」
「そう。考えたことはない? ここに居るエルテみたいな獣は、人でも草でも獣でも何でも食べるのに、どうして人は芋しか食べないのか」
彼は隣に居る巨大なノーブルウルフを指して言う。
それは、聞くまでもない。馬が草しか食べないように、何でも食べる生物も居れば一種しか食べない生物も居るから。
鼻血が垂れるほどに脳が回転しているカルロは、常人では考えられない速度でその結論を付けようとする。
だが、どうだろう。ニルスの言っている言葉を理解しよう。彼は言った。「この行為に意味はないかもしれない」と。ならば彼は恐らく人間という種全体のことを言っているのではなく、そういう生き物も居るという話をしているだけなのではないだろうか。
となると、カルロの回答も、自分という生命体を基準とした答えとなる。
「それは、そういうものだからです」
人間は、芋を食べる生き物だから。答えるべきは、それでいいはずだ。
「そう! それも正解。そういう生き物、そういう思考の生物だから、そうしてる。このエルテは本当に何でも食べるけど、食べないものもある。木とか金属とか土とかね。ならその生物が食べているのは、あくまでその生物が食材だと認識しているものだけだ。で、俺はこれを食材だと認識しているから、今食べている。じゃあ君は? 今ツチブタの肉を食べたけど、それをどう思う? 獣と同等の醜い行為だと思う? それとも食事の一種だと思う?」
「…………」
ニルスが、ニルスと京三の二人合わせて80年分近い人生経験を持つが故の思考回路で言葉を紡ぐのに対し、この世界のことしか知らず生まれてたった12年しか経っていないカルロがニルスの言葉を理解しようとし論理的な思考をし答えを導き出せるのには、理由がある。
――そう、神だ。
この状況には、この世界の神が関与している。カルロの12歳なりの思考を神の加護によって超強化し、ニルスの言葉を理解させようとしているのだ。
しかし、神はカルロの思考を強化しているだけで、思考の行く末を操作しているわけではない。単純に、ニルスと、京三と同等の思考が出来るように、人生70年分近い思考力を分け与えているだけなのである。
こうも神がカルロに肩入れするのは、一つ。それは料理のためだ。
ようやく巡り合った、偶然の出会い。これを機に料理を広めてもらえればと、神はニルスに陰ながら協力しているのである。
当然ニルスはそんなこと気付いていない。賢い少年だなとしか感じていなかった。
「異種族の行いを貶してはならない、それは我らに理解出来なくとも、彼らには至極当然のことなのだから――」
カルロが紡いだその言葉は、10年前に聞いたある祈祷師の言葉である。
物心つく前のカルロはその言葉をどんな時に言われ、どのような意図で言われたのか覚えてはいない。それでも、人生数周分の思考力を与えられたカルロは、過去に聞いた言葉を引用する形で、その言葉を口にした。
「僕は、ニルスさんがどうして獣の肉を食べるか分かりません。ですが、理解せずとも僕はそれを食すことが出来ました。つまりそれは、僕もそういう生命体だから、です」
先程から兄が意味の分からない言葉を紡ぎ続けているのを横で聞いているベルタは、気が気ではなかった。ベルタに関して神が関与していることは何もないからだ。
しかし、それでも今の兄に、ニルスに口を挟んではいけないことは理解していた。
「うん、それで合ってる。俺は『美味しい』という概念を広めるためにここに居る。それを君にも覚えてもらいたいと思うよ」
「おいしい、ですか」
「そう。目で見て、鼻で嗅いで、舌で感じる、人間が持つ感情の一つ。食事をし、そこから溢れ出るものが、『美味しい』っていう感情なんだ。きっと今は理解出来ないだろうけど、いつか理解させてみせるよ」
ニルスが「今は理解出来ない」と言ったことで、カルロにおける超高速の思考回路は一旦続きを考えることを放棄した。理解しなくても良いと言われたからだ。
神の与えた思考力が失われたわけではないが、理解出来なくとも良いと言われたことを理解しようとしても、正しい結論に至れる保証はないと理解したからだ。
「……ベルタも食べるか?」
ベルタにとっては、皿を差し出してきた兄が突然おかしくなったように思える。それは、ニルスと会話を始めてからだ。ニルスに渡された獣の肉を食べてからだ。
――ひょっとしたら、これを食べることで狂ってしまうのかもしれない。ベルタはそう考えてしまうが、ここで拒否したら兄の献身が無駄になるとも感じている。
「うん」
そう答え、兄と同じように肉を指で摘まむ。ほんの少しだけ暖かい肉は、僅かに脂をしたたらせ指先を湿らせる。その不快感に指を離しそうになりながら、恐る恐る口へ入れた。
「…………」
「ど、どうだ?」
兄は、いつもの兄だ。先程までとは違う、いつもの兄の表情で、不安そうにこちらを覗き込んでいる。
その表情が意味の分からないことを話していた兄とあまりに違って、少しだけ緊張が解けてきた。
「……これが、『おいしい』、ですか?」
兄でなく、ニルスを見てベルタは聞く。兄はまだこの感情を理解出来ていないからだ。
「食べて嫌じゃないのなら、そうかもね」
「なら、これはおいしい――です」
口の中に広がる豚の香り。滴る脂、それは、芋では絶対に感じることのなかった刺激。
カルロは味でなく脳に意識が集中されていたから味を考えるほど思考に余裕はなかったが、ベルタは違った。ベルタは、二人の会話の意味が分からないからこそ、純粋に食べた感想が言えたのだ。
それは、この世界、この時代。二人目となる美食の探究者が生まれた瞬間である。




